【第十六夜】 声
窓を開けると、坂道からの音がよく聞こえてくる。
我が家はゆるゆると続く坂道の途中に建っている。坂道は昔から「庚申坂」と呼ばれていた。いわゆる旧道だ。道幅はとても狭い。
庚申坂は上りきると駅へと続く大きな国道と交差している。下っていくと市内を縦断するA川が流れている。庚申坂はその川に架かる小橋までつながっているのだ。
A川をすこし上流へ遡ると、新しく造られた大橋が架かっている。
大橋は国道や駅まではもちろんのこと、市外へと抜ける広い幹線道路ともつながっていて、庚申坂とは比較にならないほどに交通量は多い。大型トラックなども頻繁に走っていた。
そんな旧道の庚申坂だが、朝方と夕方だけは事情が異なる。
庚申坂から小橋を渡った向かいの地区は、工場が建つ工業地域の一部と住宅地域が重なっている。
小橋付近の住民と工場勤めの人々は、国道へ出るために庚申坂を近道として使っている。大橋を回るよりもかなりの時短になるのだ。
出勤と退勤の時間帯には、国道へ合流したい車と国道から入ってくる車で混雑する。お互いに譲り合っては、互い違いに通りすぎていく。昼間は静かな庚申坂も、朝と夕方だけは一時の賑やかさをみせる。
平日の深夜などは滅多に車も人も通らない。
週末になると酒に酔ったと思われる人々が鼻唄を歌いながら、または集団でケラケラと笑いながら通りすぎることがあった。しんとした夜にはそういった雑音はよく聞こえる。
近年では珍しい気持ちのよい夏の夜だった。窓を開ければ涼しい風が川から吹き込んでくる。
ベッドの中でうとうとしていると、外からなにやら音が聞こえてきた。エアコンの室外機が唸るような低い振動のような音だった。
いや……声?
誰かが庚申坂を歩きながら喋っている。何を言っているのかまではわからない。言葉としては認識することができない、くぐもったボソボソとした音。お経のようにも聞こえる。
ああ、今日は金曜日だったな。
ベッドの中でうとうとしながらそんなことを考えた。どこかの酔っぱらいか、深夜まで遊んでから帰宅する人たちなのだろう。
しばらくして声は消えた。
坂道を下って行ったらしい。
すると今度はさっきよりも近くで同じような音が聞こえた。ちょうど家の下の坂道に立ち止まって何かを喋っているようだ。
またか……まったく。迷惑だな。
しばらくするとその声も消えた。
うつらうつらと眠っていたらしい。ふと、またもや音が聞こえて目が覚めた。
さっきと同じような音だった。しかし、今度はさらに近い。まるで庭に立って喋っているような近さだった。
酔っぱらいが侵入してきたのだろうか?
それとも最近多くなっている押し込み強盗かなにかか?
さっと緊張が走ると、一気に目が覚める。
外を確認しようとしてベッドから起き上がろうとするが、なぜだか身体は動かない。目は開いている。身体だけが動かない。
なんで動けないんだ……!
音が近づいてきた。窓を開けているのに……!
庭から壁を這い上り、窓から侵入してくるような近づき方だ。
まずい! まずいぞ!
足先や指先に力を入れるも、微塵も動かせない。
音はさらに近づいてくる。こんなに近いのにどういうわけだか、音は言語を成してはいない。外国の言葉とも違う。ノイズに近いようだった。なにを喋っているのか分からない。
風にカーテンがひるがえる。
室内は夜の明かりだけだ。
音はとうとう室内から聞こえる。さらに近づいてきて……ついには耳元で音がうねった。
幸か不幸か、それでも音を発しているなにかの姿は見えない。
身体を動かそうと筋肉が強ばり、悲鳴を上げるほどに必死に力を入れる。
その瞬間に音は耳元で大きく爆ぜた ──
はっと目が覚めるとすでに朝だった。
飛び起きて部屋のなかを見回すも、なにも壊された物はないし、荒らされてもいない。いつもと変わった様子はなかった。どうやら、悪い夢を見たらしい。
「いてっ」
ベッドから下りようとして思わず声がでた。
足の腿と腕がひどい筋肉痛になっている。
昨夜のあれは……本当に夢だったのか……?
とりあえず、夜は絶対に窓を開けて眠るのはやめようと誓った。




