01.1.透明な僕の、色のない春
世界には、聞き取れない「音」が溢れていた。
四月の風はまだ少しだけ冷たくて、鼻先を掠めるたびに、春の匂いを連れてくる。東京都西部、多摩川の支流に沿って広がるここ桜ヶ瀬は、その名の通り、街全体が淡いピンク色のフィルターをかけたような景色に包まれていた。
桜ヶ瀬川の堤防沿い。数キロにわたって続く桜並木の下を、同じ制服に身を包んだ新入生たちが歩いている。私立翠明高校。佐倉 湊もその新入生の一人だった。
「なあ湊、聞いたかよ。今年のサッカー部、監督が変わってマジで全国狙えるらしいぜ」
隣を歩く柏木 亮が、弾んだ声でスマホの画面を突きつけてくる。中学からの腐れ縁である柏木は、相変わらず太陽のような屈託のない笑顔を浮かべていた。
「……へえ、そうなんだ。すごいね」
湊の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「なんだよ、興味なさそうだなあ。お前も何か部活入るんだろ? 翠明は『自主自立』がモットーなんだぜ。何もしないで帰宅部なんて、もったいねーよ」
もったいない、か。
柏木の言葉は正論だった。けれど、湊にはその「何か」が見当たらない。
周囲を見渡せば、誰もが自分だけの「色」を持っているように見えた。部活に打ち込む情熱、将来の明確な夢、あるいは隣を歩く誰かへの秘めた恋心。そうした鮮やかな熱量が、彼らの言葉を力強く、色鮮やかに彩っている。
ひるがえって、自分はどうだろう。
佐倉湊。十五歳。趣味は特になし。特技もなし。
内側を覗き込んでも、そこには形のない霧のような虚無感、「空っぽ」な空白が広がっているだけだった。湊の口から出る言葉は、いつも誰かの言葉をなぞっただけの、透明で味のしない借り物だ。
「僕は、いいよ。柏木みたいに熱くなれるもの、持ってないし」
「そんなの、これから探せばいいじゃん。ほら、急ごうぜ。入学式、遅れるぞ!」
柏木に背中を叩かれ、湊はたじろぎながらも歩みを早めた。
羽明橋の頂上で足を止めると、街が一望できた。きらきらと光る川面、風に舞う花びら、そして丘の上に立つ翠明高校の校舎。
その美しさに、湊の胸の奥がチリリと痛む。
この美しい景色を、自分はどんな言葉で表現すればいいのか。いや、表現したところで、自分の言葉に何の意味があるのか。
校門をくぐると、掲示板の前には人だかりができていた。
新入生のクラス分け。自分の名前を見つけて一喜一憂する声が、四月の青空に吸い込まれていく。
1年C組。そこが湊の新しい居場所になるらしい。
教室に入ると、すでにいくつかのグループができ始めていた。
中心にいるのは、声の大きな女子グループだ。
「やばい、この制服めっちゃ可愛くない?インスタ載せよ!」
「桜ヶ瀬のフィルター、マジ神なんだけど」
佐野 杏奈という名の女子が、手慣れた様子で自撮り棒を操っている。彼女たちの会話は、まるで記号の羅列のように速く、それでいて完璧な共通認識の上で成立していた。
湊には、彼女たちの輪に入るための「言葉」が見つからなかった。透明な壁に阻まれているような、そんな疎外感が背中に張り付く。
教室の隅、窓際の席。
そこには、一人の少年が静かに座っていた。井上 拓巳という名簿の主は、周囲の喧騒など耳に入らないかのように、厚い文庫本に目を落としている。
一見、湊と同じ「静かな側」の人間。けれど、彼の指がページをめくる迷いのない動きには、明確な「意志」が宿っていた。彼は一人でいることを、消去法ではなく、自立した選択として行っているのだ。
湊は、自分の席に座り、まだ何も書き込まれていない真っ新なノートを開いた。
このノートに、何を書けばいいのだろう。
これから始まる三年間。自分という物語。
けれど、ペンを握る指先は冷たいままで、一文字も浮かんでこない。
湊はただ、窓の外で散り続ける桜を眺めていた。
それは、完成されることのない「下書き」のような自分の人生を象徴しているようで、目を逸らしたくなった。
「……空っぽだ」
誰にも聞こえないほど小さな声で、湊は呟いた。
その言葉だけが、今の彼にとって唯一の、嘘のない真実だった。




