その注入器は誰のために
一号が起動した。
その瞬間、全身に力が漲ってくる。
「唯一君、その顔どうしたの!」
「どうしたのって……何がですか軀方さん?」
「目から頬にかけて、赤いラインが浮き出てるよ」
「ああ、多分、ナノパーツを大量摂取した影響ですかね」
「大丈夫なの?」
「特に問題はないと思います」
……多分。
「おーい。イチャイチャタイムは終わったか?」
杷生――いや、実験体が耳をほじりながら、こちらを見ていた。
僕は無言で一歩踏み出す。
「いいのか?そんな無造作に近づいて」
シュッ。
実験体の下半身がぶれた。
その動きに合わせ、僕は息を止めた。
蹴りが腹部目掛けて飛んできていた。
だが、時間の止まった世界では、ただのポーズだ。
半身になって蹴りを躱し、そのまま懐へ潜り込む。
拳を握り、下から鳩尾を狙う。
そして、息を吸った。
アッパーが突き刺さる。
拳から腕にかけて、亀裂が走るような痛みが広がった。
「グフッ!」
同時に、実験体が苦しげに息を吐く。
効いている。
こちらもダメージを受けているが、確実に効いている!
「さっきより良いパンチ打つじゃねぇか!」
「まだまだこれからだ!」
再び息を止める。
同じ場所に狙いを定め、息を吸うと同時に拳を叩き込んだ。
また息を止め、右。
さらに左。
止めて、殴る。
止めて、殴る。
呼吸が乱れ、腕の痛みが限界に達するまで、ひたすら繰り返した。
「――ウゴォ!」
僕は、間合いの外へ飛び退いた。
実験体は腹を押さえ、くの字に折れ曲がっている。
左拳から腕にかけて、皮膚が赤黒く変色していた。
「唯一君、大丈夫⁉」
「大丈夫です。ただ、内出血しただけなので」
「内出血してるだけって、それ大丈夫じゃないよ!」
「骨はまだイカれてないので、大丈夫です!」
軀方さんの心配を振り切り、僕は再び実験体との距離を詰めた。
「――これでおしまいだ!」
顎を狙い、右拳を振り抜く。
――ガキンッ!
アッパーがクリーンヒット。
実験体の身体がのけ反り、吹き飛んだ。
拳がビキビキと音を立てる。
実験体は地面に叩きつけられ、そのまま倒れた。
……正直、限界だった。
拳から腕にかけてのダメージはもちろん、全身が悲鳴を上げている。
頼む。
これで終わってくれ。
願いを込めて、一歩踏み出した。
「――流石に効いたぜ」
むくりと起き上がる実験体。
「……これでもダメか」
奥歯がギリッと鳴る。
「効いた効いた。でも、そっちも大分ダメージがでかいらしいな?」
実験体がニヤリと笑う。
ダメージはあるはずだ。
だが、まだまだ余裕だと言わんばかりの顔をしている。
「それがどうした!」
「おうおう、強がっちゃって!女の子の前だもんな!」
軀方さんへ視線を向ける。
あわわ、といった表情でこちらを見ていた。
こんな状況でも、どこか緊張感のない軀方さん。
その姿に、少しだけ気持ちが軽くなった。
「誰が一緒でも関係ない」
僕は再び駆け出した。
ラッシュを叩き込む。
実験体の間合いに入った瞬間、息を止め――。
「させるかよ!」
見えない一撃が、僕の腹を撃ち抜いた。
「――カハッ!」
「お前が攻撃をする瞬間、いつも息を止めていた!そこを潰させてもらったぜっ!」
この短時間で、僕の攻撃方法を学んだのか⁉
「そら!お返しだ!」
際限のない乱打。
呼吸ができない。
時を止められない。
逃げられない。
「そらそらそらそらっ!まだだ!」
必死にガードを固める。
呼吸さえ整えば、まだ戦える。
それまで耐えろ!
「唯一君!」
軀方さんの叫び声が聞こえた。
でも、あと少し……!
「オラオラ!ガードしてるだけじゃ意味ないぜ!」
ヒュッ。
風を切る音。
次の瞬間、僕の腕を掻き分けるように拳が飛び込み、顎を捉えた。
「――グギッ!」
今度は僕が、のけ反りながら吹き飛ぶ番だった。
ドサッ!
軀方さんの目の前に、仰向けで倒れ込む。
「だ、大丈夫!ねぇ、唯一君!」
「大丈夫です。まだできます」
僕はすぐに立ち上がり、実験体を睨みつけた。
呼吸を整える。
集中しろ。
脳内に響く、ナノパーツの起動音。
実験体のにやけ面。
軀方さんの慌てた気配。
風の音。
次第に、それらが遠ざかっていく。
聞こえるのは、自分の呼吸だけ。
すべてが近くて、遠い。
「……次で決めます」
一歩、踏み出す。
脚がゆっくりと動いているように感じた。
まるで、身体だけが前に進み、それを魂だけの自分が眺めているような感覚。
時間の流れが、遅くなっていく。
実験体もこちらへ歩いてくる。
その動きも、ひどく緩慢に見えた。
「何度やっても同じだぜ!」
互いの間合いが重なる。
僕は大きく息を吸った。
実験体が拳を握る。
その手が、予備動作もなく繰り出された。
見えた。
僕は、その一撃に合わせて息を止めた。
ピタリと静止する実験体。
半歩横へずれ、さらに懐へ潜り込んだ。
右腕を振りかぶる。
顔面の中央に狙いを定め、力を込めた。
全体重を右拳へ集中させる。
脚から腰へ。
腰から腕へ。
そして、拳へ。
全身を駆け巡る力の波が、拳にピタリと重なった瞬間――息を吸った。
「――クラァァシュッ!」
拳が実験体の顔面を捉えた。
【粉砕衝撃装甲】の駆動音。
衝撃が貫いていく感覚。
拳から腕へと広がる、砕けるような痛み。
そして、殴った拳に伝わる抵抗感。
それを力ずくで押し切り、最後まで振り抜いた。
いつもとは違う。
芯を撃ち抜いたような手応えだった。
「ゴフゥッ!」
実験体がその場に膝をついた。
今だ!
僕はすかさずヘッドギアを奪い取る。
杷生の身体が、電源を切られた操り人形のように崩れ落ちた。
白目を剥き、完全に気を失っている。
役目を終えた【粉砕衝撃装甲】が、ブレスレットに戻った。
右腕も赤黒く変色している。
「……終わったぁ」
僕はその場に膝から崩れ落ちた。
ガシッ。
肩を掴まれる。
顔を上げると、軀方さんが僕を支えてくれていた。
「唯一君、今回も無理しすぎだよ!」
少しだけ怒っている。
でも、戦いが終わったことへの安堵も伝わってきた。
「すぐ過藤先生くるからね!」
そう言いながら、軀方さんが回復用注入器を僕の首筋に打ち込んでくれた。
「あらあらぁ~」
職員用玄関から、過藤先生が走ってくるのが見えた。
「ほら唯一君、あと少しだよ!」
「ハハハッ」
「どうしたの?唯一君」
「なんか、お決まりのパターンで緊張が途切れまして」
「そんなこと言ってる場合じゃないのに」
そう言って、軀方さんが少し頬を膨らませた。
その表情を見ていると、余計に緊張感が遠ざかっていく。
「あらぁー、今日も良い感じに酷いわねぇ唯一君!」
相変わらず、嬉しそうに僕の傷を眺める過藤先生。
……なんでこの人は、僕がボロボロだと嬉しそうなんだろう?
「まずはぁ、ナノパーツをもらおうかしらぁ」
僕は、奪い取ったヘッドギアを過藤先生に渡した。
「ありがとうぅ」
過藤先生は僕の拳を眺めた。
「でも、以前よりダメージはなさそうねぇ」
うんうんと頷きながら、僕を見下ろしている。
「でもぉ、あともうひと踏ん張りよぉ!」
「……どういうことですか?」
過藤先生が注入器を取り出した。
《唯一君、それを使わせちゃダメ!》
「ダメって、どうして?」
ミゴちゃんの叫びに、僕は一瞬戸惑った。
――プシュンッ!
ナノパーツが打ち込まれる音。
だが、それは僕の首筋ではなかった。
軀方さんの首筋だった。
「えっ?あれ?間違ってますよ、先生」
「いいえ、これであってるわよぉ」
過藤先生は僕たちから数歩離れた。
いつものように、ニコニコと笑っている。
「ミゴちゃん、どういうこと!」
《さっきの注入器は回復用じゃないの!》
「なら、どんなヤツなの?」
《脳内の神経伝達を強制的に操作して、恐怖や不安を増幅させるの!》
「つまり、どういうこと!」
《感情が恐怖や不安で埋め尽くされるってこと!》
「それじゃ――」
僕の肩を支えていた軀方さんの身体が、震え始めた。
「あ、ああ、あ……唯一君が、いっぱいケガを……」
その間に過藤先生は、杷生にも注入器を打ち込んだ。
やがて、杷生が目を覚ます。
「あれ?俺なんでこんなところに?」
「そんなのはいいからぁ、これを着けてぇ!」
過藤先生は、さっき僕が渡したヘッドギアを杷生に被せた。
「う、うあ、うぁがあぁぁぁぁぁぁッ!」
再び、理性を失う杷生。
「過藤先生、さっきから何してるんですか!」
「ごめんなさいねぇ。でも、これも唯一君のプログラムなのよぉ」
「僕の……プログラム?」
「安心してぇ。これで唯一君は、ますます強くなるからぁ」
微笑む過藤先生。
その目だけが、少しも笑っていなかった。
「……また、敵。でも、唯一君はもう動けない。なら私が―――」
「軀方さん?僕は大丈夫ですから。軀方さん!」
「――殲滅する」
僕から身体を離す軀方さん。
その手が、腰のオーパーツへと伸びる。
【灰を踏むもの】に、触れていた。
どうも、雁木真理です。
一難去ってまた一難です。
物語も終盤になりました。
皆様に楽しんで頂けましたら幸いです。
感想、ご意見、ブクマ大歓迎です。
よろしくお願いします。




