08.4.大輪の火花が照らした夜
ことのは通りの華やかな喧騒を背に、言の葉公園へと続く緩やかな坂道を上り始めたとき、人の波はそれまでとは比較にならないほどの圧力となって二人の身体を押し包んだ。行く手を阻むように架かる羽明橋の周辺は、夜空を彩る大輪の光を特等席で迎えようとする群衆によって、完全に飽和状態を迎えていた。
浴衣の袖と袖が擦れ合い、無数の足音がアスファルトを低く鳴らす。周囲の熱気はまとわりつくような湿気を帯び、街灯の鈍い光が人々の放つ興奮を怪しく照らし出していた。
「……っ」
隣を歩いていた結衣の小さな喘ぎ声が、雑踏の底に消えかけるのを湊の耳が捉えた。
急な通行規制が入ったのか、前方の人の流れが不自然に急停止し、それに伴って後方からの群衆の圧力が一気に二人の背中にのしかかる。押された拍子に、ただでさえ下駄の鼻緒で痛めていた結衣の右足が悲鳴を上げたのだろう。彼女の身体が大きくよろめき、人の波のうねりの中に沈みそうになった。
「結衣!」
考えるよりも先に、湊の身体が動いていた。
いつもなら周囲の目を気にして一歩を躊躇うはずの腕が、迷うことなく結衣の細い肩を引き寄せていた。藍色の浴衣の袖が大きく翻り、倒れかかってきた彼女の柔らかな身体を片腕でしっかりと受け止める。
視界が激しく揺れ、次の瞬間には、二人は橋の欄干のわずかな隙間に押し込まれるようにして身を寄せていた。
「大丈夫!?……あ、ごめん、急に引っ張ったりして」
「い、いいえ……。ありがとう、湊」
結衣の声は、人混みの喧騒にかき消されそうなほどに小さかった。普段の論理的で容赦のない鋭さはどこにもなく、ただ痛みに耐えるように薄い唇を噛み締めている。見下ろすと、撫子の花が描かれた浴衣の裾から覗く彼女の足元は、これ以上一歩を踏み出すことすら拒むかのように微かに震えていた。
前を向いても後ろを振り返っても、あるのは見知らぬ人々の背中と肩の壁だけだ。このままでは、結衣の足は本当に動かなくなってしまう。
「結衣、僕に掴まって。ここから公園の高台まで、もう少しだから」
「でも、そんなの……完璧な取材の役割を果たすためのデータに、こんなノイズは必要ないわ。私は、自分で……」
「いいから。役割とか、今はそういうのは関係ないよ」
湊は結衣の言葉を穏やかに、けれど毅然とした調子で遮った。
空っぽな自分には、誰かを導くような大層な言葉は紡げない。けれど、目の前で痛みに耐えている彼女の力になりたいという衝動だけは、今の自分の中に確かに存在する本物だった。
湊は結衣の手を引き、自分の肩へと回させた。
結衣は一瞬だけ躊躇うように琥珀色の瞳を揺らしたが、すぐに諦めたように小さく息を吐くと、柔らかな身体の重みを完全に湊へと預けてきた。
「……ごめんなさい。少しだけ、身を委ねさせてもらうわ」
浴衣越しに伝わってくる、結衣の確かな体温と、かすかな髪の甘い香りが湊の鼻腔をくすぐる。
一歩、また一歩と、湊は結衣の歩幅を全身で受け止めながら、人の波を押し分けるようにして坂道を上っていった。結衣の下駄の音が不規則に響くたび、湊は彼女を支える腕にそっと力を込める。最初は緊張で強張っていた結衣の身体が、移動を続けるうちに、自然なリズムで湊の動きに寄り添うようになっていった。互いの呼吸が重なり、混雑する世界の中心で、二人の境界線が静かに融けていくようだった。
ようやく辿り着いた言の葉公園の高台は、遮るもののない夜空を望む特等席だった。
しかし、そこもまた、すでに足の踏み場もないほどの群衆で埋め尽くされている。これ以上進むことも、引き返すこともできない暗闇のなか、後ろから押し寄せた人の波を避けるようにして、湊は結衣を自分の身体の前に抱きすくめるような形で、欄干へと身を寄せた。
完全に、二人の身体が密着していた。
結衣の背中が、湊の胸元にぴったりと押し付けられている。トントン、と高鳴る自分の心臓の音が、彼女の背中にそのまま伝わってしまっているのではないかと、湊は焦燥に駆られた。けれど、結衣の小さな肩もまた、同じように早いリズムで上下しているのが、触れ合う身体を通じて痛いほどに伝わってくる。
気まずさに言葉を失い、ただ互いの熱い体温だけを共有していた、その時だった。
ドン、と胸の奥底を直接揺さぶるような重低音が、桜ヶ瀬の夜空に轟いた。
一瞬の静寂の後、視界のすべてが圧倒的な鮮烈さで塗り替えられる。
夜空の天頂に咲き誇ったのは、金色に輝く巨大な大輪の光だった。パラパラと火花が枝垂れ、闇に溶けていく残光が、欄干に身を寄せる二人の横顔をまたたく間に染め上げていく。
「わあ……」
結衣の口から、感嘆の息漏れが紡がれた。
普段の論理的な思考を完全に停止させたような、純粋な少女の瞳が、夜空を見上げている。その瞳のなかに、次々と打ち上がる赤や青、紫の光の粒子が、万華鏡のように美しく反射していた。
周囲からは地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こり、お囃子の音も完全に花火の大音響にかき消されていく。世界がどれほど激しく脈動し、光と音の奔流に満たされていようとも、湊の意識は、腕の中にいる結衣の存在だけに釘付けになっていた。
背中から伝わる、彼女の小さく刻まれる鼓動。
花火の光に照らされるたび、刻一刻と表情を変える、結衣の美しい横顔。
いつもの冷徹な仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、夏祭りのフィナーレに心を躍らせる等身大の彼女がいた。
結衣の浴衣の袖から覗く細い指先が、微かに震えながら湊の藍色の袖をぎゅっと掴んだ。
「ねえ、湊」
花火の爆音に負けないように、結衣が顔を少しだけ後ろに傾け、湊を見上げた。至近距離で交わる視線。彼女の瞳の奥にある琥珀色の光が、強く、深く、湊の空っぽな胸の奥を射抜く。
「すごく……綺麗ね」
「うん……本当に、綺麗だね」
湊の声は、半分は花火の音に呑まれてしまったかもしれない。けれど、結衣は嬉しそうに細い眉を和らげると、再び夜空へと視線を戻し、さらに深く湊の胸元へと体重を預けてきた。
きつく結ばれた二人の距離は、もう演技でも役割でもなかった。
次々と夜空を焦がす約五百発の光のシャワーの下で、二人はただ静かに寄り添い、互いの嘘のない体温と、世界で一番美しい夜空の記録を、その心の奥底へと深く刻み込んでいた。




