あなたのもとに、
ひとりの少女がいた。
なにもかもを奪われ、失い、自分の命さえその手から取り落とそうとしていた少女である。
彼女は、天へ祈った。
自分を、自分達を、人間を苦しめるものをなぜ許すのか。どうして助けてくれないのか。
そう、死の間際に天へと訴えて――そのとき初めて、天は、天上に座す神は応えた。
そして彼女は授かったのだ。
真の奇跡たる《神秘》と、天の聖寵たる聖剣と、人々を救い、導き続ける使命を。
そうして、彼女は生まれた。
始まりの聖人。
或いは、聖女と呼ばれることになるモノが、この世界に誕生した。
しかし聖女は、当初、誰にも相手にされなかった。
見た目は襤褸布をまとったただの幼子でしかなく、魔物を滅ぼすための武器である聖剣も、その力を発揮するどころか握ることができる者すらいなかったからだ。
唯一、その癒しの力だけが認められていたが、それも心が荒みきった人々にとっては神に与えられた奇跡などではなく、ただの便利な力でしかなかった。
だから、魔物の脅威を退けるためには人類の希望、聖剣の担い手である勇者を見つけなければならない、という訴えを真に受ける者もひとりとしていなかったのだ。
ゆえに、彼女の力を目当てに集まった人々を魔物が襲ったとき。
人々は彼女を囮にして逃げだした。
聖剣を携えていたからか、或いは彼女の存在を脅威と判断したのか、魔物が彼女を優先して攻撃したからだ。
その全てを彼女は甘んじて受けた。囮役になることを、誰になにも言われずとも受け入れたのだ。
奇跡によって癒し、傷つけられ、また癒す。
その、繰り返し。
人々が逃げるまでの間、そうやって彼女は嬲られ続けた。
やがて彼女が身動きを止めると、魔物は息絶えたものと判断したのか、その場から離れていく。
しかし、それでも彼女は辛うじて生きながらえていた。
魔物の脅威が去ったと判断して様子を窺いに戻ってきた人々の前で、瀕死の身体を癒した彼女は立ち上がると、糾弾を恐れる彼らへ、しかし微笑んで告げる。
「ああ――みなさんが、無事でよかった」
恨むどころか心の底から安堵した様子の彼女は、逃げるときに転倒して傷を負った者に癒しさえ施すのだ。
それをある者は愚かだと罵った。またある者はなんと都合の良い道具かと喜んだ。
しかし一部の者達は、微笑む彼女の姿に、侵し難いなにか尊いものを見た。
それは或いは、彼女が説く天、神というものの似姿、片鱗であったかもしれない。
この一件をきっかけとして、徐々に彼女の話に耳を傾ける者が増えていった。
十を越え、二十を越え、やがて百を越えたあたりで、それは目的をひとつとする集団となる。
人類の希望、勇者の捜索。
聖剣の担い手さえ見つけることができれば、人々は救われる。
その教えのままに、聖女を中心とした集団は、人々を救いながら長い旅を続けた。
その聖女を慕う人々の中に、ひとりの幼子がいた。
まだ年端もいかない少年で、彼もまた聖人たる彼女に救われた者のひとりだった。
彼女と同じく親も兄弟も失い、ひとり荒野をさまよって命を落としかけていたところを掬い上げられたのだ。
そのころには成人していた彼女へ、彼は崇拝にも近い想いを抱いた。
彼女のためならば、その命を投げ打つことさえ躊躇わぬほどに。
それが彼女の願いであるならと、聖剣の担い手になろうともした。
――もっとも、彼がその資格を得ることはなかったのだが
強く志願して彼女の世話役になり、いくらか成長して身体が出来てきてからは武術を学び護衛となった少年は、必然的に一日の多くを彼女のそばで過ごすことになった。
それでわかったのは、聖女は誰かを癒し、救うことに関しては比類なき力を発揮するが、自分自身のことなると途端に疎かになるということだった。
自分が傷つくこと、苦痛を受けること、理不尽で不条理な仕打ちを受けることを、彼女は少しも厭わなかった。関心を向けることがなかったのだ。
また、日々を生きていく上で必要なこと――日常的な事柄に関しても、非常に不器用だった。
なにもないところで転び、目の前を横切った蝶を追って川に落ちて、食事をするときはよく零して幼い子供のように衣服を汚した。
ほかにも、その美しい容姿に対して邪念を抱く者に手篭めにされそうになったり、癒しの力を悪用されそうになったりと、欲深い人間の甘言に簡単に騙されてしまう警戒心の薄いところがあった。
そんな聖女の姿をそばで見続けていくうちに、少年が抱いていた崇拝じみた想いは、徐々にその形を変化させていった。
付き従う、頼る、縋るというよりも、ほうっておけない、自分が守らなければと思うようになったのだ。
彼女への想いの大きさ、強さはそのままに、少年は庇護される者から庇護する者へとその立ち位置を変えていった。
年上ぶって自分を弟のように扱うくせに、いつも自分に世話を焼かれてしまうこの姉のような人を、絶対に守らなければならない、守りたいと願うようになったのだ。
彼女のために命を擲とうなど、もう考えることはなかった。
自分が死んでしまってはこの人を守ることができなくなってしまうから、どんなことをしてでも生き続ける、と決めた。
だから、それは必然だったのだろう。
かつてはなれなかった、聖剣の担い手――勇者となる資格を、少年が手にすることになったのは。
少年は、聖女に拾われてより数年後、始まりの勇者として立ったのだ。
いまだ聖剣の担い手となる条件を知らなかった聖女は、それを心の底から喜んだ。
とうとう、世界を救うことができる者が現れたのだと。
それも、誰よりも長い時間を共に過ごして、その性向が限りなく善であると知っている相手だ。
彼ならば、まちがいないと思ったのだ。
そのときから、彼女の中で、彼に対する感情が変化していった。
いつも口うるさく、年上の自分を敬わない生意気な弟のように思っていたが、いつの間にか彼が一人前の男になっていたことに気づくのだ。
自分を背に守り、強大な魔物に立ち向かう彼に、聖女はそれまで一度も抱いたことのない感情を覚えた。
初めは小さな芽のようだったそれが、人知れず徐々に成長していき、大きく膨らんでいき、やがて丸々とした実を成そうとしたとき。
ついに、勇者と聖女は魔王を討つことに成功する。
成功して、しまったのだ。
そこで、聖女は全ての真実を知る。
勇者となる条件。
その果てに待つもの。
そして、天より力を与えられた代償に、永遠に人々を導く定めを背負った自分が、これからどのような時間を過ごさねばならないのか、ということを。
少年は――すでに見目麗しい青年に成長していた彼は、最後に笑って、聖女に言った。
「もう、そばにいることはできないけれど。ここからあなたを、あなたのいる世界の全てを、おれが守ります」
「生きることに不器用で、でも他人のためにはいつも一生懸命なあなたが、おれは、大好きでしたよ」
そうして、始まりの勇者は、魔王となったのだ。
始まりの魔王、最初の世界の生贄に。
*********
「……本当にね、彼は、あの子にそっくりだったよ」
聖代神殿の、礼拝堂。
いつかのように、月明かりに透かされた模様硝子を見上げて、その人は語った。
かつて、あったのだろう物語を。
「姿形ではなく、その魂が。抱く想いと願いが。……だから、どうしても彼と接するときは、冷静になることができなかった」
以前の私は、この人を自分と同じ人間であると思うことが、どうしてもできなかった。
しかし、今ならばわかる。
きっと、その在り方が人から大きく外れてしまっていたからなのだろう。
長い時を生きていくうちに、人間らしさなどという余分なものは、削げ落ちてしまったのだ。
或いは。
敢えてそうすることでしか、耐えられなかったのかもしれない。
大切なものを失ったあとも続く、膨大な時を。
たったひとりで過さねばならない孤独の日々を。
多分、あの悪意は。
あの人と私の前でだけ見せたあの想念は、そうやって長い時を経て降り積もったものが、一気に噴出した結果だったのだろう。
数百年、もしかたら数千年かもしれない間、ずっと見ないふりして、気づかないふりをしていた悲しみ――怒り。
それが、きっととても大切だった誰かによく似たあの人を目の前にして、爆発してしまったのだ。
今ならば、よくわかる。わかってしまう。
その悲しみが、怒りがどれほどのものだったのか。
どうして勇者というモノに、そう在ろうとする人間にあれほどの憤りをぶつけたのか。
――自分がずっと守り続けてきたはずのこの世界を、どうして不出来で醜悪なものと嫌悪する気配を見せていたのか。
「イザーナちゃん……君に対しても、そうさ。君の立場は、あまりにもいつかの誰か、聖女と呼ばれた愚かにすぎる女に相似していた。だから、その旅の果てに君がどういった気持ちを抱くのか、私は、知っていたのだよ」
神殿長は――始まりの聖女は、仰いでいた頭を下げて、俯く。
大きなはずのその背中は、このとき、私の目にはとても小さく映った。
「何度、君に真実を告げてやろうかと思った。身勝手な彼らの隠していることを、明らかにしてやろうかと思った。……けれど、彼の私を見つめる瞳が……あの子にとてもよく似た目で見られると、私はどうしても、彼の気持ちを蔑ろにすることが、できなかった」
ごめんなさい、と彼女が言った。
小さな、呟くような声だった。
私は、なにも答えなかった。
そもそも、初めからこの人を恨む気持ちなんてなかったのだから。
たとえその真実を知ったところで、私にできることなんて、なにひとつなかった。
泣きわめいて、縋って、彼に迷惑を掛けて、彼と過ごすことができる大切な時間を無駄に費やして、彼を悲しませていただけだったろう。
彼の心は、とっくに変えることができないほどかたく定まっていたのだから。
あのとき――私を守ると口にして、聖剣を手にして勇者となったあのときから。
「……本当に、やるつもりなのかい?」
しばらくの間があって。
ようやく彼女は、その問いを発した。
こちらを振り返って、私の姿をその視界に捉える。
「私の力は、天より授かったものだ。私が独力で生み出したものではない。たしかに、自在に扱えるようになるまでは時間が――百年単位の時が必要だったけれど、それもこの力を使うための素養があった前提での話だ。唯人たる君には、どれだけ時間を掛けようと不可能かもしれないのだよ? いや、むしろ、その可能性のほうがずっと高い」
彼女の私を見る目には、こちらを思いやる色があった。
本当に、心配してくれているのだろう。
きっと、それがどれほど無謀なことかを誰よりもわかっているのが、この人だからだ。
「それに、たとえその可能性を乗り越えてこの力を振るえるようになったとしても、それをさらに高い次元にまで発展させるなんてこと――」
「でも、もう一度あの人に会うためには、その可能性にでも縋るしかないのでしょう?」
私の言葉に、彼女は苦い顔になった。
「あなたの力でも、あの魔王領の氷雪を越えてゆくことはできない。空間を繋げることもできない。それが可能となるのは、魔王領の凍結が解除されてからで――そうなっては、もう魔王の中に、その素体となった者の自我はほとんど残っていない。そうなんでしょう?」
答えを求めるというより、確認のための問いかけに、彼女はその顔を陰鬱に歪ませて、頷いた。
「……その、通りだよ。かつて、魔王領の氷が融けて、そのころには自在に力を使えるようになっていた私は、一目散にあの子のもとに駆けつけた。でも、そのときにはもう、あの子は私のことも自分のこともわからなくなっていたよ」
深い悲しみに、その双眸が沈む。
「今代――先代の魔王であった彼女があれだけ意識を残していたのは、本来あり得ないことなのだ。おそらく、聖剣を奪うために変に魔物へ干渉したことが、あのような結果を招いたのだろうね。……或いは、自らの所行が新たな勇者を生み出してしまったという絶望が、擦り切れる前の自我を残したまま、彼女の抗う意志だけを急激に弱らせてしまったのかもしれない」
今となってもう、わからないけれどね。
そう、彼女は寂しげに言う。
「だから、私が、私の知っているあの人に会おうとするのなら、魔王領の氷が融ける前に、彼が擦り切れてしまう前に、会いにいく必要がある」
「……そう、そういう結論になるね」
「なら、私は、そうするだけです」
はっきりと、私は告げた。
この意志を変えるつもりはないと、彼女へ向けた目に、その想いを込めて。
「たとえあなたがそれを不可能だと言っても、実際に限りなくそうなのだとしても。私は、かならずそれをやり遂げる。時間が足りないというのなら、この肉の身体を捨てたって構わない。あなたがそうしているように、別の人間の身体に魂を移してでも、他人の生き血を啜ってでも。必要なら、両親や故郷の村の人達を犠牲にしたっていい」
そうすれば目的が叶うというのなら、なんだってやってやる。
この心の奥底で、ぐつぐつと煮えたぎるなにかがあった。
彼を失って、彼によく似た誰かが世界の救済を為したと宣言し、それに兵や騎士が歓喜して、帰還したあともなにも知らぬ民が勇者を讃えて、平和が訪れたことを涙を流して喜んで、勇者とお姫様の結婚を心の底からお祝いして、全てを知っているはずのふたりが、物語の結末の一文のように幸せそうな顔を見せて。
わかっている。
それがどうしようもないことだと。民はなにも知る術がないのだから、もたらされた情報を鵜呑みにするしかないのだと。
あのふたりだって。
与えられた役割を演じるために、どれだけ自分の気持ちを押し殺しているのかも、理解しているのだ。
けれど、それでも、この身体の中心で燃えるものを、消すことはできなかった。
あの人を失い、そのことをはっきりと理解したあのときに、私の中のなにかが壊れて、変わってしまった。
彼にもう一度会うまでは、愛しいあの人に再会するまでは、きっとこの炎が消えることはないという確信がある。
そしてその目的のためだけにこの心を使っていなければ、おそらく私の炎は周囲の全てを、世界そのものを焼き尽くしてしまうだろうことも、わかっていたのだ。
だったら、いいでしょう?
世界を守るためならば、人のひとりやふたり。
それが、この世界の仕組みなのだから。
そうやって、この世界は廻り続けているのだから。
この世界に生きる誰もが、知らずその犠牲に同意して生きているのだから。
私が世界を滅ぼさない代わりに。
ほかの全ては、もう一度私があの人に会うための、糧になればいい。
私はもう、そうと、決めたのだ。
「……そうだね。もう、止めることなど、できるはずもなかったね」
私の目になにを見たのか、始まりの聖女は、ひどく悲しげに視線を伏せた。
「そんなことは、この私が一番、わかっていたはずなのにね」
後悔に満ちた言葉を吐いた彼女は、やがて、その銀眼を私に戻す。
その顔には、強い決意があった。
そのことに、安堵する。
よかった、と思う。
これで、この人を傷つけなくて済む。
今の私は、彼女が嫌いではなかった。この世界の誰よりも共感していると言ってもいい。
だから、できるだけ強行な手段は取りたくなかったのだ。
「よろしい。では、君に天より授かった最後の奇跡――神術を教授しよう」
そうして、私の長い道程は始まった。
その理論を理解するのに、十年かかった。
理論の根幹となる力の存在を感じ取るのに、さらに二十年かかった。
そこから十年経過しても、力を操るどころか、触れることすら、端緒を開くこともできなかった。
その時点で、我が身を顧みず酷使され続けた私の身体は、ガタがきていた。
老いの影響もあったのだろうと思う。
密かやな自慢だった鮮やかな赤毛は白く染まり、肌は張りと潤いを失い、皺やしみが増えて、黒ずんだ。
足腰は弱くなり、走るどころか長い距離を歩くことさえ難しくなった。
手の指先が震え、細かい作業ができなくなり、手元も遠くも、物がよく見えなくなった。
まだ、なにも為していなかった。
ただ力があると、辛うじて感じ取ることができただけだった。
ここで終わるわけにはいかない。私には、もっと時間が必要だった。
――ならば、この古くなった身体を捨てて、新しいものに乗り換えなければならない。
以前からの段取りに従って、神殿長の力を借りることにした。
そのころには神殿長は代替わりしていたが、その容姿は先代と寸分違わないものだった。
神殿長となるべく選ばれた聖人に同意を得て、魂を移した結果だ。
肉体は魂に影響を受けて、その形を変えてしまうらしい。
なお、依代となった肉体の持ち主――聖人の魂はその身体から弾き出され、輪廻の輪の中で、また次に生まれ来るときを待つことになるそうだ。
つまり、事実上の死を迎えるということだ。
これは依代となる人間の魂からの同意が必要であり、他人が強制できることではない。
神殿長が問題なく身体を乗り換え続けてこれたのは、聖人となる人間がみな信仰に厚い者ばかりだったからだ。
世界の真実を知り、始まりの聖女たる彼女に頼まれて、首を横に振る聖人などひとりも存在しない。
聖人がみだりにその力を行使しないのは、魂が削られる苦痛と恐怖以外にも、いずれ神殿長に身体を明け渡すときのために、健全に保ち続けなければと考えるからだと言う。
彼らにとっては、傷ついた誰かを癒すという小事よりも、世界という大事のために己が身を安全に維持することのほうが遥かに重要なのだ。
……なにも、言うまい。
今の私に、なにかを口にする資格はない。
魂を移し替えるにあたって、だから、私はその素体をどうにかする必要があった。
当初は貧民街の子供でも攫って済ませるつもりでいたが、脅迫での同意に意味がないのなら、その手を使っても無駄になってしまう。
そこで私が思いついたのは、魂が重要であるのなら、なにも人間や生きている肉体に拘る必要はないのではないか、ということだ。
人の形に似た、人のように動かすことができる機能を備えたモノならば、その要件を満たすのではないかと思ったのだ。
国でも随一の人形師に私に似せた人形を作らせた。
そこに自分なりの改良を加えて、それを素体とすることに決めた。
神殿長には、止められた。
そのような前例はなく、それが魂のおさまる素体として適切かどうかわからないと。
仮に移し替えが成功しても、私の精神が人形の身体を自分として認識できるか、その違和感に耐えられるのかまったくの未知であると。
私は意志を曲げなかった。
まもなく、自分の身体が寿命を迎えようとする予感があったからだ。
時間が、なかった。
だから彼女の制止を振り切って強行した。
私は、人であることを、捨てた。
結果から言えば、魂の移し替えは成功した。
無事、とはいえなかった。
私が自我を取り戻すのに十年を要したからだ。
しかしそれでも、十年経って、私は私として覚醒したのだ。
人形の身体に対する違和感も、生理的な嫌悪、拒否感も、意志の力でねじ伏せた。
たとえこの身がどのような形になろうと、この魂があるかぎり、あの人を想う心があるかぎり、私は私で在り続ける。
そんなことは、当たり前のことだ。
だから、この結果は必然だった。
これで、私は肉体という時間的な制約からは解放された。
古くなった部分は、その都度新しいものに取り替えていけばいいだけなのだから。
……本当のところは、少し、ホッとしている。
もう一度あの人に会うためならば、如何なる外道にも手を染める覚悟でいたが、できるならばそんなことはしたくなかったからだ。
だって、あの人が好きだと言ってくれたイザーナは、きっと、そんなことをする女の子ではなかった。
私が目的のために酷いことをしてしまったら、あの人を悲しませることになっていただろう。
だから、これでよかったのだと思う。
私を守るためにあの人が、人であることを捨てて勇者となり、魔王となったように。
私もまた、あの人に会うために、人であることを捨てたのだ。
――研鑽の日々が再開される。
初めて、力を使うことに成功した。
人の肉体を捨てたことが功を奏したらしい。
神術が魂を基として扱う力だからだろうか、魂こそが真実私そのものとなったことで、それまでが嘘のように力に慣れていった。
五十年で、神殿長と同じ次元で力を振るえるまでになった。
そこからさらに五十年で、彼女よりも力への理解を深める。
このころから、研究から実践に切り替えることにした。
魔王領の冷気に対抗するための術の構築、試行だ。
最初は、一刻と保たなかった。
手足から凍りつき、砕け散ったところで慌てて這って逃げ出した。
新しい手足に交換して、再度実行に移す。
命からがら逃げ出す。
そうやって繰り返していくうちに、魔王領に滞在できる時間が徐々に長くなっていく。
二刻、三刻、半日、一日、二日、五日、十日。
やがて、一月近く滞在可能になった時点で、とうとう私は彼の地へ向かうことを決断した。
本当ならばもっと完璧にしてから出立したかったが、すでにあの日より二百年近くが経過していた。
神殿長が言うには、これまでの統計だと勇者に限界が訪れるのは、おおよそで二百年。
あの人ならばもっと長く耐えることもできるだろうが、前回の魔王討伐は犠牲者の数が少なすぎた。
それが意味するのは、魔王の意志が増大する時期が早まるということ。
神殿長の見解では、おそらく現在はすでにその時期に入っているとのことだった。
いくらあの人でも、増大した魔王の意志に長く耐えることはできない。
あの人に残された時間は、もうほとんどないかもしれない――そう聞いては、黙っているわけにはいかなかった。
慌ただしく準備をして、私は人類領を旅立つことにした。
と言っても、大した荷物があったわけではない。
すでにこの身は人ではなかったから、食べ物も飲み物も必要ではなかった。肉体の生理的な現象とは完全に無縁になっていたのだ。
「それじゃあね、イザーナちゃん……。君は、本当に大した子だったよ」
このときも、やはり彼女が立っていたのは、差し込む月明かりに照らされた祭壇の上だった。
きらきらと光る模様硝子を背にして私を見下ろすその瞳には、かつてからはまるで想像できないほどやわらかな光が湛えられていた。
その表情も、清らかな乙女のように、可愛らしくほころんでいる。
長い間ともに過ごすことで、今では理解していた。
これが、この人の素の表情なのだ。
あれこれと偉ぶって歳下の子にものを教えて、なのに私生活ではだらしないというより不器用で、そこを指摘するとすぐに拗ねたりする。
幼い部分がたくさん残った、可愛らしい女の人だった。
きっと、ずっと昔に、始まりの勇者と呼ばれる人が好きになったのは、彼女のそういうところだったのだろう。
「これまで、たくさん、本当に……お世話になりました」
心の底からの感謝を込めて、深く頭を下げる。
キリキリと体内で歯車の回る音がして、私の仮初の身体は命令に従う。
こういったちょっとした反応の鈍さにも、もう慣れたものだった。
すでに違和感などを覚えることはない。
「今の私があるのは、全てあなたのおかげです。ありがとう、ございました」
感謝の言葉を繰り返す。どれだけ礼を口にしても足りなかった。
真実、今の私があるのは、全てこの人のおかげだった。
きっと、私がギリギリのところで道を外れないでいられたのも、この人がそばにいてくれたからだ。
「やめておくれよ。君にそんなふうに畏まられると、困ってしまうよ」
はにかんだように笑う彼女に、こちらも笑ってしまう。
残念ながら、この身体に笑みを浮かべるという機構は備わっていなかったが、雰囲気でそれを察したのだろう、彼女は笑みを深めた。
その微笑みをしっかりと魂に焼き付けて、私は「では――」と声を掛ける。
「そろそろ、行きます。きっと、もう二度と会うことはないでしょうが……お元気で」
私の言葉に、彼女は少し躊躇ったあとに、どこか寂しげにしながらも、ゆっくりと頷いた。
「……君も。どうかその終わりに、君にとっての幸がありますように」
私は精一杯の気持ちを込めて、もう一度、深く、深く頭を下げて。
彼女に背を向けた。
神術を行使して、魔王領と人類領域の境界付近までの空間を繋げる。
目の前の空間がぐにゃりと歪み、夜の闇よりなお暗い、黒々とした穴が空く。
その中に、足を踏み入れて――転移する。
「天の――いや、勇者の御加護が、どうか君にありますように」
空間が閉じる寸前に彼女のその声が聞こえて。
気配が、消えた。
そして、私にとっての最後の旅が、始まる。




