01.2.自主自立という名の空白
翠明高校の体育館には、ワックスと新築の校舎が混ざり合ったような、独特の清潔な匂いが充満していた。
数百人の新入生が整然と並ぶ中、佐倉湊はパイプ椅子の硬い感触を臀部に感じながら、壇上の校長を見上げていた。
「本校が掲げるのは、一貫して『自主自立』の精神です」
九条 正臣校長の声は、高齢とは思えないほど張りがあり、マイクを通さずとも体育館の隅々まで届きそうだった。
「私たちは、諸君に正解を与えることはしません。何を学び、何を信じ、どのような人間としてこの門を去るか。そのすべては、諸君自身の選択に委ねられています。自由とは、自らの足で歩む権利であり、同時にその歩みに責任を持つという義務でもあります」
湊の膝の上には、入学記念品として配られたばかりの最新型のタブレット端末が置かれていた。アルミ製の筐体はひんやりと冷たく、まだ指紋ひとつ付いていない。
この学校では、すべての生徒にこの「武器」が与えられる。授業のノートテイクから課題の提出、さらには生徒会活動や部活動の広報に至るまで、あらゆる活動の基盤がこの薄い板の中に集約されている。
(自らの足で歩む、か……)
湊はその言葉を反芻し、胃のあたりが軽く疼くのを感じた。
中学までの世界は、もっと親切な「下書き」が用意されていた。決められた教科書を読み、決められたテストで点を取れば、少なくとも落第はしなかった。しかし、この翠明高校が突きつける「自由」は、湊のような「空っぽ」な人間にとっては、広大な荒野に放り出されたような恐怖と同義だった。
「いいか、お前ら。高校三年間は、自分という物語の主人公になる期間だ」
式典が終わり、教室に戻った1年C組のホームルーム。担任の岡林 健一は、黒板に大きく「主人公」と書きなぐった。二十代後半の、まだ情熱の火が消えていない若手教師らしい、熱を帯びた声だ。
「待っていてもエピソードは降ってこない。自分から動いて、中身のある、読み応えのある三年間を書き上げてほしい。先生は、そのためのサポートは惜しまないつもりだ」
教室のあちこちで、前向きな、あるいは少し気恥ずかしそうな笑い声が漏れる。
けれど、湊は開いたままのタブレットの画面、初期設定のままで真っ白な、デフォルトの壁紙を眺めていた。
岡林の言葉は、今の湊には重すぎた。主人公になるためには、語るべき「何か」が必要だ。しかし、湊の手元にあるのは、何の変哲もない日常と、誰にでも言えるような凡庸な感想だけだった。
「なあ湊、お前さっきからタブレット見つめすぎだろ。なんか面白い設定でも見つけたか?」
後ろから柏木が首を突っ込んできた。彼はすでに、配られた端末を使いこなして、クラスのトークグループのQRコードを表示させている。
「いや……別に。ただ、何から始めればいいのかなって」
「まずはこれだろ!ほら、C組のグループ入ってよ。佐野さんが作ったんだぜ」
柏木に促されるまま、湊は自分の端末でカメラを起動し、四角いコードを読み取った。
瞬時に、画面の中に「1年C組・公式」というトークルームが現れる。そこではすでに、佐野杏奈を中心とした女子グループが、入学式の写真やスタンプを猛烈な勢いで投下していた。
『入学式おつ!』
『校長の話、長かったよねーw』
『それな!でも自由って感じして最高かも!』
流れていく言葉の川。湊はその速さに圧倒され、キーボードを表示させたままフリーズしてしまった。
何か、自分も送らなければ。けれど、「よろしくお願いします」では固すぎる気がするし、「お疲れ様」というのも、まだ誰とも会話していない自分には不相応な気がした。
結局、湊は何も打ち込めないまま、端末のスリープボタンを押した。
「……あ、井上くん」
ふと視線を上げると、窓際の席に座っていた井上が、席を立って教室を出ていくところだった。彼の机の上には、先ほどまで読んでいた文庫本が置かれている。
彼はクラスの喧騒に加わることもなく、しかし孤立を恐れる様子もなく、ただ淡々と自分の時間を過ごしているように見えた。彼は「自主自立」というルールを、もっとも高いレベルで体現しているのかもしれない。
湊は、自分の胸の中に広がる「空白」を意識せずにはいられなかった。
この学校という巨大な編集部の中で、自分だけが「白紙」のまま、何も書くことができない。
岡林が黒板に書いた「主人公」という文字が、自分をあざ笑っているような気がした。
教室の空気は、新しい生活への期待で熱を帯びている。
けれど、その熱から疎外されたまま、湊は自分の存在が希薄になっていくような感覚に陥っていた。
自分には、書くべきことが何もない。
伝えるべき相手も、守るべき盾も、戦うための武器も。
そんな絶望的な「空っぽ」さを抱えたまま、湊は逃げるように教室を後にした。
放課後の廊下には、まだ馴染まない制服を着た生徒たちが、部活動の勧誘ポスターを眺めながら歩いている。
その光景すべてが、湊にとっては「中身のある人々」による、自分とは無関係なパレードのように見えた。




