03.4.消灯前の反省会
野外炊事の後片付けを終えた生徒たちは、施設内の大浴場へと散っていった。熱い湯に浸かり、煤と煙の匂いを洗い流した湊は、ようやく人心地ついてロビーへと足を向けた。
消灯時間まであと三〇分。オレンジ色の照明が灯る広大なロビーの隅、大型の薪ストーブが置かれたソファスペースに、馴染みのある顔ぶれが揃っていた。
「あ、湊!お疲れ。カレー、どうだった?」
太陽が、湯上がりの火照った顔で手を振った。その隣には、すでにタブレットを開いている結衣と、無表情でスマホを眺める凛が座っている。クラスが違う四人が合流できるのは、この自由時間だけだった。
「なんとか食べられる形にはなったよ。でも、もう無我夢中で……」
湊は、力なく結衣の向かいのソファに腰を下ろした。手元には、煙で燻され、ところどころに水滴の跡がついたあのB6ノートがある。
「どうしたの、そのノート。……ひどい有様ね」
結衣が冷徹な視線を湊のノートに向けた。
「……うん。最初はメモを取ってたんだけど、火が起きないわ、水は溢れるわで、それどころじゃなくなっちゃって。……結局、調理中のメモは白紙なんだ」
湊が告白すると、太陽が「わかるわー!」と大きく頷いた。
「俺もさ、火起こしで目立ちすぎて、気づいたら写真一枚も撮ってねーの。でも、まあ『ヤバかった』ってのは覚えてるし、なんとかなるっしょ!」
「ならないわよ、中野くん」
結衣がピシャリと言い放ち、自分のタブレットを湊と太陽に見えるように回転させた。
「見て。これが私の今日の記録よ」
画面には、整然とした箇条書きが並んでいた。開校式の時刻、場所、登壇者の氏名といった基本データはもちろん、夕食時のタイムスケジュールや、班員がどのようなミスをし、それをどう解決したかというプロセスが、驚くほど詳細に記されている。
「瀬戸口さん、これ……調理しながら書いたの?」
湊は絶句した。あの混乱の中で、どうすればこれほど冷静な記録が残せるのか。
「当然よ。パニックになるのは『参加者』であって『ライター』じゃないもの。私はジャガイモを剥きながら、頭の中で5W1Hを反芻していたわ」
結衣は湊のノートを指先で弾いた。
「佐倉くん。あなたのメモを見せて。……書けた分でいいから」
湊は渋々、ノートを差し出した。結衣は一ページずつ、検品するような冷たい手つきでページをめくっていく。やがて、彼女は深い溜息をついてノートを閉じた。
「……最悪ね。これじゃただの『備忘録』だわ」
「えっ……でも、拓海先輩に言われた通り、正確なデータは取ったつもりだよ」
「データは揃っているわ。いつ、どこで、誰が。でもね、5W1Hの中で一番大事なのは『How』と『Why』なのよ。あなたのメモには『17:00 調理開始。火が起きない』としか書いていない。読者が知りたいのは、その絶望的な状況で、誰がどのようにして火を熾したのか、その結果クラスメイトの表情がどう変わったのかという『文脈』なの。事実を並べるだけなら、AIのログと変わらないわ」
結衣の指摘は、湯上がりで温まった湊の身体を芯から冷やしていくようだった。
「……精一杯やってるんだ。僕だって、あの煙の中で必死に観察しようとしたよ」
「必死なのはみんな同じよ。でも、メディアの責任は『頑張り』を載せることじゃない。『価値ある情報』を届けること。あなたのこのメモじゃ、現場の熱量は一ミリも伝わらない。ただの事務報告書よ」
湊は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。結衣のタブレットに並ぶ文字には、確かに「物語」があった。彼女の班で起きた些細な対立、それを解消した言葉、そして完成した料理の味。それらすべてが、5W1Hという強固な骨組みに支えられながら、鮮やかな色彩を放っていた。
「ウチもさー、写真はいっぱいあるけど、文字にするのダルいし」
凛が横から口を挟んだ。
「凛もそう。情報の解像度が低いわ。あなたたち二人、明日のハイキングはどうするつもり?また『疲れました』って日記を書くつもりなの?」
ロビーの薪ストーブの中で、パチリと爆ぜる音がした。
太陽は珍しく黙り込み、自分のスマホのギャラリーをスクロールさせている。湊は、自分の膝の上にある煤けたノートを見つめた。
自分が「記録者」だなんて、うぬぼれていた。ただ現場の空気に飲まれ、事実の表面をなぞっていただけだ。
「……5W1Hは、杭なんだ」
湊は自分に言い聞かせるように呟いた。
「事実を固定するだけじゃなくて、その裏側にある理由を繋ぎ止めるための、杭なんだね」
「気づくのが遅いわね」
結衣はタブレットを閉じ、ソファから立ち上がった。
「明日はパノラマ台へのハイキング。霧が出るかもしれないわ。視界が悪い中で、何を見るべきか、今夜のうちに考えておくことね。……おやすみなさい」
彼女の背中が、階段の向こうへ消えていく。
残された湊と太陽、そして凛の間には、気まずい沈黙が流れた。
「……あーあ、結衣ちゃん、相変わらずキツいよな」
太陽が頭を掻きながら苦笑いした。
「でもさ、湊。あいつ、自分の原稿もさっきまで何度も書き直してたんだぜ。……あいつもあいつで、必死なんだろうな」
湊は、自分のノートの白紙のページを指でなぞった。
悔しさはあった。けれど、それ以上に「もっと深く見たい」という渇望が、胸の奥で静かに燃え始めていた。
明日のハイキング。ただ歩くのではない。
一歩一歩の足音の裏にある「理由」を。霧の向こうに隠れた「真実」を。
5W1Hという鋭い杭を、今度こそこの手で打ち込んでやる。
ロビーの消灯を知らせるアナウンスが流れ、湊は煤けたノートを抱えて、自分の部屋へと続く暗い廊下を歩き出した。




