08.1.不公平なドレスコード
桜ヶ瀬の夏は、夕暮れ時になってもその熱量を簡単には手放そうとしない。
アスファルトから這い上がる陽炎が、歴史ある商店街「ことのは通り」の古い木造建築をわずかに歪ませている。遠くから響くお囃子の笛の音が、まとわりつくような湿気を含んだ空気を小さく震わせていた。
佐倉湊は、ことのは通りの一角にある時計店の前で、何度も自分の足元を見つめていた。
藍色の染め地に、控えめな白の格子模様が入った浴衣。中学校の授業以来で袖を通したそれは、どうにも自分の身体に馴染んでいない気がしてならない。帯の結び目が緩んでいないか、裾がだらしなく広がっていないか、気になってさっきから何度も指先で触れては確かめていた。
何より、周囲をせわしなく行き交うお祭りモードの通行人たちが、自分のことを見ているような錯覚に陥る。中身の空っぽな自分が、こんな風に季節の主役のような格好をして歩いていること自体が、ひどく場違いに思えて仕方がなかった。
「……遅い。いつまで下を向いているの、佐倉くん」
低く、けれど凛とした声がすぐ横から降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、そこに瀬戸口結衣が立っていた。
湊は思わず息を呑み、言葉を失った。いつも部室で見せる、髪をきっちりと結び、翠明高校の制服を乱れなく着こなしている彼女の姿はそこにはなかった。
淡い桜色の生地に、細い撫子の花が描かれた浴衣。髪は少し高めの位置ですっきりとまとめられ、普段は眼鏡の奥にある涼しげな瞳が、夕暮れの陽光を浴びて琥珀色に輝いている。白く細い首筋が夕闇に浮かび上がるようで、湊は慌てて視線を斜め下の地面へと逸らした。
「あ、ごめん。瀬戸口さん、その、すごく……」
「すごく、何よ。言いかけの文章ほど、読み手にストレスを与えるものはないわ。正確に言語化しなさい」
「いや、似合ってる、なと思って」
蚊の鳴くような声で言うと、結衣は一瞬だけパチリと瞬きをした。それから、ほんの少しだけ頬を朱に染め、ふいと顔を背ける。
「……当然よ。やるからには着付けも帯の選択も完璧を期したわ。それより、他のメンバーはまだなの?」
結衣が小さな巾着袋を握りしめながら周囲を見回した、その時だった。
「おーい!湊くん!結衣ちゃん!こっちこっち!」
人混みの向こうから、大きく手を振る影があった。ライティング部の二年生、三村陽菜だ。その後ろには、同じく二年生の小野寺拓海とカメラを首から下げた高城陸、一年生の市川凛、最後に三年生の遠藤駆が歩いてくる。
だが、近づいてくる彼らの姿を見た瞬間、湊と結衣は同時に凍りついた。
陽菜はカジュアルなノースリーブのカットソーにデニムのショートパンツ。凛は流行りのオーバーサイズTシャツにスニーカー。拓海はポロシャツ、陸は機能性の高そうな黒いTシャツ。そして遠藤駆は、胸元にブランドのロゴが入った爽やかなサマーニットを着こなしている。
全員が、完全に、動きやすさを最優先した私服姿だった。
「……え?」
湊の口から、間の抜けた声が漏れる。
結衣もまた、信じられないものを見るかのように目を見開いていた。
「ちょっと、どういうことですか、遠藤先輩」
結衣の声が、いつになく尖ったものに変わる。
「今日の連絡には、確か『全員浴衣で集合。夏の情緒を体験する』と記載されていたはずです。私の記憶違いではありません。トーク履歴にも残っています」
「おっと、結衣ちゃん、怒らないでよー!」
陽菜がくすくすと言いながら、結衣の肩を叩いた。
「いやー、やっぱり浴衣姿の2人、マジで絵になるわぁ。陸くん、早くシャッター切って!」
言われた陸は、表情ひとつ変えずに一眼レフカメラを構え、ファインダーを覗き込む。
「……撮れた。あとは任せる」
「ちょっと、高城先輩!勝手に撮らないでください!」
結衣が抗議するが、陸はすでに次の獲物を探すように、ことのは通りの奥へと視線を巡らせていた。
「おいおい、湊、顔が真っ赤だよ?緊張しすぎだし!」
凛が横から顔を覗き込んできて、速いリズムの口調で笑う。
「ウチら完全に引き立て役じゃん。っていうか、2人ともマジでお似合いのカップルって感じ!」
「り、凛さん、変なこと言わないでよ……。僕らはただ、先輩の指示通りに……」
湊が必死に弁明しようとしたとき、輪の中心にいる遠藤駆が、満足そうに腕を組んで頷いた。
「いいか、湊、結衣。戦略とは、常に情報の非対称性を利用するものだ」
「意味の分からない煙に巻くような表現はやめてください」
結衣が駆を真っ直ぐに睨みつける。しかし、駆は全く動じる風もなく、爽やかな笑顔のまま2人に尋ねた。
「じゃあ聞くが、もし最初からお前たちに『今日はお前たち二人にカップル役の取材をしてもらうから、浴衣で来い』と正直に言っていたら、お前たちは浴衣で来たか?」
駆の鋭い問いかけが、ことのは通りの喧騒を一瞬だけ打ち消した。
「それは……」
結衣の言葉が詰まる。隣にいる湊も、何も言えずに黙り込むしかなかった。
確かに、もし事前に「カップル役」などという恥ずかしい役割を与えられると知っていたら、二人とも絶対に何らかの理由をつけて断っていただろう。あるいは、普通の私服で来て、お茶を濁そうとしたに違いない。
二人が沈黙したのを見て、駆は「だろ?」といたずらっぽくウインクをした。
「お前たち二人の実直さと完璧主義を考慮した上での、これが最短ルートの戦略だ。今回の取材は、祭りの実行委員会から、若いカップルの視点に絞ったペルソナ記事を書いてほしいと頼まれてな。Writiaのアクセス数を跳ね上げるための、極めて重要なミッションなんだ」
「その依頼、本当なんですか……?」
湊が恐る恐る尋ねるが、駆は「さあな、真偽は重要じゃない。結果が全てだ」と煙に巻く。
「ルールは一つだけだ。カップル役を演じる以上、今日この瞬間から、お前たちはお互いを苗字で呼ぶな。いいな、湊、結衣。お互いを下の名前で呼び合って、この祭りの熱量を当事者として取材してこい」
駆の宣言に、陽菜と凛が「ヒュー!」と歓声を上げる。
夕暮れの商店街のど真ん中で、湊と結衣は完全に退路を断たれていた。浴衣の袖を通り抜ける風は、これから始まる非日常的な時間の予感に、どこか熱を帯びているように感じられた。




