03.2.5W1Hの網を張る
バスが山中湖畔のキャンプ施設に到着すると、標高一〇〇〇メートルの冷涼な空気が、暖房の効いた車内で弛緩していた生徒たちの意識を鮮烈に叩き起こした。
目の前に広がる湖面は五月の柔らかな陽光を反射して銀色に輝き、その向こう側には、裾野を広げた富士山が、まるで巨大な監視者のように泰然と鎮座している。
「うっひょー、空気がうまい!湊、見てみろよあの富士山。学校の屋上から見るのとは迫力が違うぜ!」
柏木が大きく両手を広げ、スマートフォンのカメラを広角モードにして振り回している。他の生徒たちも同様だった。バスを降りた瞬間から、彼らは「観光客」としての全能感を享受し、目に映るすべての「映える」光景をデジタルデータとして消費し始めた。
しかし、湊は柏木の騒ぎに加わることなく、カバンのサイドポケットからB6サイズのリングノートと一本のボールペンを取り出した。タブレットは便利だが、こうした屋外の喧騒の中では、起動の手間がないアナログなメモの方が機動力がある。拓海先輩から教わった「現場の鉄則」の一つだ。
(まずは、網を張るんだ。事実という名の網を)
湊は、昨日の部活で涼香部長から叩き込まれた「世界のルール」を頭の中で反芻した。
ライターが現場に立ったとき、最初に行うべきは感動することではない。その場を構成している要素を、5W1Hという六つの杭で固定することだ。
「いいか、佐倉。初心者が陥る最大の罠は『なんとなく』だ」
拓海の厳しい声が蘇る。
「なんとなく楽しそう、なんとなく景色がいい。そんな曖昧な形容詞は、記事の解像度を下げる毒でしかない。まずWho、When、Where、Whatを埋めろ。これらは確定した『点』だ。その点と点を結ぶのがWhyとHow。この網を漏れなく張ることで初めて、読者に届けるための『一次情報』が完成する」
湊はノートの一ページ目に、素早く項目を書き出した。
When:5/11、13:15。
Where:山中湖畔「翠明森のキャンププラザ」中央広場。
Who:翠明高校一年生、引率教員、施設スタッフ。
What:オリエンテーリング開校式。
広場の壇上に、施設長と思われる日焼けした小柄な男性が立った。彼はマイクを握ると、朗々とした声で施設のルールや、これからの二泊三日の行程について説明を始めた。
湊は、男性の氏名を掲示板の案内図から確認して書き込み、さらに周囲の状況を観察した。
「……標高1050メートル。気温、推定16度。北西からの微風。広場の周囲には赤松の原生林」
柏木が横からノートを覗き込み、「お前、それ宿題か何かか?そんな細かいこと書いてどうすんだよ」と呆れ顔で言った。
「いや……部活の課題なんだ。これをやっとかないと、後で記事が書けなくなるから」
「へぇ、ライターってのも大変だな。俺なら『富士山超デカい!』の一行で終わらせるぜ」
柏木の軽口を受け流しながら、湊はさらに視線を走らせた。
広場には、クラスごとに整列した生徒たちの列が並んでいる。
別のクラスの列に、結衣の姿を見つけた。彼女は湊と同じように、周囲の浮ついた空気に流されることなく、小さな手帳を胸の高さで開き、冷徹な手付きでペンを動かしていた。その横顔には、「一文字も漏らさずに事実を狩り取ってやる」という、ハンターのような凄みが宿っている。
さらに別の列では、太陽がクラスメイトたちの輪の中心で笑いながらも、時折鋭い視線を施設長や設備に向けていた。凛もまた、スマホを自撮り棒に装着しているように見せかけて、動画モードで周囲のパノラマを記録している。
(みんな、もう始まってるんだ)
湊は、軽い戦慄を覚えた。
ここには、ただ遊びに来た生徒は一人もいない、いや、ライティング部の四人にとっては、こここそが「戦場」なのだ。
開校式が終わり、施設長が「それでは、二泊三日の共同生活の始まりです。まずは各クラスのキャンプサイトへ移動し、夕食の準備に取り掛かってください!」と宣言した。
その瞬間、整列していた生徒たちが一斉に動き出し、広場は喧騒に包まれた。
湊はノートの「What」の欄に、「開校式終了、野外炊事の準備開始」と書き加えた。
時計の針は午後一時四十五分を指している。
5W1Hの網は、まだスカスカの状態だ。基本的なデータは揃ったが、肝心の「Why」と「How」――なぜこの行事が行われ、どのように生徒たちの心が動くのかという「血」の部分は、まだ一行も書けていない。
「よし、湊!俺たちの班は三号サイトだってよ。火起こし、俺に任せとけって!中学のキャンプで鍛えたからな」
柏木が湊の肩を叩き、勇んで歩き出す。
湊は、ノートをカバンに仕舞いながら、柏木の背中を追った。
重いボストンバッグの重みが、一歩ごとに肩に食い込む。
けれど湊の頭の中は、これから始まる「野外炊事」というカオスの中で、いかにして5W1Hの杭を打ち込み、世界を「固定」するかのシミュレーションで一杯だった。
爽やかな高原の風が吹き抜ける中、湊は記録者としての第一歩を踏み出した。




