03.1.バスに揺られるリライトの残響
五月の連休が明けたばかりの桜ヶ瀬は、抜けるような青空に恵まれていた。
翠明高校の校門前には、巨大な観光バスが数台、エンジンの微かな振動を響かせて連なっている。一年生全員が参加する二泊三日の宿泊行事「新入生オリエンテーリング」。大型連休という弛緩した時間の後、まだどこか現実味を欠いた表情の生徒たちが、大きなボストンバッグを抱えて次々とバスに吸い込まれていった。
「湊、こっちこっち!窓側空けといたぜ」
先に乗り込んでいた柏木亮が、通路まで身を乗り出して手を振っている。湊は「サンキュ」と短く応じ、指定された席に腰を下ろした。
バスがゆっくりと動き出す。校門で見送る教師たちの姿が小さくなっていく。周囲の席では早くも菓子の袋が開く音がし、連休中の思い出話や、これから向かう山中湖での二泊三日への期待で、車内のボルテージは急速に高まっていった。
しかし、湊の意識は、隣で欠伸を噛み殺している柏木の存在よりも、膝の上にあるカバンの中身に向けられていた。
(……間に合って、本当によかった)
湊は、連休中の自分を思い返していた。
四月の「歓迎会」の翌日。小野寺拓海から「泥団子」と切り捨てられ、真っ赤な修正液をぶちまけたような惨状になった八〇〇文字の原稿。あの日、湊は逃げるように帰宅し、自室の机で深夜までタブレットと格闘した。
拓海から叩き込まれた「PREP法」。結論(Point)、理由(Reason)、具体例(Example)、結論(Point)。その無機質な四つのアルファベットに、自分の散らばった感情を無理やり押し込める作業は、まるで自分の内臓を正しい位置に並べ直すような、奇妙な痛みを伴うものだった。
翌日の放課後、湊は部室のドアを叩いた。
拓海は湊から差し出されたタブレットを無言で受け取ると、数分間、一言も発さずに画面をスクロールさせた。湊の心臓は、教室の片隅にある古時計よりも不規則な音を立てていた。
拓海は一度だけ眼鏡を押し上げ、スタイラスペンで画面の隅にいくつかの印をつけた。そして、ぶっきらぼうに湊へ突き返したのだ。
『……構造はできた。以前のポエムよりはマシだ。だが、まだ中身が薄い。次はこれに耐えうる「事実」を乗せてこい』
それが、拓海なりの「合格」のサインだった。
それからの連休中、湊はとり憑かれたようにPREP法の練習を繰り返した。夕食のメニュー、散歩で見かけた野良猫、テレビのニュース。目に映るあらゆる事象を、強引に「結論から言うと」という型に落とし込んでみる。最初は窮屈でしかなかったそのリズムが、次第に自分の思考を整理する心地よい拍子へと変わっていくのを感じていた。
「おい湊、聞いてんのかよ?今回のカレー、佐野が『隠し味にチョコ入れる』とか言ってるんだぜ。ヤバくないか?」
柏木の声で、湊は現実に引き戻された。
「あ、ああ、チョコか。コクが出るって言うし、いいんじゃないかな」
「お前、なんか連休明けからずっと上の空だな。……あ、もしかしてライティング部、きついのか?」
「……きついっていうか、必死なだけだよ。昨日も課題が出たし」
湊の脳裏に、出発前日の部活動での神崎涼香の姿が浮かぶ。
部室の窓から差し込む西日を背に、涼香は優雅にタブレットの画面を操作しながら、新入部員の四人にこう告げたのだ。
「いい?オリエンテーリングは、ただの親睦会じゃないわ。ライターにとって、宿泊行事は『一次情報(ナマの素材)』の宝庫よ。誰かに聞いた二次的な情報じゃない、あなたたちの五感が捉えた真実。それをWritiaの速報レポートとして一人一記事、書きなさい」
隣で結衣が「……速報、ですか」と低く呟いたのを湊は覚えている。
「そう、速報。鮮度が命よ。条件はただ一つ。必ず『5W1H』を完璧に揃えること。誰が、いつ、どこで、何を、なぜ、どのようにしたか。この杭が一本でも抜けていたら、それは記事失格よ」
5W1H。
中学生の英語の授業で習ったような基礎中の基礎。けれど、涼香の口から発せられるとその言葉は、世界を切り取るための鋭利なメスのように聞こえた。
バスが高速道路に入り、窓の外には新緑の山々が迫ってきた。
湊はカバンからタブレットを取り出し、電源を入れた。まだ真っ白なエディタの画面に、カーソルが規則正しく点滅している。
これから向かう山中湖。二泊三日の共同生活。
そこには、昨晩彼が机の上で捏ね上げた「型」を試すための、夥しい数の事実が待っているはずだ。
湊は、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
それは、うまく書けるだろうかという不安ではない。
今、このバスに乗っている数百人の生徒の中で、自分だけが「記録者」という特別な視界を持って、世界を眺めようとしている。その高揚感に近い、心地よい緊張だった。
(まずは、5W1H。事実の杭を打つんだ)
湊は、拓海から送られていた「現場取材の心得」というメモをもう一度読み返した。
『感情に逃げるな。形容詞で誤魔化すな。まず名詞と動詞で、現場を固定しろ』
窓の外、トンネルを抜けた先に、巨大な富士山がその姿を現した。
車内に歓声が上がる。柏木がスマホを取り出し、「やべぇ、超綺麗!」と連呼しながらシャッターを切る。
湊もまた、富士山を見つめた。けれど、彼が最初にタブレットに打ち込んだのは、「富士山が綺麗だ」という感想ではなかった。
「5/11、10:15。中央自動車道、大月ジャンクション付近。車窓右前方に、冠雪の残る富士山を確認」
それは、佐倉湊が初めて自分以外の「世界」を記述した、冷徹で誠実な一行だった。




