辿り着くための物語
歩く。歩く。歩く。
キリキリと歯車を回して、歩く、
一面に広がる銀世界。いや、色を失った白の世界と言うべきか。
氷と雪に支配された大地を、私はただひとり、歩いていく。
吹き付ける風雪。
空の全てを覆う暗雲。
日中でも光が差し込むことはなく、陰鬱とした光景がどこまでも続いていく。
その中を、私は、ひたすらに先へ進む。
ずっと昔に、たくさんの人と旅した道程を、ひとりで再び辿っていく。
見覚えがあるような気もするし、初めてのような気もする。
あのときとは周囲に広がる景色がまったくの別物だから、きっと、記憶はあてにならない。
それでも、魔王領に足を踏み入れた瞬間から、この魂が懐かしい気配を感じ取っていた。
この寂しい世界の全てに、あの人のにおいがあった。
それをもっとも強く感じる場所を目指せばいい。
迷うはずもなかった。
人形の身体は、喉が渇くことも、お腹が減ることも、疲れるということもない。
だから、ひと時も休むことなく、歩き続けることができる。
朝も、昼も、夕も、晩も。
幾度も朝を迎え、夜に沈み、また朝が訪れる世界の中を、一心に、進んでいく。
そびえ立つ一際風雪が強い山々を。完全に凍りついて流れを止めた大河を。障害物が一切存在しない広々とした雪丘を。
越えてゆく。
踏破していく。
キリキリと歯車の回る音を鳴らして、歩き続ける。
そのうちに、酷使された右足が折れて、砕けた。
左腕も、歯車が凍りついて回転を止めて、動かなくなった。
背負い袋から、唯一持ち込んだ荷物――予備の手足を取り出して、取り替える。
そうして、また歩きだす。
奥に進めば進むほど、あらゆるものを凍りつかせる冷気は強くなっていった。
それにつれて、手足を交換する頻度も高くなっていく。
神術を用いても、今の私ではこの冷気を完全に遮断することができない。
必然、持ち込んだ手足は徐々に数を減らしていく。
そのことに、わずかに、本当に少しだけ不安を抱く。
これが、今の私の生命線だったから。
たとえ歩けなくなったとしても、這ってでも進むつもりだったが、その場合、進行速度は極端に落ちてしまうだろう。
それでは、彼が限界を迎えるまでに、間に合わないかもしれない。
そんなんじゃ、意味がない。
そんなことは、許されない。
だから、なんとか終わりまでもってほしいと、決して天ではないなにかに願いながら、歩いていく。
早く、早く。
歩く足がなくなってしまう前に、どうか、あの台地へ、塔へ。
――けれど。
いまだ、あの人の眠る塔の影も形も見えていないというのに、全ての予備を使い切ってしまった。
今つけているものが、最後だった。
大丈夫。
自分に必死で言い聞かせる。
これで、間に合わせる。
この足で、あの人のもとに辿り着く。
なのに。
現実は、この世界は、残酷で。無情で。
ようやく塔の姿が見えたと、安堵した瞬間に、右足が、粉々に砕け散ってしまった。
体勢を崩して、雪の中に倒れ込む。
絶望が心の隙間から忍び寄ってくるが、追い払う。
まだ、大丈夫。右足が失くなっただけだ。左足も、両腕も残っている。
進める。あの場所へ、あの塔へ、近づける。
ここに来るまでに、雪に埋まっているのを見つけた、数本の、剣のような形をした金属体。どこかで見た覚えのあるもの。
拾って背負袋に入れておいたそのうちの一本を取り出し、杖の代わりとして、なおも、私は進む。
台地より隆起したあの台地まで、遮るものはなにもない。
広々とした雪原が広がっている。
その中を、キリ、キリ、と歯車が歪に回る音とともに、一歩一歩、確実に進んでいく。
けれど、雪原の半ばまで来たところで。
歯車の回る音が、止まった。
カシャン、と澄んだ音がして。
残っていた左足の、膝下から先が砕けた。
進む足を全て失って、私は顔から倒れ込む。
心のどこかで、悲鳴が上がったような気がした。
でも、きっとそんなものは気のせいだった。
だから、どうしたというのか。
まだ、私にはこの腕がある。なにを憂う必要がある。
這って、進めばいいんだ。
たとえその速度が落ちても、ここで止まる理由になんてならない。
右腕をついて、左腕をついて、交互に動かして、雪の上を這って進んでいく。
身体の中で、歯車の回る音がする。
キリキリ、キリキリと。
今の私にとって、それは心臓の鼓動のようなものだった。
歯車が回る続けるかぎり、私の身体は動くのをやめることはない。
進む。進む。進む。
そうやって進んだ果てに。
右腕が、砕けて、
左腕が、凍りついた。
右腕の支えを失った上半身が平衡を崩し、顔が、雪の中に埋まる。
視界が、世界が、闇に染まる。
…………。
…………。
…………。
まだ。……まだ、だ。
顔を上げる。凍りついてしまった左腕を、なんとか動かそうとする。
しかし、肘を曲げた状態のまま凝固した左腕は、微動だにしなかった。ピクリともしない。
上半身の支えにはなるが、それだけだった。
…………。
進めない。
前に行くことができない。
あの台地に、あの塔に、近づくことができない。
…………。
力が、抜ける。
平衡を崩して、また雪の中に顔が埋まる。視界が、闇に落ちる。
なにも見えなくなった世界で、歯車の回る音がしていた。
キリキリ、キリキリと今もなお、動き続けている。
けれど。
前へ進むための手段が、もう、ないのだ。
右腕が折れたときに、私の中のなにかも、折れてしまった気がした。
魂が、静かに、なる。
さっきまで、前へ進めと叫び続けていた声が、聞こえない。
消えてしまった。
――そもそも、どうして、私はあんなにも必死になっていたんだっけ。
ふと、そんな疑問が湧く。
その問いに答える声は、私の中になかった。
どこかに、消えてしまった。
世界の全てを燃やしつくそうとしていた炎が、熱が、いつの間にか、なくなっていた。
私を包み込むこの冷たさに、熱を奪われて、凍らされて、砕けてしまった。
動かなくなった私の身体に、雪が積もっていく。
手足の折れた部分から冷気が入り込み、この身体を徐々に凍らせていく。
そうやって、身体の中心、私の魂へ忍び寄ってきていた。
けれど、それに抗う気になれない。
このままゆっくりと静かに、氷と雪の中に埋もれて、眠りにつくのも悪くはないという気分になっていた。
もう、私は、十分に頑張ったと思う。
なにに対してそれほど一生懸命だったのかは、もう思い出せないけれど、きっと他人の一生分以上に頑張ってきたはずだ。
だったら、もう、いいでしょ。
ゆっくりと休んだって、文句を言う人なんていないはずだ。
そもそも、本当の私を知っている人なんて、もう、とっくに。
誰も。
あの可愛らしい人だけで、ほかには。
だから、もう。
なにもかもを、わすれて。
――――――――――――――――――――――?
いま、なにかが。
…………?
光が、瞬いた気がする。
暗闇の世界に、どこかで見た覚えのある光が。
青い、光。
青藍の、輝き。
顔を上げる。
周囲を見回す。
広がるのは、変わることのない風雪。雪原。
ちがう。今感じたのは、ほかのどこかじゃなく――。
顔が埋まっていた雪。
その奥から、なにかの気配を感じる。
魂が、ふるり、と小さく震えた。
少しだけ、身体に熱が戻ってくる。
最後の力を振り絞って、顔を雪の中に突っ込んだ。口を開けて、噛み付くようにして、首を横に大きく振って、雪を掻き出し、掘り返していく。
…………。
やがて、姿を現したのは、剣だった。
いや、剣だったものと言ったほうがいいだろうか。もとは長剣だったのだろうそれは、鍔の少し先のところで折れてしまっていた。細かい罅がいくつも走り、今にも砕けそうだった。
なんの特徴もない、どこにでもありそうな剣に思えた。
なのに。
どうしてだろう。
魂が、震えていた。
静かになったはずの魂が、必死で声を上げていた。
なにかを、叫んでいる。
どこかで、見たことがあるような気がした。気のせいかもしれない。でも、いつか、どこかで、誰かがこれを振るうのを見た気がした。
脳裏に一瞬、先ほど垣間見た青い輝きが、蘇る。
同時に、いつかどこかで見た光景が、浮かぶ。
離れていく輝きに、手を伸ばした気がする。
たくさんの魔物の中に、ひとりで、この場所に残った誰か。騎士の背中。
ベ■ルさん。
魂が、震えた。
これは、これは、いつかの。
魂が震えて、再び熱を生みだしていく。
身体の歯車が、その回転の勢いを上げていく。
掘り返した穴の中に、顔を突っ込ませ、剣の柄を咥えて、引き抜く。
そうして。
そうして――それを、左腕で、掴んだ。
凍りついていたはずの腕が、動いていた。魂の生み出した熱が、冷気を一時的に跳ね除けていた。
剣の柄を、強く握りしめる。
キリキリキリと歯車が力強く回り、血の通っていない人形の手が、かつて剣だったものをきつくこの手に固定する。
まだ、動く。
たった一本の左腕だけだけれど、この手があるかぎり、まだ私は前に進める。
諦めて、なるものか。
ここで終わってたまるか。
左腕を振り上げて、剣だったのものを雪に突き刺す。固定する。
腕を曲げて、身体を引っ張り前に進ませる。
剣を抜いて、振り上げて、振り下ろす。身体を前に進ませる。
それを何度も繰り返していく。
そうやって少しずつ、本当にわずかずつだったけれども、私はあの場所へ近づていく。
どれだけの時間がかかるのか、わからない。
手遅れになってしまう前に間に合うのか、わからない。
しかし、こうやって私が前へ進み続けるかぎり、止まらないかぎり、かならずいつかはあそこへ辿り着くのだ。
それが真理だった。
この世界の。
だから、私は地を、雪の上を這って、雪原を越えてていく。
あらゆる困難を、超えていく。
それから、どれだけの時間が経過したのだろう。
すでに、時の感覚は曖昧になっていた。
先へ進むために必要なもの以外の全てを削ぎ落として、私は一心になっていた。
ただそこに辿り着く。私は、それだけの存在となっていた。
そうやってただ前へ前へと這っていって――ふと気づけば、私は隆起した台地の麓に辿り着いていた。
この手に握りしめていたはずのものは、すでにない。
見れば雪の上に、金属の欠片のようなものがたくさん散らばっている。
役目を、果たしてくれたのだ。
定まらない思考の中、そんな思いが浮かんで、消えた。
またひとつ、私の中から、大切だったものが失われてしまった。
寒いな、と思う。
身体が、魂が、今にも凍りついてしまいそうなほど、冷えていた。
かつて感じていた熱は、もうこの身体には残っていない。芯まで、冷え切っていた。
しかし、いまだこの身は動いている。
歯車は、キリ、キリと回り続けている。
ならば、大丈夫。まだ、私はゆける。
だから、この断崖を。断崖、を。
これを、どうやって、登るの……?
……その感情を、なんと呼ぶのだったか。
この気持ちを、なんと言い表せばよかったのか。
それは、たぶん、人がどうしようもないものに直面したとき、感じるもので。
たしか、その名前を。
ぜつ、
――――。
意識が、一瞬、途切れた。
気づくと、私は断崖のすぐそばで、仰向けになっていた。
顔に、身体に、雪が積もっている。
払う気力もなく、ぼんやりとした意識で、天を見上げる。
見えるのは、いつもと同じ暗鬱とした空。吹き荒れる風雪。
そして、視界の端に、遥か天まで続く絶壁。
ところどころ、突起物のようなものが生えた断崖絶壁。
その果ては、見えなかった。頂上は、それほどの高みにあった。
しかしどうにかしてあの果てに行かねばならなかった。でなければ、あの人のもとにゆくことができないのだ。
あのときは、かつては、どうやってここを登っていったのだったか。
思い出せない。忘れてしまったというより、そもそも私はそれを知らなかったような。
どうだったか。ところどころ壁面から突き出ている棒状のアレが、関係していたような気がする。
全ては、朧げだった。ぼやけている。なにもかもが。見えているものも、全て。
思考が、鈍っていく。
疲れていた。とても、疲れていたのだ。
意識が、ぷつり、ぷつり、と断裂していくのを感じる。
――少しだけ。
ほんの少しだけ、休んでも、いいだろうか。
目を覚ましたら、また頑張るから。
だから、ひと時だけ。
そう思った次の瞬間。
ぶつり、と私の意識は寸断された。
その寸前、視界に、なにか動くものが見えたような気がした。
キィキィ、ギィギィと、どこかで聞いた覚えのある音が、した。
身体が浮遊する感覚があった。
ふわりと浮いて。
次にずしりと重くなる。
そしてまたふわりと浮いて、重くなる。
その繰り返し。
かつて、受けたことのある感覚。
あのときは、たしか。いや、そもそもあのときとは、いつのことだっただろうか。
わからない。もうなにも、わからなかった。
そのとき、ぐん、とこれまでになく強い力が働き、身体が重くなった。
ふわり、と浮き、そして、衝撃。
…………。
それを最後に、揺れはおさまった。静かになる。
どうなったのだろう。どうなっているのだろう。
私の意識が、ゆっくりと形を成していく。
今にも粉々に砕けそうな、或いは霧のように散ってしまいそうな意識を集めて、私というものを形作る。
そうして、ようやく私が、私という自我らしきものを再獲得したとき。
…………?
周囲の景色が、変わっていることに気づいた。
いや、確証はない。こうなる前のことはほとんど思い出せなかったから、たしかなことを言えないが、なんとなく、意識を失う前は、もっと別のところにいたような気がする。
目の前に、こんなに大きな扉は、なかったような。
よくわからない文様が刻まれた、巨大にすぎる扉だった。そして扉以上に、この建造物自体が凄まじい規模を有していた。
右を見ても、左を見ても、上を見ても果てが見えない。
なんという大きさか。
この建物はなんなのだろう。どうして私はこんなところにいるのだろう。
不思議に思って扉を見つめていると、やがて、私は自身の身体がゆっくりと地面に下ろされていくのを感じた。
そこで初めて、私は自分が何者かに抱えられていたことに気づく。
きっと、ろくに動くことができない状態の私を慮って、誰かが運んでくれたのだろう。なんと親切な人だろうか。
感心してしまう。キィキィ、ギィギィと妙な音を立ててやたらとうるさかったが、それはそれとして、ここはきちんとお礼を言わねばなるまい。
扉に背中を預けるように下ろされた私は、お礼を言おうとその誰かを見上げて――驚いた。
黒い、鎧だった。
首のない鎧。
傷だらけの、首なし鎧。
そこかしこに大きな穴が空き、切り裂かれた痕があり、腕だって片方が失われている。どういった目に遭えばそれほど傷つくのかというほどに、凄惨な姿を晒していた。
そんな首なし鎧が、全身にうっすらと黒い靄のようなものをまといながら、私を、おそらく見下ろしていた。
いつか、見たことがあるような気がする。
なにか、魂が刺激されるのを感じる。魂のどこかにこびりついていた記憶らしきものが蘇る。
だが、違和感があった。かつて目にしたときとは装飾が、型が異なるような。
たしかに、この鎧も女性らしい線を描いているが、あのときこの場に現れたのは、もっと。
いや、そもそも、この鎧はこんな色をしていただろうか。
もっと、明るい色で、光り輝いていたような。
この場に至るよりも、もっとずっと前から、私のそばにいて。
……あ?
魂が、震える。
……え、いや、そんな。
この鎧は、かつてこの場に現れたものとは、ちがう。
この鎧を身に着けていたのは。
かつてのきらびやかな姿など見る影もなかったけれど、この鎧は、彼女が着ていたもので。
どうして。
その姿は。
言葉が、出ない。ただ魂が悲鳴を上げている。
キィキィ、ギィギィと音がした。
呆然と見上げるしかない私に、その首なし鎧は――彼女は、私の姉のような彼女は、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
私の、頭を、やさしく、撫でた。
そっと、愛しいものに触れるような、この上なく優しく、やわらかな手つきで、いつかのように私を頭を撫でて、名残惜しげに離れていく。
フ■イ■■さん。
叫ぶ。
どうして。
あなたが。
そんな姿で。
もしかして。
ずっとこの地で。
答える声は、なかった。
彼女は、ただ無言で、扉を指差した。
そのまま、動かない。
意識が、私に向けられていることに、気づく。
――先へ。
懐かしい声が、聞こえたようなが気がした。
魂が震える。
止まりかけていた身体の歯車が、ゆっくりと、また、回転していく。
最後の、回転を、始める。
訊きたいことはたくさんあった。言いたいことも、聞いてもらいたいことも、たくさんあった。
けれど、ここまで来て、そんな泣き言を口にするべきではなかった。
だから私は、頷く。しっかりと。
この人が安心できるように、未練が残らないように、精一杯の力強さで。
――――。
なにか、安堵のような感情が伝わってきて。
次の瞬間、首なし鎧は崩れ落ちた。
それまで繋ぎとめていたものを失ったかのように、各部位がばらばらになって、転がって、やがて粉々に砕け散ってしまう。
文字通り粉微塵になり、すぐに強い風に流されて、空に消えていく。
涙は零れない。そんな機能は、この身体に備わっていなかった。
ただ魂だけが、震えていた。
最後の一欠片までが消えていくのを見送ってから、私は振り返る。
背中に当たる扉。
この先になにがあるのか、いまだに思い出すことはできないが、それでも進まねばならないことだけは、理解していた。
そこが、きっと私の旅の終わる場所なのだろうから。
そこに、きっと私の目指すものがあるのだろうから。
辛うじて動く左手を、伸ばす。
手の平を、扉に触れさせる。
――そして、私は辿り着く。
ただ白い景色だけが続く広大無辺の空間を、左手を頼りに這っていく。
ゆっくりと、しかし確実に、進む。
あるべきものは、あるべき場所へ。
私がいるべきところへ向かって、進み続ける。
歯車の最後の回転が止まってしまう前に。
キリキリ、と音を鳴らして。
身体を引きずって、這い進む。
ひどく、寒かった。
魂が凍りつきそうだった。
外とは比較にならないほど、この空間は冷え切っている。
けれど、それでもあと少しだけ、もってほしい。
本当に、あと少しだから。
そうやって進み続けて、気づけば周囲の空間が白から黒へと変わっていた。
真っ暗闇。なにも、見えない。
いや――ずっと向こうに、輝くものがあった。
うっすらと淡い光を放つ、青。
氷のような、結晶のような柱。
魂が、一度だけ、震えた。
あれが、私の目指すべき場所だった。
あそこに、いるのだ。
あの人が。
……そうだった。
私は、あの人に、もう一度会うために、こんなに遠いところまで、旅してきたのだ。
そのためだけに、全てを捨てて、頑張ってきたのだ。
もうすぐ。
もう少しで、それが報われる。
あの人のもとに。
あなたのもとに。
這って進む。
身体を引きずって。
キリ……キリ……と歯車を回して。
そうやって、少しずつ、わずかずつ、光が近づいてきて。
とうとう、その姿が目に入る。
――――――――――ああ。
あの、人だ。
あの人が、いる。
柱の中で、目を瞑ったあの人が、あのときのまま、凍りついたように身動きを止めていた。
ようやく。
ようやく、会える。
もう少し。
あと、ほんの少し。
這う。身体を引きずる。前へ進む。そうして、歯車が回転を止めた。
…………え。
あの人に伸ばしていた手が、砕け散る。
顔が、地面に叩きつけられる。
動けない。動かない。
歯車が、静止して、そのままだった。
恐ろしい勢いで、冷気が私を侵食してくる。
辛うじて堰き止めていたものが失われ、私の魂が、冷気に包みこまれ、凍らされていく。
いや。
いや、だ。
うそだ。
首を動かすこともできない。
横になった視界の端に、あの人の姿が映っている。
あそこに、あの人のところに辿り着くのだ。
なのに、伸ばす腕がない。
身体が動かない。
私が、凍っていく。
お願いだから。
神様。
お願いですから、どうか。
あの少しなんです。
あとほんのちょっとで、あの人のもとにいけるんです。
だから。
だから、どうか。
お願いですから。
おねがい、だから。
どうして。
なんで。
こんな。
ひどい。
あまりにも、ひどすぎる。
わたしは、ただ、あのひとに、
あいたかっただけなのに。
ああ――
もういちど、あのひとに……
あのひと、に……
あのひとのなまえって、なんだっけ?
どこかで、なにかの、砕け散る音がした。




