93作目 豊穣から暴食が生まれる
ニグラスの体が沸騰するようにボコボコと弾け、黒く濁っていった。身体は引き裂かれ、肉体の隙間からは大きく剥き出しになった歯茎とまるで大槌のような牙が見えた。その口からは噛み潰したような不快な山羊の鳴き声が木霊した。
徐々に肥大化するニグラスを見て本能的に弾丸を放つ、サイズをただ太く、大きくした弾丸は何度もニグラスの体を貫いたが見る見るうちに吹き飛ばされた肉片が収束し再生していく。
「フヒッ…フハハッ!」
ニグラスは最後に大きく笑ったあと沈黙した。そして数瞬の後、巨大な黒い山羊が産声を上げた。両手足はなくなり、最早ただの黒い塊にしか見えないそれは僅かに残った人間の顔がニグラスであると知覚させた。幾重にも張り巡らされた触手のようなものがまとわりつき、触手の隙間からは目や口が見える。体からは粘着性の泥のような体液が零れ落ち、やがてそれが人形のように形作られて自立し始める。
バルバトスは泥人形に弾丸を放ち、正確に頭を撃ち抜く。しかし頭蓋を弾け飛ばされてもすぐに泥が収束して再び立ち始めた。
「メェエエ…メェエエエ…」
「バルさん…?」
「大丈夫だ、なんとかする」
バルバトスの腕の中には異能により熱くなり、異形の怪物を目の当たりにして震えたオイがいた。オイを強く抱き締め、バルバトスは部屋の入口を見た。入口の自身のいる場所の間にはニグラスと泥人形が数体いる。
なんとかしてここから抜け出したとしてもアレは確実に追ってくるだろう。ここで殺しきらないといけない、だがどうやって?俺の異能ではどれだけ撃っても殺せない、せめてなにか、それこそアラクネのような捕縛できる術が俺にあれば…いや、ないものねだりしても仕方がない。"見えざる番犬"をオイの周りに纏わせる、周囲に漂う黒い弾丸にオイが目を丸くしていた。
「これから離れるな、必ずオイを守る」
「は…はい…!」
オイを壁際に寝かせ、ネクタイを締めた。残念なことに黒いネクタイではないが、布の擦れる音と首元が締まったことで意識を強制的に切り替えられた。"英雄の墓標"の一員である以上、約束は違えない。オイだけは必ず生きて帰す。
バルバトスはニグラスに向かって全速力で走る。"見えざる番犬"に使った弾丸は6発、残りの6発でニグラスを殺し切らなければならない。しかし圧倒的な再生力がそれを許さない。再生力に限界はあるのか、彼は今不死身になったのか、様々な憶測が脳裏を駆け巡る。思考力を削ぐように行く手を阻む泥人形を弾丸で撃ち抜く。致命的な一撃ではないが再生している間は襲ってこない。
周囲を取り囲む無数の泥人形に対して、右手を振り払う。6体、弾丸と同じ数の泥人形は頭蓋を砕かれて再生を余儀なくされる。しかし周囲を囲む泥人形はそれ以上に多い、目の前にいる泥人形の頭を掴み膝蹴りを入れる。体温のようなぬるい温度と粘着性のある液体がやけにリアルで不快にさせた。それと同時に詠唱を始め、バルバトスの腕に火が灯る。
「火ノ段 九行目 "火球"」
カトレアから借りた魔力量は決して多くはない、けれど行数の少ない魔法を何度か行使するくらいの余裕はあった。自身の魔法はたかが知れてる、それでもほんの僅かでも足を止められれば御の字だと考えて放った火球を、泥人形は避けた。異能や得意な体術を避ける素振りすら見せなかった泥人形が遅く小さいちんけな火球ひとつを大袈裟に身体をねじって回避した。
泥人形には炎が有効なのか…?試してみる価値はある。
バルバトスは目の前の再生を始めた泥人形に向かって火球を放つ。すると瞬く間に燃え広がり、沸騰して爆ぜた。周囲に泥が弾け飛び、僅かにシミができた。そして再生することなく、跡形もなく溶けて消えた。
「泥には炎が効くんだな、あんまりそういうイメージはないが…」
バルバトスは自身にかかった泥を袖で拭い、脳内に新たな攻撃方法が浮かび上がる。自身の魔法は有効だが速度が極めて遅い、それもそうだ。下から二番目な上に精度も悪い低俗な魔法だからだ。しかし仮にこの魔法によって生まれた炎を弾丸に纏わせることが出来たらどうだろうか。バルバトスは大きく息を吸い、自身の背後に弾丸を6発生成する。小さくては火が消える、大きく、それでいて速度の殺さない範囲で。
バルバトスの背後に弧を描くように生成された弾丸に詠唱した"火球"をぶつけるのではなく、纏わせるイメージで放つ。火球と弾丸、2つの飛び道具が合わさり背後に六つの炎が灯る。
「"焔獄の猟犬"」
炎を纏った地獄の猟犬が、主人の命令を忠実に実行する。バルバトスが異能に与えた命令はただひとつ、目標を直ちに殲滅し、沈黙させること。指をパチンと弾き、燃え盛る弾丸が加速する。回避行動すら取る猶予はなく、周囲を取り囲む泥人形は焼き尽くされ爆ぜた。急速に魔力を消費したことによる倦怠感がバルバトスを襲うが、それでも更に1歩、ニグラスに向かって踏み締める。
幸いなことにニグラスはもう泥人形を産み落とさなかったことでバルバトスは簡単にニグラスの元まで辿り着くことができた。そうして、異能を放つ準備をする。
今度の敵は動かない、一撃で貫けるように弾丸を大きくする。そうして詠唱を始め、炎を纏わせる。目前にいる敵は相も変わらず攻撃しようとする素振りすら見せず、ただ喧しく鳴き喚くだけだった。
「…終わりだ」
弾丸を放った直後、黒山羊にへばりついたニグラスの目線が僅かに動いた気配がしたがそれでも弾丸が到達することに変わりはなかった。やがて炎を纏った巨大な黒い弾丸は黒山羊の身体を貫き、瞬く間に燃え広がった。
振り返ってオイの元に行こうとした途端、周囲の温度が上がっていくのをバルバトスは感じた。慌ててニグラスの方を見ると赤い炎が徐々に蒼くなっていった。豪炎の中で山羊の鳴き声は小さくなっていき、やがて赤い炎は蒼炎に飲み込まれていった。
蒼炎の中で、それは顔を出す。
人はかつて、強大な力の源を神と呼んだ。それは雷であったり、災害であったりと様々なものであるが目の前にいるこれは違うとバルバトスは奥歯を噛み締めながら感じた。
胸元には焼け爛れたニグラスの顔が苦悶の表情を浮かべてべっとりと張り付いており、本来頭部がある場所には山羊に似た顔があった。角が生え、瞳孔は横に黒く広がっている。ニタニタと気色の悪い笑みを浮かべる口元には鋭い牙が広がっており、背中には巨大な手によく似た一対の翼が生えていた。
「ァ…アー、キコエテルカナ?」
ニグラスとは似ているが非なる声がひとつ、室内に響く。オイはその瞬間に嘔吐し、頭を抑えた。バルバトスでさえ、悪寒が走り額に汗が滲み出た。
「…お前は何者だ、ニグラスはどうした」
「シンダ…ァ、アー、チョッと待テ」
ニグラスであったなにかは咳払いを数度した後先程とは違って流暢に喋り始める。
「今世では初めましてになるかな、かつての我が王バルバトスよ」
「…は?」
「おぉその顔、昔のままだな。実に端正で…」
男はバルバトスの目の前に瞬間移動したように現れ、頬を舐める。
「実に甘美な味だ」
「…ッ!!」
ぬるく湿った気色の悪い感触が頬に伝い、反射的に腕を振るって弾丸を放つ。それを避ける素振りすら見せずその場に立ち、自身に伝わる衝撃を味わうかのように口を動かして咀嚼する素振りを見せる。
「ん、んー…腕が落ちましたかな?」
「…もう一度聞く、お前何者だ?」
「本当にお忘れなられてるとは…初めに会った時はまるで知ってるかのように甘美な弾丸をくれたというのに…」
「何者なんだ…お前は…!!!」
「我が名はバアルゼブル、かつて"暴食の王"としてバルバトス様と共に戦場を駆けました。本当に思い出されないのですか?」
「お前のことなんか…知らない!!俺がお前の王ならとっととここから消え失せろ!」
「そうですか…ではさようなら…」
バアルゼブルは涙を流しながら、バルバトスの心臓を鋭い爪で貫いた。




