03.新企画『翠明高校まるごとレポート』
神崎涼香の言葉が部室の空気に静かなくさびを打ち込んだその直後、廊下からもう一つの、凛とした足音が近づいてきた。
引き戸がさらに大きく開かれ、夕暮れの斜光を背に受けて姿を現したのは、翠明高校生徒会長である三年生、葛城鏡花だった。
彼女は結衣と同じように夏用ポロシャツを完璧に着こなし、その怜悧な瞳には一切の妥協を許さない統率者の光を宿している。手元には、タブレット端末がしっかりと握られていた。
「驚いたわ、葛城会長まで。どうしてここに?」
くるみが目を丸くして声を上げる。鏡花はライティング部室の面々をすっと見渡すと、隣に立つ涼香と視線を交わし、薄く唇を開いた。
「生徒会室にあなたたちの声が響いていたわけではないけれど、名取、少し帰りが遅いと思っていたところよ。神崎部長、例の件、ちょうどいいタイミングね」
「ええ、葛城さん。本当に驚くほどぴったりな『適任者』が、ここに揃っているわ」
涼香はそう言って、長い黒髪を指先で弄びながら、湊、結衣、そしてくるみの三人を見つめて微笑んだ。その穏やかな微笑みの奥には、相変わらず何を考えているのか分からない、深い湖のようなミステリアスな気配が満ちている。
一方の鏡花は、手元のタブレットの画面を軽くタップし、プロジェクターの代わりに部室の中央にある共有モニターへとデータを転送した。画面に映し出されたのは、新しく立ち上げられたドキュメントの仕様書だった。
「ライティング部、および生徒会執行部への合同通達よ。本日付で、Webメディア『Writia』の特設ページにおいて、新しい大型連載企画を始動することになりました。タイトルは暫定だけど――『翠明高校まるごとレポート』。未来の新入生に向けた、我が校のリアルな全貌を網羅する広報記事よ」
鏡花の事務的で明瞭な説明に、それまでソファーで様子を窺っていた陽菜や太陽も「お?」と顔を上げた。
「受験生向けの特設記事、ですか?」
結衣が液晶画面を見つめながら、その端正な眉を微かに動かす。鏡花は頷いた。
「その通りよ。先日の翠明祭は大盛況に終わったけれど、それはあくまで外側に向けたお祭りの顔に過ぎないわ。私たちが本当に受験生やその保護者に届けなければならないのは、祭りが終わったあとの『日常』の中にこそある、翠明高校の真の魅力。各部活動の具体的な実績やICT教育の利便性、そして生徒たちがどんな放課後を送っているのかという、生の情報よ。私と神崎部長の間で、秋のこの時期に、これまでにない全く新しい試みを始めようという話になってね」
「なるほどな。確かに翠明祭の熱気が残ってる今のうちに、学校全体のレポートを上げるのは、タイミングとしては最高だぞ」
駆が腕を組み、データの観点から納得したようにハハッと笑う。
「でも、葛城会長」と、くるみが少し不思議そうに首を傾げた。
「そういう大きな企画なら、どうして私たち一年生が……?広報の仕事なら、実績のある二年生の先輩方や、文章に慣れている上級生が担当した方が確実だと思うんですけど」
その問いに対して、今度は涼香がゆっくりと歩みを進め、くるみの隣へと立った。包み込むような丁寧語の中に、確かな説得力が宿る。
「名取さん、それは逆なのよ。この企画に必要なのは、洗練された大人の文章ではなく、誰よりも『受験生に近い目線』。湊くん、結衣ちゃん、そして名取さん。あなたたち三人は、ちょうど一年前に、まさに受験生としてこの翠明高校の門を叩き、その壁を乗り越えたばかりの当事者でしょう?」
「あっ……」
指名された湊は、自分の名前を呼ばれて小さく肩を跳ね上げた。
涼香の言葉は、一切の淀みなく続けられる。
「去年の今頃、自分が何を不安に思い、どんな情報が欲しかったのか。それを肌感覚として覚えているのは、今の一年生をおいて他にいないわ。だからこそ、この『まるごとレポート』の執筆およびデータ収集の最前線は、あなたたち三人に一任したいの。これはライティング部と生徒会、双方の未来を見据えた、とても重要なプロジェクトよ」
「私たちが……受験生だったから、ですか」
結衣が呟く。その表情は、先ほどまでのくるみに対するトゲトゲしいものから、一人の『書き手』としての真剣なものへと切り替わっていた。
「そういうことだ」と、一ノ瀬駿が気さくな口調で会話に混ざる。
「俺たち三年生はもう引退が近いし、二年生は色々な定例業務で手がいっぱいだ。何より、生徒会のデータ主義と、ライティング部の表現力が合わされば、これ以上ない強力な記事ができる。そこに、ちょうどよく『昨年受験生だった』という条件を満たす、お前ら三人が目の前に揃っていたんだ。これを運命と言わずになんて言うんだよ?」
駿は楽しげに肩をすくめたが、その視線はどこか温かく、後輩たちの様子を見守るようでもあった。
鏡花は、結衣とくるみの間に未だ残る、言葉にできない微妙な距離感を冷徹に見抜いているはずだったが、それを表に出すことは決してしなかった。ただ淡々と、組織のリーダーとしての言葉を重ねる。
「名取、あなたは生徒会で集計した翠明祭のアンケートデータや、各クラスの実績数値を正確に提供しなさい。瀬戸口、あなたはそれをライティング部の技術で、読みやすく正確な記事の形に整形すること。そして佐倉」
「ひゃいっ」
突然、鋭い鏡花の視線が自分に向き、湊は情けない声を上げた。
「あなたは二人の間に立ち、現場の声を拾い上げ、下書きのベースを作りなさい。三人の連携がなければ、この記事は決して完成しないわ。締め切りまでのスケジュールはタイトよ。しっかりやり遂げるように」
そう言い終えると、鏡花は「では、私は生徒会室へ戻るわ」と告げ、スマートに部室を後にした。一ノ瀬駿も「じゃあな、頑張れよ一年生チーム」と手を振りながらそれに続く。
残された部室には、共有モニターに映し出された『翠明高校まるごとレポート』の文字だけが、静かに発光していた。




