08.2.偽りの名前、あるいはぎこちない距離の測り方
夕闇のグラデーションがことのは通りを包み込み、軒先に吊るされた無数の提灯が、いっせいに琥珀色の灯りを宿していく。山車の巡行を待つ人々の熱気と、屋台から漂うソースや綿あめの甘い匂いが混ざり合い、商店街はさながら巨大な生き物のように脈打っていた。
その喧騒のなか、湊と結衣の二人だけは、周囲の熱気から完全に切り離されたかのように、不自然な沈黙を保ったまま並んで歩いていた。
「……あの、瀬戸口さん。次はあっちの金魚すくいの露店を」
「ストップ」
結衣がぴたりと足を止め、手にした巾着袋の紐をきつく握りしめた。浴衣の襟元を正し、普段の鋭い眼差しで湊を見据える。
「さっきの遠藤先輩の指示を忘れたの?私たちは今、この記事を成立させるための『役割』を担っているのよ。苗字で呼び合っている時点で、ペルソナとしてのリアリティは皆無だわ。読者に設定の甘さを見透かされるような不完全な取材は、私の完璧主義が許さない」
「それは、そうだけど……」
湊は藍色の浴衣の袖に腕を通したまま、所在なげに視線を泳がせた。
確かに、同じ一年生の凛から『湊』と呼ばれたり、二年生の陽菜から『結衣ちゃん』と呼ばれていたりするのを聞くことには、何ら抵抗はない。それは聞き慣れた日常の響きだからだ。
しかし、自分と結衣が、お互いにその境界線を越えるとなると、話はまったく異なっていた。喉の奥に固形物が引っかかったような、奇妙な気恥ずかしさが全身を支配する。
「やるからには徹底するわよ。いい?……いくわよ、み、み……」
結衣の凛とした声が、急にトーンダウンした。琥珀色の瞳がわずかに揺れ、小さく唇が震える。
「み……みなと」
「う、うん。何かな、ゆ、ゆい……さん」
「『さん』はいらないわ!敬称をつけた時点でカップルとしての関係性が破綻するでしょう。もう一度リライトしなさい」
「あ、うん。結衣……」
口にした瞬間、湊は心臓が跳ね上がるのを感じた。自分の声でありながら、どこか他人の言葉を喋っているような感覚に陥る。結衣もまた、完璧に演じきると宣言した割には、耳の付け根まで真っ赤に染め上げてふいと顔を背けていた。
そんな二人のぎこちない空気など、祭りの喧騒と容赦ない身内は放置してくれない。
「ちょっとちょっとー!何よ今の初々しいやり取り!完全にこっちの心臓が持たないんだけど!」
背後から、陽菜が待ってましたとばかりに割り込んできた。私服の軽い足取りで二人の顔を覗き込み、楽しそうに手を叩く。
「『みなと』に『ゆい』だって!響きが良すぎてニヤニヤが止まらないわぁ。ねえ凛ちゃん、見た?」
「見た見た!ウチ、マジで感動しちゃった!湊、緊張しすぎて肩がロボットみたいに四角くなってるし!もっと自然に結衣の歩幅に合わせなよー!」
凛が速いリズムの口調でまくしたて、湊の背中をバシバシと叩く。その横では、陸が一切の感情を排した無表情のまま、静かに一眼レフのレンズを二人に向けていた。カシャ、と短い駆動音が喧騒に紛れる。
「……撮れた。ぎこちなさのなかの純情。いいコンテクストだ。あとは任せる」
「高城先輩!ですから勝手に記録しないでくださいと申し上げているはずです!」
結衣が語気を強めて抗議するが、陸はすでに別の露店へ視線を移している。
さらに、二人の行く手を阻むように、威勢の良い声が頭上から降ってきた。
「はい、いらっしゃい!浴衣姿の可愛いお嬢さんと、そこのボク!仲良くデートかい?うちの焼きそば、特製ソースで美味いよ!」
鉄板から激しく湯気を立ち上がらせている露店のおじさんが、コテを鳴らしながら白い歯を見せた。
湊は完全にパニックになり、
「あ、いえ、僕らはその、そういう関係じゃなくて、部活の取材で……」
「買うわ」
湊の言葉を遮り、結衣が毅然と一歩前に出た。巾着袋から財布を取り出し、おじさんに小銭を差し出す。
「二つください。ほら、行くわよ、湊。いつまでもおどおどして、周囲に釈明しようとしないで。ターゲット層としての自覚が足りないわ」
「う、うん……」
焼きそばのパックを受け取り、二人は再び歩き出す。陽菜たちは少し離れたところから、飽きもせず二人を観察するように付いてきていた。
人混みはさらに密度を増し、下駄の鼻緒が結衣の白い足の甲に擦れるかすかな音が、湊の耳に届いた。結衣は「完璧なカップル」のデータを集めるかのように、熱心に周囲の露店の配置や客層を観察しているが、その歩調は明らかに普段より固く、遅い。
「あの、結衣。荷物、僕が持つよ」
今度は、少しだけ淀みなく名前を呼ぶことができた。
結衣は一瞬、驚いたように足を止め、それから焼きそばの袋を湊に手渡した。
「……感謝するわ、湊。でも、私の足を引っ張らないでね。私たちは完璧な成果物を出さなければならないのだから」
強気な言葉とは裏腹に、結衣の指先がわずかに震えているのを、湊は見逃さなかった。お互いの名前を呼ぶたびに、二人の間にある見えない境界線が、少しずつ、けれど確実に書き換えられていくような感覚が、ことのは通りの熱気のなかに溶け出していた。




