策略
「綿貫さん?」
そう呼びかけて近づく吟に向かって男が走り出した。男は手にハンカチを持っていた。男は吟を回り込み、吟の上半身を固定し、ハンカチを吟の口にあてた。吟は突如のことに驚き抵抗したが、強く抱え込まれ、振りほどくことができなかった。危険を感じできるだけ息を止めていたが、我慢しきれず吸い込んだとき、ハンカチに染み込んでいた薬品を吸い込んでしまった。急に意識朦朧となり、やがて吟は気を失った。
男は頭をすっぽりとバイク用のフルフェイスマスクで覆い、また手には手袋をしていた。男はマスクを脱いでポケットに入れると、失神した吟を抱えて屋上の鉄柵にただ一つだけあった扉まで行った。男は扉を開け、吟の手をとると、その扉のあちこちを握らせた。鉄柵と屋上のふちの間隔は一メートルほどあった。男はそこに吟を仰向けに横たわらせた。
男は胸ポケットから封筒を取り出し、中から書類を取り出し、吟の手のひらを二度、三度と触らせた。それを封筒に戻してから自分の胸ポケットに戻した。続いて吟の上着のポケットを探し、スマホを見つけた。吟の親指を使ってスマホの認証をとき、メール画面から栄一郎が送信者となっている四通のメールを削除した。その後もしばらくスマホを操作してから、吟の上着のポケットにスマホを戻した。
鉄柵の扉から屋上に戻り、塔屋の内側からドローンを取り出すと吟から少し離れた場所に置き、ドローンに装着されたカメラを吟に向けた。男は胸ポケットからスマホを取り出し操作すると、吟の姿が映し出された。周囲は薄暗いが、暗視カメラからの映像は鮮明だ。男はそのドローンの中心部にある箱に胸ポケットから取り出した封筒を入れた。男は塔屋へ戻り、近くにあった照明のスイッチを切った。屋上の照明が切れ、さらに暗くなった。わずかな月明かりしか残らない。男はドアを閉め、スマホで電話しながら、エレベーターには乗らず、階段を降り始めた。
「あ、私です。これまでのところ順調です。ターゲットは屋上に配置してあります。ドローンからの映像がスマホで見れるかと思います。私ですか? 私は来るときと同様に階段を使って移動中です。二十階ですからけっこう大変です」
男はスマホで話しながら階段を降り続けた。
「え、ターゲットが目覚めそうですか?」
男はスマホをドローンからの映像に切り替えた。
ドローンからの映像では、仰向けで横たわっていた御手洗吟がうなされながら起き上がった。二度ほど頭を振ってから周囲を見渡すが、真っ暗でよくわからないようだ。立ち上がるが、めまいを起こし、鉄柵にぶつかった。あわてて反対側に行こうとしたが、屋上のへりにぶつかり、そのまま倒れ込んだ。吟はあるはずの壁を手で支えようとしたが、そこにはなにもなかった。吟は驚いたが、なにをすることもできず、転落する以外なかった。屋上にはもうだれもいなかった。
男は階段の途中で立ち止まり、スマホの映像を見ながら言った。
「どうやら予想した通りの展開ですね。下に降りたらドローンを使って遺書を遺体のそばに置いておきます」
帝都銀行本店ビルから男が出てきた。男は敷地の外に出て、停めてあった車に乗り込むとドローンの操縦装置を手に取り、操作した。屋上に置いてあったドローンが起動し、飛び立った。転落した吟の体の近くまで飛び降り、本体の中心にあった箱から封筒を落とすとそのまま飛び立っていった。ドローンはその後、男が乗っている車の近くまで飛び、男がドアを開けると車の中に入りドアが閉まった。
車の中の男は電話で相手に言った。
「御手洗社長ですか? 無事終わりました。御手洗吟は予定通りビルから転落しました。社長は? ほお、与党の幹事長と会食ですか、さすがに豪勢でしょうね。銀座ですか? 私もあやかりたいものです。ではアリバイづくりはじゅうぶんですね」
車はやがて走り出した。




