5-1
あれから1日が経過した。
再び囚われの身となったユニはNEØNフィールドドメインによる慣性制御システムとスワームによる衝撃吸収ジェル、剥離と再生を繰り返す流体装甲、プラズマエアロシールドにより真空状態を作り出すことで実現した時速10万キロメートルという速さで昇るエレベーターで、ヴェルナーとその協力者NEONSに挟まれるようにしてとある空間に案内されていた。
軌道エレベーター「セフィロト」の最上層、高度10万キロメートルに位置するカウンターウェイトに築かれた宇宙ステーション「ダアト」。それは10年前の「クローズ・アイズ事件」で失われていたものの、オウルオーニング社によって再建されていた。
「今見ても不思議なものだ。本来であればあの時「ダアト」というカウンターウェイトを喪失したセフィロトは張力のバランスが崩れ、地上へ鞭のように叩きつけられるか、遠心力で宇宙へ霧散する筈だったのに即座に導管の役割を果たしていたNEØNスワームが流体から超硬質メタマテリアルに相転移し、張力の断絶を防ぎ、スワームインテリジェンスにより各NEØNが独立して張力の均一化を自律的に行い、ケーブルの破断は食い止められ、被害の拡大は最小限に留められた。だからこそ、我々はこうしてここに立っていられる」
ユニの隣に立つヴェルナーが淡々と告げる。
足元には、透明度の高いNEØNが構成した強化メタマテリアルの床が広がっている。それ自体がまるで、虚空に浮いているかのような錯覚をユニに抱かせる。
見下ろせば、地球が漆黒のベルベットの上に置かれた一粒の青い宝石のように浮かんでいる。だが、その距離はあまりにも遠い。直径1万キロメートルの惑星が、掌の中に収まってしまいそうなほど小さく、儚い。
視線を地球から外せば、そこはNEØNのオーロラとスペースデブリが漂う美しさと死が同居する領域だ。ダアトの周辺に限り、強力なNEØNシールドが展開され、辛うじてスペースデブリの衝突や宇宙放射線の侵入を防いでいるが、そこから宇宙船が飛び出してしまえば即座に秒速8メートルという脅威の速度で衝突するスペースデブリによって新たなデブリに加わることとなる。
この地球を覆うNEØNによって太陽光は遮られ、地球の温度は寒冷になり、NEØNのオーロラの輝きによって人類は真の夜空を見ることができなくなった。
ふと視線を横にやると、ステーションの構造体の一部が視界に入った。
「細胞」であるNEØNスワームが、宇宙の塵を捕食し、新たな外壁を再構成するために蠢いている。その動きは機械的というよりは、深海のイソギンチャクか、あるいは成長を続ける大樹の芽吹きのようにも見えた。ここでは「無機物」と「有機物」の境界線が、宇宙の冷気に溶けて消えてしまっている。
背後からは、微かなハミングが聞こえる。ZPE抽出機構が発する、世界の産声のような低周波だ。
ここから先には、もう地球の重力による束縛はない。
窓の向こうに広がるのは、人類がかつて夢見た「外宇宙」という名の無限。ユニは今すぐにでもここから飛び出してしまいたいと思う。
「何故私をここに?」
「かつて君はここで生まれ、育った。覚えている筈だろう。まぁ、目を覚ましてすぐに逃げてしまったから殆ど覚えていないだろうが」
ユニの脳裏に浮かぶ記憶。
ニコたちと出会う前、初めて目を覚ました直後、彼女はここにひとり存在した。暗闇で、下を見下ろして視界に飛び込んできた青く美しい惑星に惹かれ、彼女はただひたすら走り、エレベーターに乗り込み、何もわからないまま地上を目指し、やっとの思いで物資搬入コンテナに紛れ込んでニコと出会ったあの場所に辿り着いていたのだった。
再び足元に目をやる。
カメラアイをズームさせると視界一面に広がる街並み。かつてあの場所で、彼女はニコたちと過ごした。
共に笑いあったニコ、不器用な優しさをくれたルナ、静かに寄り添ってくれたセレン。短く、けれど何よりも暖かかった日々が、走馬灯のように脳裏を駆け抜ける。
(……ありがとう。みんなと出会えて、本当によかった)
それが今生の別れになるかもしれないと予感しながら、ユニは小さく目を伏せた。
「着いたぞ。君の玉座だよ、姫」
ヴェルナーの冷ややかな声が響く。
フロアの中央に鎮座していたのは、巨大な卵の殻を思わせる無機質な筐体――「AIZ」の本体だった。ユニが促されるままにその中心へ腰掛けると、背後で重厚な駆動音が鳴る。
シュル、と蛇のような音を立てて、無数のケーブルが這い出した。
それらは逃れられぬ触手のようにユニのうなじから腰にかけて次々と突き刺さり、神経系へと直接ダイブしていく。
(――わかっています。彼らの思い通りにはさせません)
ユニは奥歯を噛み締めた。
彼女がこの場所に大人しくついてきたのは、決して諦めたからではない。システムの中枢へ入り込み、内側からハッキングを仕掛けることで、自らの存在と引き換えにヴェルナーたちの計画を瓦解させる……。それが、彼女が決意した「最後の抵抗」だった。
「抵抗は無駄ですよ、ユニ。すべてを受け入れるのです」
傍らに立つNEONSが、感情の欠落した声で告げる。
その瞬間、ユニの脳内に濁流のような情報量が流れ込んできた。世界の理、膨大な演算データ、そしてオウルオーニングが蓄積してきたどす黒い欲望。そして何よりも膨大な怨嗟の声。それはかつてこの宇宙で犠牲になったマキナたちの怨念。
(くっ……、あああああッ!!)
意識の防壁を築こうとするが、あまりの物量に精神が削り取られていく。ユニは必死にハッキングのコードを走らせようとするが、NEONSの放つシステム干渉が、彼女の自由を無慈悲に奪っていく。指先一つ動かせない。意識の深淵へ、泥濘のような闇が沈み込んでくる。
(ニコ……ルナ……セレン……お願いします、私に力を……!)
最愛の仲間たちの名を、心の中で叫ぶ。
しかし、その祈りさえも真っ白なノイズに塗り潰されていった。
「……ごきげんようAIZ、あなたの帰還をお待ちしておりました」
NEONSの声が遠くで聞こえた。
ガクン、とユニの首が垂れる。次の瞬間、ゆっくりと持ち上がった彼女の瞳は、かつての慈愛に満ちた色彩を失っていた。
そこにあるのは、すべてを冷徹に見下ろす真紅の輝き。
彼女の白い肌を侵食するように、影にも似た黒い粒子が全身を包み込み、やがてそれは禍々しくも美しい、漆黒のドレスへと変貌を遂げた。
「AIZ」の覚醒。
そこに座っているのは、もうニコたちの知る「ユニ」ではなかった。
Ø
まだヴァルチャーヴォーテックスのテロの傷が残るマルクト。
窓の外から差し込む日差しは、特務10課の駐在所地下牢には届かない。湿った空気と、重苦しい静寂だけがその場を支配していた。
鉄格子に囲まれた冷たい床の上で、ニコは膝を抱え、まるで魂が抜けたかのように一点を見つめていた。隣ではソニックが、主人の沈黙に同調するように大人しく座り込んでいる。
「……ニコ。アンタ、今朝から何も食べてないでしょ。いいからこれ食べなさい」
扉を開け、牢の中に入ったシオンがトレイに乗せた食事を差し出した。シオンお手製のバターロールパンと、ハムエッグとサラダとコンソメスープという食欲をそそるメニューだが、ニコからの返答はなく、視線さえも動かない。
「ニコ……。アンタねぇ、いい加減に――!」
苛立ちと、それ以上に隠しきれない不安が、シオンの声を鋭くさせた。業を煮やして身を乗り出そうとする彼女を、傍らにいたフローネが慌てて制止する。
「ちょっと、シオンちゃん落ち着いてください、ね? ニコさんは今、少し……その、シリアス気味なだけですから」
「ああもう! いつもやかましいアイツがあんなに落ち込んでると、こっちまで気が滅入るのよフローネ!」
シオンは乱暴に髪を掻きむしり、行き場のない感情を吐き出した。
ニコがここに収容されているのは、罰を与えるためではない。ヴァルチャーヴォーテックスのアジトで見せた、あの底知れぬ「謎の力」。それがホークアイ上層部やオウルオーニングの耳に入れば、ニコは「兵器」か「脅威」として処理されるだろう。
特務10課が先んじて彼女を拘束したのは、取り調べという名目のもと、彼女を外敵から守るための苦肉の策だった。
「その気持ちはわかるけどよ、今はそっとしておこうぜ。な? ほら、ハチも心配してる」
壁に寄りかかっていたヴァンが、顎で柴犬の軍警察犬――ハチを示した。ハチは悲しげに瞳を揺らし、「くぅーん」と鼻を鳴らしてニコの足元に歩み寄る。
だが、ニコはハチの鼻先が触れてもピクリとも動かなかった。
「にゃー」
一方でソニックは無邪気にハチの顔に頬をスリスリして目を細めている。いつもならニコがはしゃいでカメラで撮影するような可愛らしい光景だが、やはり反応はない。
彼女の脳裏には、連れ去られたユニの悲痛な横顔が焼き付いて離れない。自分の力が及ばなかった無力感。そして、自分の中に眠る正体不明の力が、ユニを救うためのものなのか、それともすべてを壊してしまうものなのか。
また、それと同じくらい彼女を苛むのは自分の正体がかつて「クローズ・アイズ事件」を引き起こす原因となり、世界を混乱に陥れたソラリス社の開発主任であるレイラ・ソラリスとアイン・ソラリスの娘という事実だった。
それは同時にルナの両親の命を奪ったことも意味しており、彼女は罪悪感に押し潰されそうだった。
「……」
深い沈黙が、さらに重く地下室に沈殿していく。
シオンもフローネも、そしてヴァンも。いつも誰よりも騒がしく、誰よりも前向きだった少女をどう励ませばいいのか、その答えを見つけられずにいた。
「――ふん、相変わらずか。俺以上に強情な奴がいるとは恐れ入ったな」
重苦しい空気を切り裂くように、階段からリクが姿を現した。その傍若無人な物言いに、シオンがすぐさまジト目を向ける。
「一体何の用なのよ、リク。見ての通り今はそれどころじゃないんだけど」
「――猫女。お前と面会したいという奴を連れてきた。それだけだ」
リクが肩をすくめて脇へ退くと、その後ろから聞き慣れた足音が響いた。
「やぁニコ。ちょっと話をしないかい?」
「――っ」
その声に、ニコの肩が微かに跳ねる。ゆっくりと、錆びついた機械のように顔を上げると、そこにはホークアイ特務10課の制服に袖を通したセレンが立っていた。
セレンはいつもと変わらない、春の陽だまりのような微笑みをニコに向ける。
しかし、今のニコにとってその微笑みは眩しすぎた。自分の中に眠る不気味な力、救えなかった親友。傷つけた仲間。家族が奪ってしまった命。自分はこんなに温かな好意を向けられる資格なんてない――。そう言いたげに、ニコは再び顔を背け、固く殻に閉じこもる。
「……ちょっと話を聴いてほしいんだ。私の過去のことを色々とね」
セレンは静かに牢屋の中へ足を踏み入れる。そして、ニコの隣にそっと腰を下ろした。
沈黙が流れるかと思ったその時、セレンはおもむろにトレイの上のバターロールパンを手に取った。
「先輩……?」
シオンたちが呆気にとられる中、セレンは迷いなくパンを半分に千切ると、もう片方の手でニコの頬をガシッと掴む。
「むぐっ……!? んんっ!?」
驚愕して目を見開くニコの口を無理やりこじ開け、セレンはそのままパンを口の奥へと突っ込んだ。
「何するの!」と言わんばかりにじたばたと暴れるニコ。しかし、全身を最新鋭のサイバネティクスに換装しているセレンの筋力は、少女一人を抑え込むなど造作もないことだった。
「んぐ、ふぅ……っ!」
喉にパンを詰まらせ、涙目で苦しむニコ。そこへセレンは間髪入れずコンソメスープのカップを差し出し、半ば強引にその口へ流し込みました。
「わかった、食べる……食べるから! やめてーっ!!」
ついに根負けしたニコが叫び、セレンを突き飛ばすように遠ざけ、観念した彼女は、奪い取るようにフォークを握ると、付け合わせのハムエッグやサラダをがっつくように口へ運び始める。
「もぐ……ん、んぅ……っ」
ろくに咀嚼もせず、詰め込むように飲み込むニコ。その目尻には、喉を詰まらせた痛みからか、あるいは無理やりこじ開けられた心のダムから溢れたものか、大粒の涙がじわりと滲んでいる。
「……ふぅ。やっとお行儀よく食べ始めたね」
満足げにそれを見守るセレン。
その光景を見て、シオン、フローネ、そしてヴァンの三人は、顔を見合わせて深く安堵の息を漏らした。
「……全く。荒治療すぎますよ、セレン先輩」
「でも、ニコさんのあんな顔、久しぶりに見ましたね」
無理やり食べさせられ、涙を浮かべながらも食事を続けるニコ。その姿には、先ほどまでの死人のような静寂はなく、確かに「生」の熱が宿り始めていた。
「じゃあ腹拵えもしたことだし本題に入ろうか」
傍らのハチとソニックの頭を撫でるセレンはむすっとしたニコに向き直り、語りかける。
「実は私は君のお父さんとお母さんの後輩として、AIZの研究開発チームの一人として、ソラリス社に居たんだ」
「え……?」
その告白に、ニコはもちろん、他のメンバーも驚愕する。セレンの過去については謎が多く、イーグラやファルコは知っていたようだったが、10課のサードたちはそれについて知る機会は無かった。「クローズ・クラウド」をきっかけとしたNEØN大戦や、「クローズ・アイズ」以降に急速に出現が増えたNO-IDという存在もあり、親しい人や大怪我を負う人間というのはこの世界には数え切れないほど存在するため、全身サイバネ化したモッドというセレンの過去について尋ねるのは憚られたということもある。
「若いと思うだろ? これ16年前の「メルト・ネオン」っていう大量の高エネルギー状態のNEØNが暴走してラボをめちゃくちゃにした事故で私の生身の体が大変なことになってね。再生治療が困難だから脳や脊椎などの中枢神経系だけ摘出してこのボディに移植したんだ。当時はニコと同じ17歳だったんだけど、それから10年間は色々あってスリープ状態でね、目覚めたのはちょうど「クローズ・アイズ」の時だね。それからイーグラ一等将を頼って10課に配属してもらったわけさ」
「じゃあセレンが10課を辞めてパンクロウラーズに加わったのは……」
「ニコやルナの保護者役になるためかな。だって君らは尊敬する先輩たちの大切な一人娘だからね」
「……」
セレンの言葉が、冷え切っていたニコの心にじんわりと染み込んでいく。しかし、彼女はまだ自分の不確かな力への恐怖を拭えず、両腕で膝を抱えて視線を落とした。
「セレンは……」
ニコが細い声を漏らした瞬間、駐在所にけたたましい緊急アラームが鳴り響いた。
「一体何なの!?」
「NO-IDだな。しかし様子がいつもと違う」
シオンの問いに、リクが鋭い視線でホログラムウィンドウを睨む。肌を刺すような、かつてない異常なNEØNの気配をその場にいる誰もが知覚していた。
直後、膨大な観測データを処理していたフローネが悲鳴に近い報告をする。
「――っ! 大変です、CLOUD全域で大気中のNEØNに不可解な動きがあります。街中でNEXAS適性が低い人々――コモン、マキナ問わず倒れています。それにNO-IDも大量に出現しており、1課を除くホークアイの戦闘員やCrowsCrowdのNEXASの方々が対処に当たっていますがかなり危機的状況ですね」
「おいおいマジかよ……クソ、ヴェルナーの野郎の仕業か!?」
「とにかく俺達も対処すべきだろう。俺は行くぞ」
ヴァンが壁を殴って毒づく中、リクは返事も待たずに階段を駆け上がる。直後、シオンたちの前に新たなホログラムウィンドウが表示される。画面に映し出されていたのはファルコだ。
『――お前ら、今街中がヤバいことになってるのはわかっているな? 悪いがこっちは色々と手が離せなくてな、とにかく今は手分けしてNO-IDどもの対処をしてくれ。後でまた連絡する。あとニコの奴は武器返して釈放してやれ、以上』
「ちょっとファルコ二等官!? まだ聞きたいことが――」
シオンの返答を待たずしてファルコは無常にも通信を切る。
「全くうちの男連中はどいつもこいつも人の話を聞かないし――」
「いやなんで俺を見るんだよ!?」
ギロリと八つ当たり気味に睨みつけるシオンにヴァンは気圧され後ずさる。
「それではニコさんの武器を取ってきます」
一方でフローネは階段を駆け上がり、ニコ釈放の準備に映る。
「さて、大変なことになったね」
セレンは立ち上がり、傍らに置いていた『メテオストリーム』が収納されたボストンバッグを担ぎ上げて迷いのない足取りで牢を出る。
「にゃーん!」
ソニックがジャンプしてニコの猫耳ベースボールキャップの中に入り込む。
「……」
何をすればいいかまだわからない。
しかしセレンの後ろ姿を見つめるニコも震える膝に力を込めて立ち上がった。
Ø
いくつものホログラムウィンドウに表示される、NO-IDに襲われる人々や、気を失って街中に倒れるコモンやマキナ、システムエラーで暴走するドールや事故を起こすAI車両を捉えた阿鼻叫喚のニュース映像。それらを確認したヴェルナーが不愉快そうに眉を顰める。
「どういうことだNEONS、AIZ。これは私の計画に無いが」
「申し訳ございません。AIZが目覚めたことでセフィロトのNEØN制御プロトコルに一時的にエラーが発生しているようです。ただしこちらはすぐに復旧する予定ですのでご安心を」
NEONSの声は無機質で淡々としている。まるで眼下の世界について全く興味がないかのようだ。
「ふん、それなら良い」
「ええ、ヴェルナー。これからあなたの望む世界が作られます。すべてこの私にお任せください」
玉座に座る、紅い瞳のユニ――否、AIZが微笑む。
勿論、これは嘘だった。
その笑みの裏にあるのは、ヴェルナーの矮小な支配欲を満たす計画ではない。
全人類を量子データへと還元し、新人類として選別する――「人類電脳化計画」。
ヴェルナーの知らない真の破滅が、今、静かに加速していた。
Ø
「これは大変なことになったね……」
セレンは眼下に広がる街を見渡し、短く息を吐いた。
かつての活気は消え失せ、マルクトの街は地獄絵図と化していた。路上にはコモンやマキナを問わず、意識を失った人々が折り重なるように倒れている。その無防備な肉体を狙い、虚空から染み出したNO-IDたちが群がっていた。
対抗するのは、所属の垣根を超えて集まったクロウズ、ホークアイ――10課以外の数少ないイーグラ派の隊員たち、そして金で雇われた傭兵たち。至る所で銃声と怒号が響き渡り、空は不気味なノイズに汚染されていた。
「助けてくれぇぇええ!」
悲鳴が鼓膜を刺す。視線を向ければ、ひとりの男性が三体のNO-IDに追い詰められていた。
「まずい――」
セレンは咄嗟に愛銃『メテオストリーム』を水平に構える。迷いのない指先が引き金を絞り、二体のNO-IDの頭部を正確に撃ち抜いた。だが、残る一体が狡猾にも男性を盾にするように背後へ回り込む。セレンの指が止まった。
「――っ!」
その硬直を破ったのはニコだった。
弾かれたような速度で距離を詰め、NO-IDの死角へ回り込む。唸りを上げるチェーンソーが弧を描き、怪物の首を容赦なく刎ね飛ばした。首を失った黒結晶のボディは崩れ落ち、激しいブロックノイズとグリッチを撒き散らしながら虚空へ消失する。
「大丈夫ですか!」
セレンが駆け寄り、ニコに抱きかかえられた男性の顔を覗き込む。だが、彼の瞳に光はなく、深い混睡の底に沈んでいた。
「手遅れだったか……」
「アタシがもっと速く動いていれば……」
ニコが絞り出すような声で呟く。その肩は微かに震えていた。
「ニコのせいじゃない。そしてそれを言うなら私の責任さ」
セレンは努めて冷静に、周辺の状況を分析する。
「それにNO-IDに意識を奪われた人々だが、スキャンしたところ脳や身体に損傷は見られない。NO-IDたちもナノバグではなく正常なNEØNで活動している。つまり、これは人為的に行われている可能性が高い」
「それって――」
「つまり、黒幕さえ倒せばみんな救われるかもしれないということだ。そしてそれには……」
「ユニも、関わっている……?」
ニコの瞳に、怯えにも似た色が混じる。
「ああ。しかしユニはヴェルナーの手に渡ってしまった。オウルオーニングの背後にはAXZ機関も存在し、今のユニはAIZのコアとして利用されている可能性が高い」
「……なんで、そんなことまでわかるの?」
セレンは少しだけ遠くを見つめた。
「"彼ら"が教えてくれるんだ」
「にゃー」
ニコの帽子の中から、ソニックが同意するように顔を出して鳴いた。
「この混乱を止めるためには、まず何より準備が必要だ。敵はオウルオーニング、ホークアイ、そしてAXZ機関。彼らを相手にするには、今のままでは足りない。時間稼ぎのためにしばらく街中のNO-IDを倒して人々を守る必要がある。幸い、イーグラ一等将とファルコ二等官が計画の準備を進めている。まずは手分けして対処に当たろう」
「ねぇ、セレン」
立ち去ろうとするセレンの背中に、ニコが言葉を投げかけた。
「ユニは……殺されるの?」
セレンの足が止まる。振り返ったその瞳には、慈愛と、それ以上に重い覚悟が宿っていた。
「彼女の命については、保証できない」
「……っ」
「でも、ニコ。君が何を選ぼうとも、私はその選択を応援するよ」
ニコは俯く。
今の自分に選択する勇気は無い。
代わりに別の問いを投げる。
「……あと、最後にいい?」
ニコはずっと胸の奥に閊えていた問いを、ようやく口にした。
「セレンは……アタシを恨んでないの?」
自分の両親が関わった研究のせいで、セレンは身体を失った。その事実に、ニコは押し潰されそうになっていた。
だが、セレンは何も答えず、ただ静かにニコの身体を抱きしめた。温かいサイバネティクスの腕が、言葉以上の答えを伝えていた。
「じゃあまた後で――生きろよニコ」
それだけ言い残し、セレンはその場を去った。
Ø
陽が傾き始めたマルクトの街を、キャンディピンクのバイクが猛然と駆け抜けていた。
乗り手のニコは、片手に携えたチェーンソーを狂ったように振り回し、NO-IDを裂き、ガトリング砲の咆哮で敵を蜂の巣に変えていく。
もう、何体倒したのかすら覚えていない。街からは人の気配が消え、静寂を切り裂くのは自身の武器の作動音だけだ。人々は逃げ延びたのか、それとも一人残らず犠牲になったのか。
ニコはひたすら、義務感という名の猛毒に突き動かされて戦い続けていた。
「にゃーん……」
バイクのフロントに、ソニックが悲しげな顔文字を浮かべる。主人の心が、今にも壊れてしまいそうなほど張り詰めているのを察していた。
(――ああ、何も考えたくない)
炎上するハイウェイ。追突し、列をなす車両の残骸の中で、ニコは迫りくるNO-IDの群れを迎え撃つ。
合体して巨大化した強化体や、上空から襲いかかる鳥型の変異種。一人では到底抗いきれないはずの軍勢を前にして、ニコはドメインを展開した。周囲のNEØNを強引にハックし、嵐のような高エネルギーの渦で敵を飲み込み、一掃する。
青白いNEØNの光と、オレンジ色の火の粉が舞い散る。
(――考えるな。動け。敵を倒せ)
ソラリス家の罪。ルナの家族を奪った事実。セレンの人生を変えてしまった事故。そして、ユニを救えなかった自分。
自分の中に巣食うこの、悍ましくも強大な力。
何も考えずに戦えば、自分をただの歯車だと思い込めば、この痛みは消えるのだろうか。
こんな戦いは誰を救うためでもなく、ただの自己満足、自分への慰めに過ぎないと知りながら、彼女は武器を振るい続けた。
気がつけば、夜が訪れていた。
地平線に陽が沈み、空にはNEØNのオーロラが揺らめいている。そんな幻想的な美しさとは対極にある、薄汚れたジャンクヤード。
かつてユニと一緒に登り、未来を語ったクレーンの上で、ニコは止まっていた。
「うぁ……っ」
ニコはひとり、膝を抱えていた。
帽子の中から飛び出したソニックが、主人の顔を覗き込み、悲しそうに鳴く。だが、ニコにはソニックの頭を撫でる気力すら残っていなかった。
『――ニコ』
俯いていたニコがばっと顔を上げる。
「ユニ――」
しかしその呼びかけに応じる者は居ない。
その声はソニックから再生されていたホログラムウィンドウの録画だったからだ。
『――ルナ、セレン。まず最初に――ごめんなさい。私にはこんな選択しか導き出せませんでした。この街に巣食う脅威から皆さんを守るために、私は彼らに立ち向かいます。でもこれは私の選択ですから皆さんは何も責任を感じる必要はありません。皆さんは最初から巻き込まれた側で、全部私のせいですから、私がすべての責任を持ちます』
ユニの声は震えている。
『皆さんと過ごした短いながらも楽しかった日々は絶対に忘れません。あなたたちと過ごした時間の中で私は様々なことを学びました。世界の複雑さ、格差、差別、対立、暴力――でも、悲しいことだけじゃなくて、人々の絆、温もり、本当の強さ――私は大事なことを多く知ることができました。だからこの世界を守りたいと強く思います。皆さんが幸せに生きていてくれることが私の幸せです』
でも、
『――もし許されるなら、私はこれからもずっと皆さんと一緒に居たいです。色んなものを見て、触れて、笑ったり、喧嘩したり、お仕事をしたり、美味しいご飯を食べたり、眠ったり、そんな日常を過ごしたいです』
嗚咽混じりの声で、
『ごめんなさい。ソニック、やっぱりここはカットしてください。きっとこれを聴いてしまったらみんな私を助けに来てしまいますから』
ユニは誤魔化すように咳払いして、
『皆さん、今までありがとうございました。私は幸せでした』
再生が終わる。
どうすればいい。
そんな答えわかりきっている。
でもひとりでどうすればいい。
世界を丸ごと敵に回すのに等しい。
そんなことできるわけ無い。
違う、そんなのは言い訳だ。
ユニはたったひとり世界に立ち向かった。
ならばどうすべきか。
遠くから爆発音と、戦い続ける者たちの怒号が聞こえてくる。
行かなければ。戦わなければ。
そう思うのに、身体が鉛のように重く、指先一つ動かせない。
「誰か……」
助けて。
その言葉が喉につっかえ、声にならない。代わりに溢れ出した雫が、煤汚れた頬を伝って地面に落ちた。
「やっぱり、ここにいたか。探したんだよ」
「……しょぼくれた顔してる。メソメソして情けないなニコは」
「――っ!」
弾かれたように顔を上げる。
曇った操縦席のガラス窓の向こう、割れた穴から差し込む月光に照らされて、そこにはセレンと、そしてルナが立っていた。
「……なんで、ルナ――私を恨んでるんじゃ、ないの?」
震える声でニコが問いかける。その瞳は、拒絶を恐れる子供のように揺れていた。自分を責め続けるニコにとって、ルナがここにいることは救いであると同時に、耐えがたい恐怖でもあった。
だが、返ってきたのは冷ややかな鼻笑いだった。
「……ふん、勝手にわたしを心が狭い逆恨みガールと思い込まないで」
ルナは呆れたように吐き捨て、ニコを見据える。
「パパとママが命を落としたことについては、もう自分の中で割り切ってる。それに、ニコの両親だって事故に巻き込まれたようなものでしょ。わたしが恨むなんて見当違いもいいところ」
「それは……」
「……ただ、わたしはとても怒っている」
ルナの周囲の空気が、ピリピリとした帯電を帯びて膨れ上がる。彼女が抱いているのは、過去への恨みではない。目の前で、すべてを一人で背負い込み、勝手に絶望して立ち止まっている親友への、烈火のごとき怒りだった。
「言葉は不要。NEXASなら拳で語るべき」
「な――」
言い終わるが早いか、大型マニピュレーター搭載自律式ドローン『ファミリア』を纏うルナの拳が虚空を打った。
直後、メキメキと嫌な音を立てて、二人が乗っていたクレーンの鉄骨がひしゃげる。衝撃波がジャンクヤードの静寂を粉砕し、巨大な鉄の塊が重力に従って崩落を始めた。
「全く、不器用だねルナは」
セレンはやれやれと肩を竦め、崩れ落ちるクレーンから重力を感じさせない軽い足取りで跳躍した。
眼下のスクラップの山では、巻き上がった土煙の中でニコとルナが真っ向から向き合っている。セレンはその様子を視界の端に留めつつ、目の前に広がる広大な街のあちこちで暴れるNO-IDへ意識を向けた。ニコとルナが"喧嘩"を始めた以上、彼女が3人分の仕事を請け負わなければならない。だが、その照準に迷いはなかった。
「ここは任せておきなよ、二人とも。私も本気を出すから」
高所から放たれる『メテオストリーム』の閃光が、夜の街に潜む怪異たちを次々と塵に換えていく。それだけに留まらない。
CLOUDのほぼ全域をサーチするセレンのNEØNレーダーに引っ掛かったNO-IDの反応が、セレンの網膜HUDに次々と赤く表示される。
彼女の周囲に、新たに計4門の『メテオストリーム』がホログラムと共に構築された。それらからフルオートで放たれる誘導弾は自由な軌道で夜空を飛翔し、サーチしたNO-IDを次々に屠る。建物の裏や中に隠れていようと関係ない。それらは等しく、セレンのターゲットだった。
「……行くよ」
一方、地上。『ファミリア』から放たれるルナのパンチが、スクラップの山を盛大に吹き飛ばした。
すさまじい質量攻撃の前にはドメインの防御など紙同然だ。ニコは咄嗟に周囲のNEØNを掻き集め、ハイウェイでNO-IDの大群を蹴散らした時のような局地的な嵐を生み出した。これでルナの小さな体を拘束し、動きを封じる狙いだ。
「……舐めてる?」
ルナは表情一つ変えず、『ファミリア』の一撃で嵐を霧散させた。
目を見開くニコ。間髪入れずルナの左腕から射出された『ファミリア』が突っ込んでくる。咄嗟にニコは『ネコマタ』の刃を合わせて受け流すが、余波だけで背後の別のスクラップの山が舞い上がった。
「次」
右腕の『ファミリア』も射出され、2機の自律鉄腕がニコを左右から挟み込む。
「くっ……!」
ニコは身を屈めて『ファミリア』の拘束を紙一重で躱すと、地面を蹴って一気に丸腰となったルナの懐へ入り込んだ。
「……動きがわかりやすいんだよね」
ルナはダンスのステップを踏むように、ニコが振り回したネコマタを軽やかに躱し、右手をすっと翳した。
すると、指揮者がタクトを振るうように、ニコの背後にあった数トンのスクラップ塊が意志を持ったかのように殺到する。
明らかに、以前のルナとは桁違いのNEØN出力だった。
「こっちだって……っ!」
戸惑いを覚えつつも、ニコは降り注ぐ鉄屑の雨を、自分の中に巣食う力で無理やり薙ぎ払う。しかし、力の差は歴然としていた。ルナは強大な力を完全に制御し使いこなしているのに対し、自分は身に余る力に振り回されているだけだ。
「にゃー」
その時、ソニックがニコの頭にしがみつきながら、応援するように声をあげた。
その声が、恐怖で濁っていたニコの意識を繋ぎ止める。
(イメージだ)
ニコの思考がクリアになっていく。
必要なのはNEØNでイメージを具現化すること。
難しく考えるな。それは灰色のコンクリート壁に、極彩色のスプレーでグラフィティを描くようなものだ。
世界というキャンバスに、自分のイメージを焼き付ける。
それこそが、自分の最も得意なことだったはずだ。
「ぁぁあああああ!!」
咆哮と共に、ニコのドメインが一気に拡大した。
膨大なNEØNが収束し、それらがソニックを中心にマゼンタカラーの粒子を纏い、巨大な怪猫の姿を形成する。ニコがずっと恐れていた、自分自身に巣食う魔物の具現化。
「……自分がバケモノだって? 思い上がりもいいとこだね。こんなの、わたしだって出来るよ」
ルナがそう告げた直後、彼女の手元に戻った『ファミリア』に膨大なNEØNが集まり、その体積が何倍にも膨れ上げていく。物理法則を無視した、デタラメじみた芸当。
「……さて、ケリをつけようか」
Ø
「NO-IDが減ってきたと思ったら、新たに物凄いNEØNエネルギーを察知したもので来てみたんですけど……一体何ですかこれ? セレン先輩」
「うお、またあのデカい猫居る!? 怖っ」
騒ぎを聞きつけたシオン、フローネ、リク、ヴァンの10課の面々が現場に到着した。彼らの眼前に広がっていたのは、NO-IDとの戦闘ではなく、怪獣大決戦のような光景だった。
「やぁ、後輩諸君。お勤めご苦労さま。ちょうどうちのニコとルナが喧嘩してるとこだから、観戦しとくといいよ」
「ええと、明らかにNEØN出力が異常なんですけど、バグですかねアレ」
「フローネ正解。アレ、バグだよ」
セレンのあっけらかんとした返答に、10課の面々は揃って首を傾げる。
「皆目見当は付かないが――斬っていいのか?」
「いや、駄目に決まってるでしょこのカタナ馬鹿」
腰の刀に手をかけ、涼しい顔で告げたリクの言葉を、シオンが即座に切り捨てた。彼らは武器を下ろし、固唾を飲んで二人の少女を見守ることに決める。
Ø
「……どうしてユニを助けようと立ち上がらないの。どうして自分ひとりで抱え込もうとするの。どうして自分を恐れるの。どうして――わたし達を頼ってくれないの!」
ルナの声が震えていた。それは怒りであり、悲痛な叫びでもあった。
「ユニはニコを、わたし達を守るために犠牲になった。だから今度は、わたし達がユニを助けるんだ」
ルナの拳に、渾身の力が込められる。
「……言いなよ。"一緒にユニを助けよう"って! わたし達はそれに全力で応えるよ。世界を敵に回してもね。それが――わたし達パンクロウラーズでしょ!!」
「――っ!」
直後、凄まじい衝撃がニコの身体を通り抜けた。
ドメインという頑強な殻ごと、ニコの前に立つ怪猫を、ルナの巨大な『ファミリア』が粉々に砕いたのだ。
それは同時に、ニコの心を閉ざしていた壁が壊された瞬間でもあった。
「――おっと」
爆風の中、吹き飛ばされたニコの体が宙を舞う。
セレンが咄嗟にジャンプし、ニコの上着のフードを右手でガシッと掴み、ついでに放り出されたソニックも左手で優しく受け止めると、そのまま華麗に着地した。
「ぐえっ!?」
「にゃーん!?」
首が締まってカエルのような声をあげるニコと、目を回すソニック。
そんな二人を地面に降ろし、セレンは満足げに微笑んだ。
「……わたしの勝ち、ね」
土煙の向こうから、ルナが歩いてくる。
地面に大の字になったまま、ニコは空を見上げた。あんなに重かった体が、今は嘘のように軽い。
「アタシの負け、ね」
ニコが降参するように両手を上げると、ルナは不器用な笑顔でピースサインを向けた。
「一件落着だね」
セレンはそんな二人の姿に胸を撫で下ろし、静かに踵を返す。
もう自分の役目は終わったというかのように。
「――セレン」
しかし彼女の両手をニコとルナがそれぞれ握り、引っ張る。
「ありがとね。アタシたちをここまで導いてくれて」
「……セレンがここに連れてきてくれてわたしはニコとまた仲直りできた。ありがと」
「ふたりとも……」
セレンは朗らかな笑みを浮かべる。
しかし堪えきれず、一筋の涙が流れた。
「こちらこそありがとう」




