08.5.身体が覚えているノイズ
祭りの熱気が嘘のように引き、激しい蝉時雨が校庭の木々から降り注ぐ七月下旬の火曜日。
夏休み期間中ではあるが、Webメディア「Writia」の定期更新と、先日の桜ヶ瀬夏祭りに関する取材報告をまとめるため、ライティング部は今日も活動日を設けていた。
湊は、じっとりと汗の滲む首筋を制服のサマーニットの襟越しに拭いながら、翠明高校の昇降口へと足を踏み入れた。夏休みの校舎は静まり返っており、自分の上履きの音がコンクリートの床に寂しく反響する。
指定された下駄箱の前に立ち、ローファーを脱ごうとした、その時だった。
「……あ」
すぐ隣の下駄箱を開けようとしていた人影が、小さく声を漏らした。
驚いて顔を向けると、そこには結衣が立っていた。きっちりと整えられた翠明高校の制服姿。髪はいつものように低めの位置で結ばれており、眼鏡の奥にある琥珀色の瞳が、不意の遭遇にわずかばかり揺れている。
一瞬、時が止まったかのような、ひどく濃密で気まずい沈黙が二人の間に流れた。
一昨日の夜、言の葉公園の高台で、鳴り響く花火の下、完全に身体を密着させていたあの瞬間の記憶が、網膜の裏側で鮮烈に蘇る。触れ合っていた背中の柔らかさ、驚くほど早かった互いの鼓動、そして暗闇のなかで呼び合った、お互いの名前。
湊は顔が一気に熱くなるのを感じながら、慌てて視線を泳がせ、喉の奥から声を絞り出した。
「お、おはよう、瀬戸口さん」
「おはよう、佐倉くん」
結衣の声も、どこか上ずっている。二人はギクシャクとした動作で上履きに履き替え、どちらからともなく並んで中央階段へと歩き出した。
階段の踊り場に差し掛かったとき、湊は意を決して、彼女の足元へ視線を落とした。白い肌の細い足首は、一昨日のような不自然な歩調を刻んではいない。
「あの……足、もう大丈夫?鼻緒のところ、かなり赤くなってたから、気になってて」
湊の実直な問いかけに、結衣は一瞬だけ歩みを緩め、それから小さく頷いた。
「ええ、大丈夫よ。あの後、適切に冷やして休ませたから、皮膚の炎症は完全に治まったわ。……その、心配してくれて、ありがとう」
「よかった。本当に心配したんだよ、結衣。あ、いや、瀬戸口さん……っ」
無意識のうちに口を突いて出た名前に慌てて、湊は言葉を濁し、苗字へとリライトしようとした。しかし、結衣は階段の途中でぴたりと足を止め、湊の言葉を遮るようにして、眼鏡のブリッジを指先でクイと押し上げた。
「……結衣でいいわよ」
「え?」
「結衣でいいと言っているのよ、佐倉くん。……いいえ、湊」
結衣は顔を真っ赤に染め上げながらも、いつもの毅然とした、しかしどこか必死な口調で早口に捲し立て始めた。
「冷静に論理的な状況分析を行ってみなさい。私たちはいずれも一年生の同級生であり、ライティング部という同じ組織に属する共同執筆者よ。太陽や凛だって、最初からお互いを下の名前で呼んでいるでしょう?私たちだけが頑なに苗字でのコミュニケーションに固執し続ける方が、情報伝達のコストとして不自然極まりないわ。だから、一昨日の役割が終了したからといって、わざわざ元の名札に戻す必要性なんて、どこにも存在しないのよ。何も不思議なことじゃないわ。分かった?」
「あ、うん……分かった、結衣」
一気に言い切った結衣は、耳の付け根まで朱に染めたまま、湊の返事を聞くと同時に弾かれたように階段を駆け上がっていった。湊はその背中を追いかけながら、胸の奥がラムネの泡のようにはじけるような、不思議な高揚感を覚えていた。
二人が部室棟の二階にある、ライティング部の部室のドアを開けた瞬間。
「おっ、主役たちの登場じゃん!」
「結衣ちゃん、湊くん、おっはよー!」
待ち構えていたかのように、陽菜と凛が嬉しそうに声を張り上げた。
部室の中には、陽菜と凛、陸と駆とだけでなく、祭りには参加していなかった部長の神崎涼香の姿もあった。
「二人とも、お疲れ様。とても良い顔をしているわね」
涼香が長机の端で、包み込むような穏やかな微笑みを浮かべて二人を迎える。
状況が飲み込めず、おどおどと立ち尽くす湊の視界に、中央の大型モニターの画面が飛び込んできた。そこには、暗闇のなか、大輪の花火を見上げる二人の浴衣姿の「後ろ姿」が、圧倒的な美しさで映し出されていた。湊の藍色の袖が結衣を包み込むように支え、二人の距離は一ミリの隙間もないほどに密着している。
「うわああっ!?な、なんでこれを!」
湊が絶叫し、結衣もまたタブレットを落としそうになりながら硬直した。
「高城先輩……!勝手に個人のプライバシーをパブリックなドメインにさらさないでください!これ、どこから撮ってたんですか!」
「……羽明橋の袂、規制線の外側。超望遠レンズ。最高のファーストハンドだ」
陸は表情ひとつ変えず、冷えたペットボトルのお茶を口に運んでいる。
「ちょっとちょっと、湊くん!」
陽菜が二人の間に割って入り、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら湊の肩を小突いた。他の部員たちは、結衣が下駄で足を痛めていたという詳細な事実を知らない。だからこそ、その写真が持つ純粋な熱量だけが、彼らの好奇心を刺激していた。
「いくら混んでたからって、なんで後ろからこんなにぎゅっと抱きしめるみたいにして花火見てるわけ?理由を論理的に説明してもらいましょうか!」
「それは、その、あの橋のところで急に人が押し寄せてきて、危なかったから、僕が支えるしかなくて……」
「へえー?支えるしかなくて、そのまま最後まで密着ねえ?湊、やるじゃん。ウチらから見たら完全に完璧な彼氏って感じだし!」
凛が速いリズムの口調で囃し立て、部室の温度が一気に上がる。
結衣は顔を真っ真っ赤にして俯き、「これは、不可抗力による物理的なポジショニングの結果であって……」と小声で弁明するが、誰も聞いていない。
「いいか、湊、結衣」
それまで腕を組んでモニターを見ていた駆が、一歩前に出て真面目な声を出した。
「冷やかすのはここまでだ。俺たちが注目すべきは、この写真が持つ圧倒的な『情報の価値』だ。ネットを探せば、桜ヶ瀬夏祭りのタイムスケジュールや花火のプログラムといった二次情報はいくらでも転がっている。だがな、この場にいたお前たち二人が、その身体で、主観で掴み取ってきたこの空気感こそが、最強のファーストハンド、一次情報なんだ」
「遠藤くんの言う通りよ」
涼香が静かに言葉を重ねる。穏やかだが、重みのある丁寧語が部室を満たしていく。
「佐倉くん、瀬戸口さん。あなたたちが昨日、共有ドライブに上げてくれた記事の初稿を読みました。データとしては非常に正確で、よくまとまっているわ。けれど、どこか『誰かが書いたガイドブック』の模倣のようになってしまっている。読者がWritiaに求めているのは、そんな客観的な事実の羅列ではないの。その場にいた二人が、何を感じ、どう心が動いたかという、剥き出しの一次情報なのよ」
涼香の言葉が、湊の空っぽな胸の奥底にすとんと落ちた。
確かに、昨日二人でweb上で書いた下書きは、駆に突っ込まれないようにと意識する余り、完璧ではあるものの、どこか冷たい「お出かけ情報」に終始していた。自分たちが肌で感じた、あの羽明橋の圧倒的な混雑の恐怖や、その中で重ね合わせた体温、そして間近で見た花火の地響きのようなノイズは、すべて「余計な主観」として削ぎ落としてしまっていたのだ。
「やるべきことは見えたな」
駆が不敵に笑い、二人の長机を叩いた。
「この陸の撮った写真を核にして、お前たちの掴んだ一次情報を文章に注ぎ込むんだ。今ある不完全な下書きを、読者の心を震わせるコンテンツへと完全にリライトしてもらう。いいな、湊、結衣」
「……分かりました、遠藤先輩」
結衣が、まだ赤みの残る顔をきりりと引き締め、自分のノートPCを開いた。
「やるからには、この一次情報の価値を最大限に活かした完璧な記事へと、リライトしてみせます。……いくわよ、湊」
「うん、結衣。僕たちの言葉を、もう一度書き直そう」
周囲のニヤニヤとした視線を背に受けながら、二人は同時にキーボードへと手を置いた。自分たちの嘘のない体験を、世界へと届けるためのリライト作業が、今、部室の静かなタイピング音とともに始まろうとしていた。




