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逃げ場は、ない

「さて、話は変わりますが江川君。実は我々聖教会・日本支部本部では現在アルバイトを募集しています」

 急に結木の口から出た俗っぽい言葉に鉄の肩がピクリと揺れる。


(今アルバイト、と言っただろうか)


 結木の目は悪戯っぽく細められている。

「前々から人員不足ではあったんですが、なかなかいい人材が見つからなくて困っていたんです」

 結木は満面の笑みを浮かべて続ける。

「その点、江川君はあの純潔の槍で切られても無傷ですからね。才能があります! 棚からぼた餅とはまさにこのことですね」

「ボタモチ……」


(は、もちろん俺だよな)


 褒められているのか、けなされているのか、はたまたからかわれているのか分からない。不信感と猜疑心は隠し切れないが、数時間前に失ったばかりのアルバイト、そしてそれに伴った収入の事を思うと鉄の心は揺れに揺れる。

「……ちなみに、あくまでちなみにですけど、時給の方は?」

 あくまでを強調しながらおずおずと聞いてみた鉄に、結木はフフンと得意げに鼻を鳴らして指を二本突き立てた。

「に、二千円っ!?」

「いえいえ、桁が一つ違います」


――桁が一つ違う。


(二万っっ?!)


「やりますっ! 是非やらせてくださいっ」

 鉄はすかさず思いっきり挙手した。

 高額――いやいや、そんな言葉で表現してはいけない。破格、である。

 時給二万円で働いている高校生が世の中に何人いることだろう。これは逃せば、一生どころか恐らく来世にもない。

 鉄は狂喜のあまり小躍りしそうになる。

「本当にいいんですか? ちょっと肉体労働が多いと思いますが、問題ないですか?」

「ないです、全然ないです!」

「あとは始めたら余程のことが無い限り、そうですね、当分は辞めることが出来ないんですが」

「大っ丈夫です! お任せくださいっ」

 鉄はドンと胸を叩いた。むしろそんなおいしいバイトを辞めさせられないで済むなんて願ったり叶ったり、万々歳だ。

 それを聞いて結木はほっと胸を撫で下ろした。

「そうですか、それは良かった。本当に助かりますよ、江川君。ありがとうございます」

「そんな! 俺の方がお礼を言いたいぐらいですよ、ハハハ」

「そう言っていただけると、胸のつかえが取れますよ。ハー、良かった良かった。では、仕事の内容なんですが――」


――避けましょう。不穏な成り行き、怖い人。


(あ、れ……?)


 なぜか人生のモットーが頭の片隅を過る。何かを察知したらしい脳内トラブルセンサーが発動し警鐘を鳴らして鉄に警告する。自然と体が強張る。

「あ、すみません、もう一度言ってもらえますか? ちょっと聞き取れなくて……」

 鉄は動揺を隠して聞き直した。

 とその時、コツンと靴音が静寂の礼拝堂内に小さく反響する。

「あぁ、来ましたね。前から探していたアルバイトの件ですが、江川君が快く引き受けてくださいましたよ。江川君、彼女は君をフォローするパートナーです。仲良くしてくださいね」

 結木はにこやかに鉄の背後に立つ人物を示す。


(まままさか……)


 恐る恐る鉄は後ろを振り返る。

「こんばんは、江川鉄君」

 そこには蝋燭の淡い光をその可憐な横顔に受けたカナン・マジェッツの姿があった。

「すみません、やっぱりさっきのアルバイトの件はお断りさせていた――」

「もう承諾してくださいましたよね」

 疑問形ではなく確認形で被せ気味に発せられた重い言葉。先ほどと変わらないはずの結木の笑顔が今はなぜかとてつもなく恐ろしい。

「ぃ、いや、やっぱり高校生たるもの、もっと堅実に低賃金のアルバイトに励むべきかと……」

「承諾、しただろうが」


(ヒィィイィィィっ!!)


 この人は神父でもなければ詐欺師でもない。もっと裏の、血なまぐさい事を生業とする人に違いない。優しい笑顔から発せられる殺気じみた気迫に鉄はタジタジだ。

 結木はにっこりと微笑み、わざとらしく胸を撫で下ろす。

「ですよね。さっきしたばかりの約束を破るなんて、そんな非道徳的な事、江川君しませんよね。すみません、疑ったりして」

 鉄の沈黙を強制的に肯定とした黒い策士は、すみませんね、などと心にもないことを繰り返す。

 これではいつかカナンに関わって抹殺されるよりも、結木に血祭りに上げられる方が大分早そうだ。


(なんつぅーところに来てしまったんだ……)


 カナンに関わらないで欲しくて、それを結木からも打診してもらうために来たはずが、いつの間にかこんなことに。本末転倒過ぎる。

 放心状態の鉄にカナンが一歩近づく。カツンと軽い押し音が静かな礼拝堂に響く。

「全力でフォローします。どうぞよろしくお願いします」

 そう言って深々と頭を下げるカナン。その少し後ろで黒く微笑む結木。


――逃げ場は、ない。


「……マジでぇーっ!?」

 息を思いっきり吸って鉄は絶叫した。

 十字架の前で天を仰いで叫ぶ姿。それだけを見れば、それはさながら神の啓示を受けた聖人そのものであった。


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