02.新しいバトン
全校集会が解散となり、生徒たちがガタガタとパイプ椅子を片付ける喧騒を背にして、湊は部室棟へと続く渡り廊下を歩いていた。
薄暗くなりかけた廊下には、どこか冷ややかな秋の風が吹き抜けている。部室棟の階段を上り、つきあたりの部屋、ライティング部の部室のドアノブに手をかけた。
ガラガラと引き戸を開けると、室内にはすでに部員たちが揃っていた。
部屋の奥の窓際、西日が差し込むデスクには、三年生の部長・神崎涼香、副部長の遠藤駆、そして同じく三年生の長谷川澪が並んで座っていた。
涼香はいつものように少し物憂げで美しい微笑を浮かべ、駆は腕を組んで眼鏡の奥の瞳をシャープに光らせている。澪は静かに手元ノートを閉じ、三年生としての最後の時間を慈しむように部室の佇まいを見つめていた。
「湊くん、遅かったね」
涼香が、鈴を転がすような静かな声で言った。部屋の中には、古い紙の匂いと、少し冷めた紅茶の残り香が漂っている。
「すいません、集会のあとの片付け担当で少し遅くなりました」
湊が頭を下げて室内に入ると、すでに席についていた二年の小野寺拓海と早乙女志乃たち、そして一年の結衣と、中野太陽、市川凛が湊のほうへと視線を向けた。
結衣はいつものように膝の上に文庫本を置き、背筋をピンと伸ばして座っている。その整った側顔には感情の起伏が見えず、ただ静謐な空気をまとっていた。
「全員揃ったわね」
涼香が立ち上がり、部室の全員を見渡した。
「先ほどの全校集会で生徒会の引き継ぎがあったけれど、私たちライティング部も、今日で一つの区切りを迎えます。受験シーズンに入ることもあって、私と遠藤くん、そして澪の三年生は、本日をもって部長・副部長の役職を退き、部活動の第一線から引退します」
涼香の言葉に、室内が一瞬静まり返った。壁にかけられた古い丸時計の針が、チクタクと規則正しく時を刻む音だけが響く。
「もちろん、完全に部を去るわけではありません。籍は残しますし、Writiaの管理や大きな執筆企画の際にはアドバイスもします。けれど、日常の部運営や記事の企画、ライティング部の『言葉』の方向性を決める権限は、すべて次の世代に譲ります」
涼香は一呼吸置くと、拓海と志乃のほうへと視線を向けた。
「新しいライティング部の部長には、小野寺拓海くん。副部長には、早乙女志乃さんを指名します」
指名を受けた拓海が、少し緊張した面持ちでメガネの位置を直した。拓海は数字やデータ分析に長け、Writiaのアクセス解析や記事の構成案において、すでに部に不可欠な存在となっていた。
「……指名、ありがとうございます」
拓海は少し硬い声で言った。
「涼香先輩たちが築いてきた『文章の質』と、Writiaというプラットフォームの価値を落とさないよう、データとロジックに基づいて部を引っ張っていきます」
続いて、副部長に指名された志乃が、姿勢を正して深々と頭を下げた。
「早乙女志乃です。ファクトチェックの徹底と、文章の信頼性の担保に努めます。小野寺部長を支え、読者に誠実なメディアであり続けるよう尽力します」
二人の挨拶は極めて真面目で、隙がなかった。論理と実用性を重んじる二人らしい、質実剛健な新体制の発足だった。
「ふむ……頼もしい限りだな」
駆が組んでいた腕を解き、薄く笑った。
「拓海のデータ分析と、志乃の精密な校正があれば、ライティング部の実用的な側面は一層強化されるだろう。不安はない」
「ええ。二人なら、きっと私たちが思いつきもしなかった新しいライティング部の形を作ってくれるわ」
涼香はそう言うと、自分のデスクの上にあった私物を小さなトートバッグに収めた。澪も静かに立ち上がり、自分の鞄を肩にかける。
「さて、引き継ぎの事務作業はこれで終わりです。私たちはこれで失礼するけれど……みんな、自分たちの言葉を見失わないでね」
涼香は最後に湊のほうをちらりと見つめ、思わせぶりな笑みを残して部室を後にした。駆と澪もそれに続き、引き戸が静かに閉まる。
三年生たちが去ったあとの部室に、沈黙が降り立った。
窓の外では、秋の夕暮れが急速に濃い紫とオレンジのグラデーションを描き出し、室内を赤く染め上げている。
涼香の圧倒的な存在感と情緒的な文章力。駆の冷徹なまでの論理的思考と構成力。澪の温かな視点。それらが一気に抜け落ちた部屋は、驚くほど広く、そして寒々しく感じられた。
拓海が新しい部長の席に腰を下ろし、ノートパソコンを開く。画面の光が彼のレンズに反射した。
「よし。それじゃあ、新体制での最初のミーティングを始めよう。まずは、今後のWritiaの更新スケジュールと、PV数の維持についての課題だ」
拓海の打ち込むキーボードの打鍵音が、カチカチと乾いた音を立てて部室に響き始める。
湊は自分のノートを開きながら、胸のどこかに引っかかる小さな違和感を拭えずにいた。
三年生という大きな「重し」が外れたライティング部。新体制として動き出したはずの空気のなかに、まだ誰も気づいていない小さな歪みと、秋風のような冷たい隙間が忍び込み始めているのを、湊は肌で感じていた。




