終節 Call of Successor
なにかが砕け散る音を感じてから、どれだけの時間が経ったのだろう。
あれ以来、この世界には再び静寂が戻った。
なにかを引きずるような音も、歯車の回る音も消え失せて、静かでなんの変化もない時間が過ぎていく。
あのときたしかに感じた気配も、どこかに行ってしまった。
ただ無音が続く。
その中で、僕は、自分の中で際限なく増大していく衝動に、抗い続けていた。
どうしてこんなことをしているのかは、忘れてしまった。
大切なことだった気がする。
誰かとの約束や、誓いのためだった気がする。
けれど、もう、思い出すことはできない。
あの音を聞いたときに、僕のすぐそばでなにかが砕け散ってしまったときに、失われてしまった。
あとに残ったのは、搾りかすのような、根拠もわからない使命感だけ。
それが今もなお、僕を動かしていた。
しかしそれも、そろそろ限界だった。
自分の中にある異質な意志が、僕を呑み込んで、広がっていこうとしている。
耐えられそうもなかった。
耐えようという気にもなれなかった。
きっと、僕の役目は、もう終わっているのだ。
次の代に任せる時期が、やってきたのだ。
それは、とても悲しいことだった気がするけれど、今の僕にはわからない。
感情というものは、とうの昔に削ぎ落とされて、消えている。
だから、僕が駄目になったのなら、次に託すという当たり前のことをするだけだ。
――――。
ほら、ちょうど、その相手がやってきた。
足音。人が、地面を踏みしめて歩く音。
一人分。
それが、ここにやってくる。
僕のもとに。
僕――魔王アスラ・エレイオンのもとに。
かつては別の名前で呼ばれていた気がするが、もう、覚えてはいなかった。
魔王。アスラ・エレイオン。
それだけが、今の僕を表す言葉だった。
「…………」
そうして、やがて、その誰かは僕の前に立った。
僕が封じられた結晶の前で立ち止まり、じっとこちらを見つめているのを感じる。
その人物からは、懐かしい気配が放たれていた。
僕も覚えのある――聖剣が放つ独特の気配。
ではなかった。
混乱が、湧く。思考が、惑う。
聖剣の気配を、その誰かからは微塵も感じることができなかった。
聖剣もなしに、この場所へ?
なんのために?
これは、誰だ?
その疑問を、響かせようとしたときだ。
「……ああ、なるほど。まったく、本当に。なんて酷い様だよ」
それよりも前に、声を感じた。
女性の、声だったと思う。
二十歳を、越えたか越えないか、というぐらいだろうか。
澄んだ鈴の音のように、美しい響きだった。
磨り減って、摩耗して、みずぼらしくなってしまった僕とは無縁の、きれいな声音。
いつかのように、そう思った。
…………。
いつか? 僕は、この声を、以前にも。
「違うだろう。お前の気にするべきところは、私でも自分の役割でもないだろうが」
声は、言う。
「もっと気にすべきものが、あったはずだろう?」
ぱちり、と指を弾く音がした。
瞬間。
「さあ、その目で、しかと見るがいいさ」
僕の視界が開けた。
まるで天上から俯瞰するように、世界のあらゆるものが見えるようになる。
増大した情報量に意識が飛んでしまいそうになるが、堪える。
今必要なのは、外の情報ではなく、この場所の。目の前の光景だった。
《――――》
そうして、僕が目にしたのは、結晶の前に立つ美しい人。
僕と同じ黒髪黒目で、それとは対照的に真っ白な肌。
目つきは鋭く、けれどその眼差しに込められているのは敵意ではなく、もっとやわらかなもので。
《おね■■■ん……?》
その言葉を聞いて、彼女はどうしてか、苦笑した。
肯定も否定もせず、答えを口にすることはなかった。
「だから、私のことはどうでもいいと言っているろうが。……ああ、本当に、この気分はなんとも微妙だな。たしかに、あんな言葉を口にするのも無理はない」
よくわからないことを言ってから、彼女はその場に屈み込んだ。地面の上に手をつく。
――いや、ちがう。
地面の上に散らばっているものの中から、手探りでなにかを探し出そうとしていた。
彼女が立っていた場所。
僕が封じられた結晶の前の地面には、なにかが広く散乱していた。
機械の部品のようなもの。
そのほとんどは凍りつき、砕けてしまっていたが、なかにはもとの形をそのまま残しているものもあった。
どうしてこの場所にそんなものが、と疑問を抱く。
だが、答えは思い浮かばない。
自由になる身体がなく、ただ見守っていることしかできない僕の前で、やがて彼女は目的のものを見つけたようだった。
それは、手の平に収まるぐらいの、古びた小さな歯車。
凍りつき、ひび割れて、砕け散っていないのが不思議なぐらいに酷い有り様で。
なのに、それは、辛うじてではあったけれど、形を留めていた。
壊れることを拒むように。まるで意志があるかのように。
懐かしい、気配を感じた。
《――――――》
僕の中で、なにかが震えていた。
ずっと昔に、反応することをやめて、静かにそこに在るだけだった――魂が、声を上げていた。
《ぁ……あ……ああ》
それは。この気配は。
そんな。まさか。
とっくに。失われてしまったはずの。
「ああ……こんなになるまで。こんな状態になっても、まだ。ずっと、ずっとずっと、頑張っていたんだな。頑張ってくれたんだ」
両の手の平の上に、大事そうに歯車を捧げ持った女性は、どうしてか、涙を流していた。
悲しみの涙では、なかった。
歯車を見つめる彼女の眼差しには、深い愛情が込められていた。
彼女は、捧げ持った歯車を、そっと自分の胸に押し付ける。
その奥にあるなにかに伝えるように。温もりをたしかめるように。
そうやってしばらく、やわらかく微笑んでいた彼女は、やがて名残惜しそうに歯車を胸から離した。
そして、いまだ涙をあふれさせながら、僕に向かってそれを差し出してくる。
「いま、君の大切な人に、届けてあげるから」
彼女の歯車を乗せた手の平が、僕を覆う結晶に、触れる。
「ようやく、君の旅は終わるんだ」
彼女の手が触れた場所の結晶が、融けるように、燐光を発して消えていく。
手の平が、腕が、上半身が、決して融けぬはずのものを光に昇華させながら、僕に近づいてくる。
やがて、彼女と僕を隔てるものはなにもなくなり、本当の意味で僕の目の前に、彼女が立った。
腕と足はまだ結晶の中で、露出しているのは頭と上半身だけだったけれど、それで十分だった。
僕の眼前に、差し出された歯車がある。
「さあ、彼女の名前を呼んであげて」
言われて、頭が、真っ白になった。
名前。
あの子の、名前。
大切だったあの子。
ずっと一緒にいると約束した彼女。
あの子の、名前って、なんだっけ――?
愕然とする。
焦燥感が、支配する。
思い出せ。思い出せ。思い出すんだ。
彼女の、名を。あの子の、名前を。
■■ー■。
きれいな赤毛で。
大人になっても子供みたいに髪の毛をふたつにしばって。
小さな身体で。
抱え上げてぐるぐる回しても、苦にならないぐらい軽くて。
■ザー■。
けれど、やわらかくて、ちゃんと女の子の身体で。
一緒にいると、胸がドキドキした。
身体が、熱くなった。
イザー■。
恥ずかしいから、いつも平気なふりをしていた。
妹のようなものだと思い込もうとしていた。
でも、本当は、大好きだったのだ。
そう。
僕は、君のことが、好きだった。
ほかの誰よりも、一番、僕は――
《……イザーナ》
君を、愛していたんだ。
――――――。
歯車が、眩い光を放った。
歓喜に震えるかのように、赤い光を発して、明滅する。
「……うん。よく、できました」
姉のような人は、姉のように満足そうに頷いて。
輝く歯車を、僕の胸に押し付けた。
手の平が、なんの抵抗もなく僕の身体に埋まっていく。
彼女の腕はその肘までが沈んでも、僕の背中から突き出るということはなかった。
彼女の手は、肉体ではなく僕自身のもっとも深いところ――僕の魂の在り処へ伸ばされていた。
僕の中で、僕の魂と、彼女の手が、その上におかれたイザーナの歯車が、接触する。
触れて、交わり、融けて、混ざっていく。
「お前の魂も彼女の魂も、すり減りすぎて、あとは消えるだけだった。輪廻の輪に戻ることなく、消滅を待つだけだった」
僕と、イザーナが、重なって、混じり合って、ひとつになっていく。
「ふたつ合わせて、それでもひとり分にも満たないが……お前の魂は、神様が目をつけるだけあって特別だからな。転生を繰り返すうちに、やがて力を取り戻す」
僕がイザーナになり。
私がアベルになり。
僕と私が、まったく新しい別の誰かになる。
自分というものが失われていくことに、変質していくことに、恐怖はあった。
自分が未知のなにかにかわってしまうことに、平気でいられるはずもなかった。
でも。
これからは、ずっとイザーナと一緒だった。
これよりあとになにが起ころうと、僕と彼女が離れ離れになることは、もう二度とないのだ。
ならば、なにを恐れることがあるだろう。
ようやく私はあの人に――アベルに辿り着いたのだ。
もう永遠に、アベルを失うことはないのだ。
ならば、もうなにも、恐れることはない。
「魂の格というやつで、主体は彼女ではなくお前寄りになるが……まあ、問題はないだろう。お前達は似たもの同士だからな、どちらが主体になっても大して差はない」
僕と彼女の融合が完成に近づいていくと、それに従って、徐々に僕の身体が光の粒子となって消滅しはじめる。
恐怖はない。心は、いつになく穏やかだった。
だが、ふと、疑問が浮かぶ。
僕がこのまま消えてしまった場合、次の魔王は、どうなるのだろう。
まだ、勇者はここに辿り着いていないというのに。
「この世界のことは心配するな」
そんな僕を見やって、彼女は苦笑する。
「すでに話はついている。もう、この世界に魔王は必要ない」
その言葉の真意を、理解することはできなかった。
けれど、この場しのぎの嘘を口にしているようには見えない。
この人がそう言うのなら、真実、そうなのだろう。
彼女が僕に嘘をついたことはなかったから。
「だから、安心していけ。今は他人のことより、自分の心配をしていろ。これで終わりじゃあない。これが始まりなんだからな。……これからお前には、お前達には、悠久とも言える時と、様々な困難が待ち構えている」
そう告げる彼女は、どこか苦しげだった。
けれど決して視線を逸らすことなく、僕を見つめ続ける。
「諦めるな、とは言うまい。諦めざるを得ない時もいずれ来る。だが終わらぬ旅などないように、いつか真実を知り、お前達も果てに至るときがくる。だから――」
そして、彼女はそれを口にする。
「いずれ果てに至るその刻まで、生まれいでて、死に失せてゆけ」
その言葉を最後に、僕は、僕達は、この世界から消滅した。
********
そうして、『アベル』と『イザーナ』が消えていくのを見送って。
「声を掛けなくて、本当によかったのか?」
私は背後に向かって問いかけた。
それに応えて、暗闇の向こうから彼女が近づいてくる気配を感じた。
振り返る。
視界に入ったのは、純白の法衣、真白の髪、銀色の瞳。
――始まりの聖女。神殿長だった。
「……うん。今更、だからね。今更あのふたりに掛ける言葉など、私は持っていないよ」
彼女は、微笑んでいた。
穏やかで、やわらかで、まさに聖女が浮かべるに相応しい笑み。
この世のあらゆる苦痛、悲哀を振り切ってしまったモノの、どこか清々しささえ感じる笑み。
「それに、こうして君と話すことができている。それだけで、私にとっては十分さ」
そんな顔を彼女にさせてしまっているということに、少しだけ胸が痛んだ。
かつての、私であって私でない記憶が、自分のせいかもしれないと呟く。
視線を、足元へ向ける。
周囲に散らばった、人形の成れの果て。残骸。
こんなものを見せてしまったから、彼女は決心してしまったのかもしれない。
「本当に、聖剣を天へ返還するつもりなのか?」
視線を上げて問う私に、彼女はしっかりと頷く。
「あのような悲しみを生む仕組みなど、やはりまちがっているのさ。此度は君という特異点の介入があったから、最後の最後――終わってしまった後に、わずかなりと救いができた。けれど、それは本当に奇跡で……もう二度と起こることはないのだろう?」
彼女の質問に、私は頷く。
私がこの世界に辿り着いたのはまったくの偶然だった。この時期を狙ったわけではない。今の私では《世界間移動》を自在にこなすことは難しかった。ただ運に任せて彷徨うことしかできないのだ。
また、私には私なりの目的がある。
だから、このままこの世界に滞在し続けるわけにもいかなかった。
「ならば、もう、このような悲しみを生み出してはならない。誰かひとりを犠牲にしてもたらされる救いなど、あってはならないのだ。それが世界を存在させるために必要などいうのなら――全ての人類が平等に背負うべきなのさ」
そう語る彼女の瞳には、確固たる意志があった。
決して曲がることなどないだろう、強い意志の光が。
彼女は言う。
「聖剣を返還すれば、いずれ人類の総数が世界に定められた基準を超えたとき、原初の魔王が復活するだろう。だが、それでは意味がない。目に見える絶対の敵が在れば、またどこかの愚かな誰かが天へ願ってしまうかもしれない。だから、そうなる前に。人類の数が基準を超えないように――」
人類が自らの手で、愚かな自分達を間引き続ければいいのさ。
そう、彼女は言うのだ。
たしかな意志を、その双眸に宿して。
その心を一極に振り切ってしまった彼女は。
「目に見えぬ、しかし着実に人類の数を減らし続ける仕組み――戦争さ。人魔の、ではない。人と人の、互いを殺し合う血みどろの戦。国の数を増やして、疑心暗鬼にさせて、それぞれに敵意の、憎しみの種を埋め込む。それを都合の良い機で煽り、火をつける。――そうやって、世界を永遠の争いで満たすのさ」
神殿長は――始まりの聖女であったモノは、笑う。
これこそが真理、全ての答えであるという確信をもって。
「永遠を生きる私が、この大地へ永遠に尽きぬ争いの種を撒き続ける。……だから、そうだね」
彼女は、そうして、告げる。宣言する。
「これからは、私が魔王を名乗ろう。天意ではなく人意により生まれた、最初で、最後の魔王さ」
始まりの聖女であり、始まりの魔王となった彼女は、狂ったように高笑いを上げ続ける。
その姿を目にして、再び、私の胸が痛んだ。さきほどより、大きく。
まちがっている、と言うことは容易かった。
しかしすでにこの世界の住人ではない私に、そう遠くないうちにこの地を去る私に、言えることではなかった。
今の私の力をもってしても、些細な介入をすることはできても、世界の仕組みそのものを変えることはできない。
それができるのは、この三千世界において、たったひとつ。
天。或いは神と呼ばれるもの。
人は希うことはできても、その意志を変えることも、逆らうこともできない。
特別な資格を有する者以外。
――たとえばそう、特異な魂に目をつけられ、或いは己の後継になるかと、魂の格を上げるために転生を繰り返させられる存在などでもないかぎり。
この三千世界を変えることはできないのだ。
「いつか、必ず」
狂気に堕ちてしまった彼女を見つめながら、私は改めて誓う。
それが、いつになるのかは、わからない。彼女が外道に手を染めるまでに間に合うのか、わからない。
けれど、いつか必ず、彼女の心を救ってみせる。
彼女だけではない。この世界だけではない。
これまでに出会った全ての人々。国。星。宇宙。
どこか歪で、不完全にすぎる、三千世界の全て。
それらを救うためには、いつかそこに辿り着く必要があった。
この世界の果てに。
大本に。
全ての創造主のもとに。
それが、私の旅の終わり。
きっとそれは、遠くはない。
もうじきという予感がある。
なぜならば、この身はかつて見た、あの人と――『姉』と同じ姿をしていたから。
だから私はいずれ、この広い三千世界のどこかであいつと出会うのだろう。
あいつ――かつての自分、或いは新たな自分を拾って、この身の生まれ故郷である日本に連れていき、私の次として育て、必要になる知識を与えて。
やがては、あいつを置いて、ひとり果てに向かうのだ。
かつて私の姉が――ひとつ前までの私が、おそらく成し得なかったのだろうことを、今度こそ成し遂げるために。
それが、私の運命。
「――そういえば」
そのとき、笑い続けていた彼女が、ふと思い出したというように、笑いを止めた。
「君のことを、私はなんと呼べばよいのだろうか」
首を傾げて、そんなことを訊いてくる。
「アベルくん、イザーナちゃんと呼ぶのは、正しくはないのだろう?」
その問いに、私は笑って言ってやる。
きっと、いつか、もうひとりの自分に出会ったときに告げるだろう言葉を。
「今の私は、あなたよりも随分と年上になってしまったから……そうだな」
次に私が口にする言葉を聞いて。
彼女はぽかんと少女のように目を丸くする。
「私のことは、おねえちゃんと呼ぶがいいさ」
いくつになっても、狂気に堕ちてなお、少女のような仕草が抜けない彼女を見て、おかしくて笑って。
私は、いつかかならず神の後継となって、全てを救うことを誓う。
この天に、その向こうにいて、今もきっと見下ろしているだろう存在に、宣言する。
これは、後継たる私から神への、渾身の叫び。
Call of Successor である。




