03.3.煙の中に消えたメモ
山中湖畔の夕暮れは、驚くほど急ぎ足でやってきた。標高の高さゆえか、陽が傾くと同時に空気の粒子が急速に冷え込み、キャンプサイトを囲む赤松の影が長く伸びていく。
「よーし、男子!遊んでないでさっさと火を熾して。こっちは野菜切り終わっちゃうんだから!」
班長の佐野杏奈が、Tシャツの上に羽織ったチェックのネルシャツの袖をまくり上げ、鋭い声を飛ばした。彼女の手元では、まな板の上のジャガイモが小気味よい音を立てて断裁されている。湊たちの班は、湊、柏木、井上、佐野、そして同じクラスの女子である川口美咲と森下愛の六人編成だ。
「わかってるって。湊、井上、行くぞ!俺のキャンプスキルを見せてやる」
柏木が意気揚々と、貸し出された薪の束をかまどに放り込んだ。湊も私服のパーカーの袖を捲り、拓海先輩から教わった通り、最初は左手に持ったノートに「16:30 調理開始」と書き込んだ。周囲の班からも、煙の匂いと賑やかな笑い声が上がり始めている。
しかし、平和な記録が続けられたのは、そこまでだった。
「……あれ。全然つかなくないか?」
柏木が着火剤に火をつけ、新聞紙を投入してから十分が経過した。かまどからは目に沁みるような白い煙が猛烈に噴き出しているが、肝心の薪に火が移る気配がない。
「柏木、それ薪の組み方が密閉しすぎなんだよ。もっと空気が通るようにしないと」
普段は寡黙な井上が、少し焦った様子で薪を組み替えようとするが、その隙間に森下が「あ、水入れすぎちゃったかも!」と飯盒を危うい手つきで運んできた。
「ちょっと愛、危ないって!ああっ、溢れた水が火にかかった!」
川口が叫ぶ。案の定、ジュッという無情な音と共に、ようやく熾りかけていた小さな火種が、溢れ出た水によってあっけなく消滅した。
「何やってんのよ、もう!」
佐野が包丁を置いて、腰に手を当てて怒鳴り込んでくる。
「火がつかないとカレーが作れないでしょ。美咲、もっと新聞紙持ってきて!男子、うちわ!死ぬ気で仰いで!」
「わ、わかった!」
湊は慌ててノートとペンをパーカーのポケットに突っ込み、うちわを手に取った。もはや「5W1H」の記録どころではない。立ち込める煙で視界は真っ白になり、涙が止まらない。
「うわっ、目が、目が痛い!」
「湊、もっと下からだ!酸素を送り込め!」
柏木の怒号に近い指示に合わせ、湊は必死に腕を振る。周囲を見渡せば、隣の班も飯盒が真っ黒に煤けていたり、玉ねぎを切って全員で号泣していたりと、キャンプ場は阿鼻叫喚の様相を呈していた。唯一、井上だけが煙に巻かれながらも黙々と小枝を削って火種を育てている。
「火、ついた。……今、入れて」
井上の静かな声に、女子たちが一斉に鍋を運んでくる。
しかし、今度は火力が強すぎた。
「美咲、肉入れて!焦げる、焦げるって!」
「待って、油引いたっけ!?」
「もういいから全部投入して!」
森下が半ばパニックになりながら、皿の上の豚肉と野菜を一気に放り込んだ。パチパチと脂が跳ね、佐野が悲鳴を上げて一歩下がる。
「湊、木べら!混ぜて!」
「あ、はい!」
湊は熱風に顔を焼きながら、立ち上る蒸気の中に身を投じた。煙とスパイスの匂い、そしてクラスメイトたちの怒声と笑い声。パーカーはいつの間にか煤で汚れ、手はジャガイモのデンプンで白くなっている。
ようやく煮込みに入った頃、今度は飯盒から「吹きこぼれ」のサインが出た。
「ああっ、飯盒が!誰か蓋押さえて!」
「熱い、持てないよ!」
「柏木、軍手しろって!」
井上が冷静に指示を飛ばし、柏木が「お、おう!」と軍手をはめて飯盒を火から下ろす。その間にも、湊は鍋の灰汁を取り、佐野がカレールーを割り入れる。
「……なんか、ドロドロすぎない?」
「水足して、水!」
川口が慌てて水を注ぎ、今度はスープカレーのようになってしまう。
「もう……どうにでもなれ!」
誰かがそう叫び、全員で鍋を見守った。辺りはすっかり暗くなり、各サイトの焚き火がオレンジ色の光を放っている。煙の向こう側で、柏木の顔も、佐野の顔も、みんな煤で汚れていたが、その表情には不思議な高揚感が宿っていた。
「……できた。たぶん」
佐野が最後の一混ぜをして、お玉を持ち上げた。
飯盒の蓋を開けると、少し芯が残っているものの、炊き立ての米の香りが鼻を抜けた。
不揃いに切られたジャガイモ、焦げた肉、シャキシャキ感が残る人参。
お世辞にも完璧とは言えないカレーライスだったが、六人で囲んだテーブルの中央で、それはどんな高級料理よりも輝いて見えた。
「いただきます……!」
一口食べた瞬間、柏木が「うっめぇ……!」と絶叫した。
「なんか、ちょっと焦げ臭いけど、最高だわこれ」
「本当。あんなに苦労したんだもんね」
森下が嬉しそうに微笑み、川口も大きく頷く。湊も口いっぱいにカレーを放り込んだ。舌の上で弾けるスパイスの刺激と、自分たちで熾した火の熱量。
ふと、湊は自分のポケットの中のノートを思い出した。
取り出してみると、ページは煙で燻され、端が少し折れ曲がっている。
白紙だ。
調理開始の時刻を書いて以来、一行も、一文字も書き込めていなかった。
5W1H。誰が、いつ、どのように。
そんな客観的な記録など、この怒涛の「青春」の渦中では、紙くず同然の価値しかなかった。
(どうしよう……何もメモできてない)
湊は少しだけ焦燥を覚えたが、目の前で「おかわり!」と叫ぶ柏木や、それを笑いながら制する佐野たちの姿を見て、ふと思った。
この熱量、この焦げた匂い、この煤けた顔。
これらすべてを、後で思い出しながら「言葉」にすること。それもまた、リライトのプロセスなのではないか。
湊は、空になった皿を見つめ、冷え込んできた夜風を頬に感じながら、自分の中に刻まれた「生きた情報」の感触を、消えないように強く噛み締めた。




