02.6.夜の「ことのは通り」と、自宅のキーボード
部室棟の重い玄関扉を開けると、夜の冷気が四人の熱くなった頬を撫でた。
部活動の完全下校時刻を知らせるチャイムが、遠くの校舎から夜の静寂を震わせて響いている。数時間前までピザの匂いと笑い声に包まれていた歓迎会の余韻はもうどこにもなく、湊の胸に残っているのは、真っ赤に染まった八〇〇文字の重みだけだった。
「……はぁー、マジで死ぬかと思ったわ。翠明のライティング部って、あんなに体育会系なの?」
大きく伸びをしながら沈黙を破ったのは、太陽だった。
校門を出てすぐ、駅へと続く商店街「ことのは通り」へと差し掛かる。街灯に照らされた石畳を、湊、結衣、太陽、凛の四人は、なんとなく並んで歩き出した。
「ウチ、あんなに何も喋らない人、初めて見たし……」
凛が不機嫌そうにスマホの画面を見つめながら呟く。陸の沈黙に晒され続けた彼女の指先は、いつもより少しだけ迷うように画面を彷徨っていた。
「あの高城先輩の圧、やばくない?一言も喋らないのに、目が『ここ、いらない』って言ってるのがわかるんだもん。フリックする手が震えたし」
「私は……あれが普通だと思うわ」
凛の言葉を遮るように、結衣が毅然とした声で言った。彼女の歩調は乱れず、視線は真っ直ぐに前を向いている。
「あそこは、仲良しごっこをする場所じゃない。価値のない言葉を淘汰するための編集部なのよ。陽菜先輩に『疲れちゃう』なんて言われたのは屈辱だけど……それは私の論理がまだ、読み手の感情を支配できていないという事実でしかないわ」
結衣の言葉に、湊は小さく溜息を吐いた。
「瀬戸口さんは、強いね。僕は……正直、小野寺先輩に『泥団子』って言われたとき、頭が真っ白になった。自分のことを書くのが、あんなに難しいなんて思わなかったよ」
「泥団子かぁ。拓海先輩らしい、キツい例えだね」
太陽が湊の肩にポンと手を置いた。
「でもさ、湊。あいつら……いや、先輩たちが言ってたこと、間違いじゃないんだよな。俺、志乃先輩にボロクソに言われたけど、修正案を見せられたとき、悔しいけど『あ、こっちの方が面白いわ』って思っちゃったんだよ」
ことのは通りには、夜八時を過ぎてもいくつかの店の明かりが灯っていた。
老舗の時計店、モダンな内装のパン屋、そして閉まったシャッターの横に並ぶ自動販売機。
湊は、歩きながらそれらの光景をぼんやりと眺めていた。昼間なら気にも留めないはずの看板のキャッチコピーや、メニューのフォント、陳列された商品の並び順。それらすべてが、拓海に教わった「型」を持っているように見えてくる。
この看板は、まず「結論」としての店名を出し、その後に「理由」となる特徴を添えている。
あの掲示板は、誰もが納得する「具体例」の写真を使って、道行く人の足を止めている。
(世界は、言葉の設計図で溢れているんだ……)
そう気づいた瞬間、湊の視界が微かにリライトされたような感覚があった。
ただ流されるように生きてきた自分。空っぽな自分。けれど、その空白を埋めるための道具は、すでにこの街のあちこちに転がっている。
「……じゃあ、俺、こっちだから」
駅のロータリーの手前で、太陽が手を振った。
「みんな、明日な!明日の放課後までに、あの『赤字』を全部ひっくり返してやろうぜ!」
「……言われなくても、やるし」
凛も反対側のホームへと向かっていく。
残されたのは、湊と結衣の二人だけだった。家が同じ方向なのか、二人はしばらく無言のまま、静かな住宅街へと続く坂道を歩いた。
「佐倉くん」
不意に結衣が足を止めた。街灯の下、彼女の黒髪が夜風に揺れる。
「さっきの原稿。……あなたの、あの『違和感』っていう視点。あれ自体は、悪くなかったと思うわ。……今のあなたには、それを形にする骨組みが絶望的に足りないだけよ」
湊は驚いて、彼女の横顔を見た。結衣はすぐに顔を背け、足早に歩き出す。
「勘違いしないで。同期のレベルが低いと、私の評価まで下がるのが嫌なだけだから。……明日、楽しみにしてるわ。あなたがPREP法で、その泥団子をどう磨き上げてくるか」
「……うん。頑張るよ」
結衣と別れ、自宅の玄関を開けたとき、湊を包んだのは夕食のカレーの匂いだった。
「おかえり、湊。遅かったわね。歓迎会はどうだった?」
リビングから聞こえる母親の明るい声。テレビのニュース。弟の笑い声。
昨日まで当たり前だった「日常の音」が、今の湊にはひどく主観的な、輪郭のぼやけた音に聞こえた。
湊は自室に駆け込むと、鞄からタブレットをひったくるように取り出した。
机の電気を点け、画面を立ち上げる。
そこには、拓海によって無残に真っ赤に染められた、自分の八〇〇文字が眠っていた。
拓海が入れた注釈を一つずつ読み直す。
『主語が不明瞭』『結論を一行目に持ってこい』『形容詞は事実に置き換えろ』
厳しい、けれど確かな指針。
湊は、深く息を吸い込み、新規の白紙ページを開いた。
キーボードを叩く指先が、微かに熱を帯びている。
まずは、Point。僕が一番伝えたい結論は、何だ?
Reason。なぜ、僕はあの場所で息苦しさを感じたのか。
家族が寝静まり、家の中が本当の静寂に包まれても、湊の部屋の明かりだけは消えなかった。
真っ赤に汚された自分を、自分の手で書き直す。
その作業は、まるで自分の内側に新しい骨を一本ずつ埋め込んでいくような、痛みを伴う作業だった。
けれど、湊の唇には、微かな微笑みが浮かんでいた。
空っぽだったはずの自分の中に、今、初めて「言葉の設計図」が描かれようとしている。
明日、あの部室で、小野寺拓海と瀬戸口結衣を驚かせるために。
湊の指先は、夜が更けるのも忘れて、光る画面の上を走り続けた。




