7.五線譜に重ねられた体温
人混みを掻き分け、どうにか別館の非常階段を数段上った踊り場に辿り着くと、そこからは中庭のステージが一望できた。
西日に照らされた金管楽器の表面が、まるで無数の小さな太陽のように眩しくきらめいている。ステージから放たれる圧倒的な音の圧力が、古い木造の階段の床をジリジリと震わせていた。
「わあ……、ここからならすごくよく見えるね、佐倉くん」
くるみは手すりに掴まりながら、弾んだ声で言った。
しかし、吹奏楽部の演奏がさらに熱を帯び、ラテン調の情熱的なメドレーへと移り変わるにつれて、後方からさらに多くの観客が少しでもステージを見ようと、狭い階段の踊り場へと押し寄せてきた。
「ちょっと、後ろから人が……わっ」
背後から押されたくるみの身体が、バランスを崩して湊の方へと大きく傾いた。
湊は反射的に手すりを掴んで踏ん張り、押しつぶされないように彼女の身体を自分の胸元へと引き寄せる形になった。
その瞬間、二人の距離は、ゼロになった。
多くの観客でごった返す、狭く、熱い階段の踊り場。
くるみは、避けるような動作をすることはなかった。それどころか、彼女は小さく息を呑んだあと、自身の小さな頭を、湊の肩口へと、そっと預けるようにして身を委ねてきた。
ドクン、と湊の心臓が、耳元で爆発したかのような衝撃音を立てて跳ね上がった。
緊張のあまり、全身の筋肉が瞬時にしてコンクリートのように硬直する。
クラスTシャツの薄い綿の生地越しに、くるみの確かな体温と、彼女の小さな身体が刻む、トントン、トントンという速い鼓動が、ダイレクトに湊の胸へと伝わってきた。ほんのりと漂う、工作用の絵の具の匂いと、彼女自身の甘いシャボンの香りが、至近距離で湊の呼吸を完全に支配する。
「……名、取さん?」
湊は、かすれた声をどうにか絞り出そうとした。しかし、くるみは湊の肩に額を寄せたまま、顔を上げようとはしなかった。ただ、彼女が掴んでいる湊の袖を握る力が、さらにきゅっと強くなる。
「……少しだけ、このままでいさせて、佐倉くん」
演奏の手拍子と大音量のブラスサウンドにかき消されそうなほど小さな、けれど明確な意志を孕んだ声が、湊の耳元に直接届けられた。
「私ね、この前、生徒会室の前で、瀬戸口さんに言われた言葉が……ずっと頭から離れなかったの。ライティング部の相棒だから、湊の隣は自分の特等席だからって、すごく強い言葉で言われて……。私、いつもの押し弱さが出て、あ、やっぱり私じゃ敵わないのかなって、一瞬だけ諦めそうになっちゃった」
くるみの声は、微かに震えていた。けれど、その言葉の芯にある熱量は、これまでの彼女からは想像もつかないほどに尖っていた。
「でもね、今日、こうしてお揃いのTシャツを着て、佐倉くんと一緒に笑って、優しいところをたくさん見てたら……どうしても、嫌だなって思っちゃったの。佐倉くんの隣を、瀬戸口さんだけのものにしたくない。……私だって、佐倉くんの特別な存在になりたい。ほんの少し気になるクラスメイト、じゃなくて……もっと、その先になりたいの」
それは、紛れもない、彼女の内なる本音の言語化だった。
ハデな中心グループに気後れし、自分の意見を言えずに押しつぶされそうになっていた名取くるみという女の子が、今、五線譜のきらめく熱狂の片隅で、自分の感情のファーストドラフトを、真っ直ぐに湊へとぶつけている。
湊は、その言葉の持つ圧倒的な質量に、ただ圧倒されていた。
自分を「空っぽ」だと蔑み、誰の記憶にも残らないタイムラインの塵だと思い込んでいた自分の言葉や行動が、今、一人の女の子の心をこれほどまでに激しく動かし、その本音を引き出す理由になっているというファクト。
腕の中に感じる彼女の温もりと、言葉の重み。
湊は、緊張で指一本動かすことができなかった。結衣との間にあった、あの徹底的な論理と信頼で結ばれた「相棒」としての居心地の良さ。そして今、くるみから寄せられる、等身大の、剥き出しの好意。どちらの熱量も本物で、どちらの言葉も湊の胸を深く、激しく穿っていく。
ステージの上では、吹奏楽部の演奏がいよいよクライマックスを迎え、全楽器による圧倒的なトゥッティ(全奏)が、中庭の空気を最大出力で爆発させていた。
鳴り響く歓声と、鳴り止まない手拍子の渦。
その光の溢れる祝祭の風景のなかで、クラスTシャツの緑色に包まれた二人の時間は、お互いの鼓動を重ね合わせたまま、決定的な変化の瞬間を刻みつけていた。湊の高校生活は、文化祭という舞台のなかで、もう二度と元には戻れないリライトの軌道へと、完全に巻き込まれようとしていた。




