08.3.ラムネの泡
焼きそばのパックを片手に、二人はさらに混雑の度合いを増すことのは通りをゆっくりと進んでいた。
日が完全に落ちたことで、通りに並ぶ露店の明かりがいっそう鮮やかに闇に浮かび上がっている。から揚げの揚がるパチパチという音、お好み焼きのソースが焦げる香ばしい匂い、そして浴衣の擦れる音と下駄の響き。それらすべての要素が、桜ヶ瀬の夏祭りを構成する生々しい記録として湊の五感に染み込んできた。
最初は喉に引っかかっていたお互いの名前の響きも、露店をいくつか巡り、メモ帳に「Writia」用のファクトを書き留めていくうちに、驚くほど自然なものへと変化していた。
「湊、あっちの金魚すくいの露店、客層のほとんどが近隣の小学生とその保護者ね。地域密着型の祭りとしての側面を強調するなら、この時間帯のデータを外すわけにはいかないわ」
「うん、そうだね、結衣。手前のリユース食器の回収ブースとの位置関係も、動線として記録しておこう。若い世代の環境意識を測るいい指標になりそうだし」
結衣が手にしたタブレットに鋭い視線を走らせ、湊がそれを実直に補佐する。
二人はすでに、駆から与えられた「カップル役」という偽りの設定を演じるぎこちなさを乗り越えつつあった。むしろ、お互いを名前で呼び合うことで余計な心理的壁が取り払われ、ライターとしての連携は普段の部室での作業以上に滑らかに機能し始めている。お互いの声が喧騒の中で互いの耳に真っ直ぐ届くたび、言葉にできない確かな信頼感が二人の間に積み重なっていくのが分かった。
しかし、そんな充実感の中で、湊はある違和感に気づく。
結衣の歩幅が、さっきから明らかに狭くなっているのだ。時折、アスファルトのわずかな段差を越えるときに、彼女の眉が一瞬だけ痛そうにひそめられるのを、湊の視線は見逃さなかった。
完璧主義の彼女のことだ。ここで「足が痛い」などと言って、取材の足を引っ張るような真似は絶対に自分から言い出さないだろう。
湊は周囲を見回し、少し離れた場所に設置されている木製のベンチと、そのすぐ近くにある飲料の露店へ視線を向けた。
「……あ、結衣。ちょっと喉が渇かない?僕、あそこの露店でラムネを買いたいんだけど、付き合ってくれるかな」
「ラムネ?取材の効率を考えるなら、水分補給は手短に済ませるべきだけど……」
「いいから、ほら。あそこのベンチがちょうど空いてるし、少しだけ座って整理しよう」
湊はしれっとした口調を意識しながら、結衣の返事を待たずに歩き出した。結衣は不承不承といった様子で、けれどどこかホッとしたように湊の後に従った。
冷えたガラス瓶のラムネを二本、露店の店主から受け取り、湊は結衣をベンチへと促す。
腰を下ろした結衣は、深く息を吐きながら、無意識のうちに右足の足首へと手を伸ばした。浴衣の裾からわずかに覗いた彼女の白い足の甲、その親指と人差し指の間の皮膚が、慣れない下駄の鼻緒に擦れて痛々しく赤くなっているのが見えた。
湊は、自分が最初からその不調に気づいていたことを悟られないよう、今初めて気がついたという風を装って、極めて自然なトーンで声をかけた。
「……あれ?結衣、足、大丈夫?鼻緒のところ、少し赤くなってるみたいだけど」
「え……」
結衣は弾かれたように顔を上げ、琥珀色の瞳を丸くした。それから、自分の失態を恥じるように、慌てて浴衣の裾を引っ張って足を隠す。
「なんでもないわ。やるからには完璧に、と決めたのだから、このくらいの摩擦熱、論理的に計算の範囲内よ。心配いらないわ」
「計算って言ったって、痛いものは痛いでしょう。無理をしたら、この後の取材だって続けられなくなるよ。……ほら、これ、冷たいから少し当てておいて」
湊はガラス瓶の表面についた冷たい水滴を指先で拭い、ラムネの瓶を結衣の手元へと差し出した。
結衣は受け取った瓶の冷たさに小さく身震いし、躊躇いがちに応急処置としてそれを赤くなった肌へとそっとあてる。ひんやりとした刺激が心地よかったのか、彼女の強張っていた肩の力が、張り詰めた糸が緩むように抜けていくのが分かった。
「……平気よ。でも、その、心配してくれてありがとう、湊」
結衣の口から漏れた、いつになく素直で柔らかい声音。
花火の前の夕闇の中、ベンチに並んで座る二人の距離は、ことのは通りを歩いていたときよりもずっと近く感じられた。言葉のルールから始まった「名前呼び」は、いつの間にか二人の間に芽生えた確かな信頼関係の象徴として、嘘のない温度を持ってそこに定着していた。
しばらく遠くのお囃子を聴きながらラムネの泡を見つめていると、周囲を歩く人々の流れが、一方向に加速し始めていることに湊は気づいた。商店街の提灯の明かりの向こう、言の葉公園へと続く道へ、波のような人混みが吸い込まれていく。
「そろそろ、花火の時間ね」
結衣がラムネの瓶を離し、ゆっくりと立ち上がった。その表情には、先ほどまでの強がりではない、ライターとしての、そして一人の少女としての純粋な期待が宿っていた。
「うん。打ち上げ会場の近くまで移動しよう。言の葉公園へ向かうには、この先の羽明橋を渡るのが一番確実なルートだからね」
湊は結衣の歩幅に完全に合わせるように、ゆっくりと一歩を踏み出した。街全体の熱気が、夜空に咲く大輪の光を求めて動き出す。二人は静かに頷き合い、取材の最終目的地である花火大会の会場を目指して、人混みのうねりの中へと進んでいった。




