09.夜風のバトン
一方、湊たちとは少し遅れて校門を出た結衣とくるみは、並んで夕闇の帰り道を歩いていた。
街灯がぽつぽつと灯り始めた桜が瀬の街。普段なら、湊を巡って火花を散らすはずの二人の間に、不思議と刺々しい空気はなかった。ただ、数日前までのお互いを拒絶するような沈黙ではなく、どこか心地よい、静かな時間が流れている。
やがて、二人の足は、街を一望できるランドマークである『羽明橋』のふもとへと差し掛かった。
橋の上からは、夕闇に沈んでいく桜が瀬川の美しい水面と、遠くに見える街の灯りがきらきらと輝いている。川面を渡る秋の風が、二人のブレザーの裾を優しく揺らした。
橋の中ほどで、どちらからともなく足を止める。
くるみは欄干に両手を預け、遠い街の明かりを見つめながら、ぽつりと声を漏らした。
「……ねえ、瀬戸口さん。私ね、今回のことで、すごく勉強になったんだ」
「勉強、とは何のことかしら」
結衣も同じように欄干に寄り添い、毅然とした、けれどどこか穏やかな横顔で問いかける。
「私は今まで、自分の『伝えたい!』っていう気持ちだけで突っ走ってた。エモい言葉とか、楽しそうな雰囲気があれば、それで絶対にみんなに届くって信じてたの。でもね、瀬戸口さんのあの厳しい赤入れを見て、それがどれだけ独りよがりだったか分かったんだ。瀬戸口さんの論理という盾があったからこそ、私の熱量は、傷つかずに、たくさんの受験生に届くことができた。私の拙い下書きを、あんなに綺麗な形に整えてくれて、本当にありがとう」
くるみは振り返り、大きな瞳を真っ直ぐに結衣へと向けた。そこには、一切の含みもない、純粋な尊敬と感謝の念が満ちていた。
結衣は少しだけ目を見張り、それからふっと、柔らかく微笑んだ。
「私の方こそ、お礼を言わなければならないわね。……名取さん。私は今まで、文章というものは正しく、論理的であればそれで完璧だと思い込んでいたの。でも、あなたの集めた生徒たちの生の熱量や、受験生の心に徹底的に寄り添う姿勢を見て、私の『正しさ』だけでは、誰の心も動かせないということに気づかされたわ。あなたの眩しいほどの熱量という矛がなければ、あの記事は、ただの冷たい数字の羅列で終わっていた。私に新しい視点を教えてくれたのは、あなたよ」
結衣はそっと右手を差し出した。
「名取さん。あなたのその豊かな感性と熱量、ライティング部の運営者として、心からリスペクトするわ」
くるみはその手を、自身の両手で包み込むようにギュッと握り締めた。
「うん!私も、瀬戸口さんのこと、本当に凄いライバルだって思ってるよ!」
二人はしっかりと手を握り合い、微笑み合った。それは、過酷な執筆作業と衝突を経て、言葉の壁を乗り越えた二人にしか分からない、確かな和解の瞬間だった。
しかし、くるみはそこでニヤッと、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべ、結衣の手を握ったまま、ぐっと顔を近づけた。
「でもね、瀬戸口さん。仕事でのリスペクトと、これからのことは……それとは、まったくの別問題だからね?」
「……何のことかしら」
結衣の眉が、ピクリと動く。くるみは大きな瞳を爛々と輝かせながら、楽しげに宣言した。
「佐倉くんのことは、絶対に譲らないから!仕事では瀬戸口さんのロジックを尊敬するけど、恋愛では私の『エモさ』と直球アプローチで、佐倉くんのハートを絶対に射止めてみせるんだからね。覚悟しといてね、瀬戸口さん!」
直球の宣戦布告。けれど、そこには以前のような険悪なトゲはなく、対等なライバルとしての清々しい闘志が漲っていた。
結衣は一瞬呆気にとられたものの、すぐにフッと凛とした声を響かせ、くるみの手をしっかりと握り返した。
「望むところよ、名取さん。言っておくけれど、私と湊の間には、これまでのリライトを通じて築き上げてきた、言葉以上の絶対的な信頼関係があるのよ。あなたの不届きなアプローチや、甘すぎる主観的なアピールは、私が何度でも、完璧な論理で叩き直してリライトしてあげるわ。簡単に彼を渡すと思わないことね」
「あはは!言うねー、瀬戸口さん!よーし、勝負だよ!」
「ええ、受けて立つわ」
恋の決着は、この場ではつかない。けれど、夕闇の羽明橋の上で、二人の美少女は、互いを最高のライバルとして認め合う奇妙な友情のバトンを、確かに交わし合っていた。
二人が去ったあとの羽明橋の袂、大きな桜の木の影から、二つの人影が静かに歩み出てきた。
一人は、穏やかで重みのある雰囲気を纏ったライティング部長、神崎涼香。もう一人は、ネイビーのブレザーを完璧に着こなした生徒会長、葛城鏡花だった。二人の手には、温かいコーヒーの缶が握られている。
「ふふ……どうやら、私たちの仕掛けた『お題』は、あの子たちにとって最高のプレゼントになったみたいね、鏡花」
涼香がミステリアスな、包み込むような笑みを浮かべて呟く。鏡花はコーヒーを一口すすると、眼鏡の奥の瞳を和ませ、薄く唇を開いた。
「本当にね、涼香。名取も瀬戸口も、私の想像以上に頑固だったけれど、その頑固さをあそこまで綺麗な形にリライトしてみせるなんて。佐倉くんという触媒も含めて、あの一年生たちは、私たちの期待を遥かに超えてみせたわ」
「ええ。言葉は衝突するからこそ、美しく磨かれていくもの。これで、私たちが置いていく『言葉のバトン』を、安心してあの子たちに任せられるわね」
涼香はそう言って、誇らしげに夜空を見上げた。
まもなく引退を控えた二人の幹部。彼女たちが後輩たちの未来を想って仕掛けた小さな暗躍は、誰に知られることもなく、最高の形で実を結んだ。
秋の深い夜風が、羽明橋の上を静かに吹き抜けていく。
互いを認め合ったライバルたちの新しい放課後の物語を祝福するように、桜が瀬の街の灯りは、どこまでも温かく、優しく輝き続けていた。




