6.まっすぐな気持ち
お化け屋敷のひんやりとした暗闇から抜け出し、新校舎の渡り廊下を進むにつれて、空気の層がまた別の質感へと塗り替えられていくのが分かった。
午後二時を回り、翠明祭は二日目の最高潮へと向かって最後の坂道を駆け上がっている。廊下を反響する喧騒はどこかシンコペーションを刻むように小気味よく、窓から差し込む西日はいよいよ琥珀色の純度を増して、床に敷かれたリノリウムの白をドラマチックに侵食していた。
「……すごかったね、お化け屋敷。私、本当に心臓が止まるかと思った」
くるみは、まだ微かに上気した顔を両手で包むようにしながら、弾んだ声で言った。同じグリーンのクラスTシャツを着て並んで歩く距離は、あの暗闇を潜り抜けたことで、それまでよりも確実に数センチメートルほど近くなっている。
「名取さんが本当に怖がってたから、僕もちょっと緊張しちゃったよ。でも、楽しんでもらえたならよかった」
「うん、すごく楽しかった。佐倉くんと一緒じゃなきゃ、あんな場所に入る勇気なんて絶対に出なかったもん」
くるみは真っ直ぐに湊を見つめ、慈しむような、それでいてどこか切実な光を宿した瞳で微笑んだ。派手な教室の空気に気後れし、誰かに言われた役割をこなすだけで自分を「空っぽ」だと感じていた彼女にとって、今、湊と並んでお揃いのTシャツで歩く一分一秒が、どれほど特別な意味を持っているか、その声の響きだけで十分に伝わってきた。
そのとき、校舎の構造を大きく震わせるようにして、中庭の方向から華やかで分厚い音の塊が湧き上がってきた。
それは、金属の管を通り抜けて磨き上げられた、圧倒的なきらめきを持つ音の奔流――吹奏楽部による特設ステージの演奏だった。
「あ、吹奏楽部のメインステージが始まったみたい。佐倉くん、行ってみよう?」
「うん、行こう。確か、Writiaのタイムラインでも、二日目の午後の目玉イベントとしてすごく注目されてたんだ」
二人は足早に階段を下り、本館と別館に囲まれた中庭の特設会場へと向かった。
中庭に到着した瞬間、湊はその圧倒的なスケールの風景に息を呑んだ。
すり鉢状になった芝生エリアは、一般の来場者やクラスTシャツ姿の生徒たちで完全に埋め尽くされ、文字通りの立錐の地もない。ステージの上では、総勢五十名を超える吹奏楽部の部員たちが、秋を予感させる高い青空に向かって、一斉に金管楽器のベルを掲げていた。
演奏されていたのは、誰もが一度は耳にしたことのある、軽快で華やかなジャズのスタンダードナンバーだった。
トランペットの突き抜けるようなハイトーンが空を切り裂き、サックスの艶やかな旋律が中庭の空気を甘く揺らす。トロンボーンの重厚なバッキングと、ドラムが刻む正確で力強いスウィングビートが、観客たちの身体を物理的に激しく揺さぶっていた。曲の展開に合わせて、会場全体から一斉にパン、パン、と統制の取れた手拍子が湧き起こり、その音の渦が五線譜から飛び出した生き物のように中庭を駆け巡っていく。
「すごい人の数だね……。これじゃ、前の方は全然見えないや」
湊が周囲を見回しながら実直な口調で呟くと、くるみは少しだけ背伸びをして、人混みの隙間を覗き込もうとした。
「本当だね。でも、あっちの、別館側の階段の踊り場なら、少し高いからステージが見えるかも。行ってみよう?」
「あ、うん。名取さん、はぐれないように気をつけて」
湊は、押し寄せる人の波からくるみを庇うようにして、一歩前へ出た。くるみは小さく「うん」と応じると、今度は躊躇うことなく、湊のグリーンのクラスTシャツの袖を、その細い指先できゅっと掴んだ。
昨日までの結衣との取材では、プレス腕章というルールに守られた「オフィシャルな距離」があった。しかし、今のくるみとの間にあるのは、そんな言い訳をすべて削ぎ落とした、等身大の男子高校生としての、純粋な密着だった。掴まれた袖から伝わる彼女の微かな体温が、湊の皮膚を通じて脳を直接刺激し、胸の奥を激しく波立たせる。




