02.3.「客観性」という名の断頭台
部室に、鋭い電子音だけが響いた。
二年生の小野寺拓海が、湊のタブレットを受け取ってからわずか数分後のことだ。彼の右手に握られたスタイラスペンは、画面という名の処刑台の上を、迷いなく、そして無慈悲に滑り続けていた。
「……話にならないな」
拓海が吐き出した声は、歓迎会の残り香さえも凍りつかせるほどに冷ややかだった。彼は湊の八〇〇文字を、一文字ずつ噛み砕くのではなく、一息に飲み込んでから吐き戻すような速さで読み終えていた。
湊は、自分の胸の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じていた。必死で絞り出し、言葉を尽くしたつもりだった。けれど、返されたタブレットの画面を見て、湊は息を呑んだ。
「なに、これ……」
画面は、文字通り「真っ赤」に染まっていた。
もともとあった湊の黒い文字は、拓海の入れた赤い注釈や修正線によって、その輪郭さえ失いかけている。
「佐倉。君が書いたこれは、何だ?」
「何って……僕がこの数日間で感じた『違和感』です。自分に中身がないことや、周りの空気に馴染めないもどかしさを、嘘をつかずに書きました」
「違う。これは『日記』だ」
拓海は、眼鏡のブリッジを指で押し上げ、湊の目を見据えた。
「君の原稿には『客観性』が欠片もない。いいか。君がどう思ったか、君がどう感じたか。そんな主観の垂れ流しは、読み手にとっては単なる独りよがりなノイズなんだ。メディアに載せる以上、君の個人的な内面なんてものは『情報のスパイス』であって『メインディッシュ』じゃない」
「でも、部長は自分のボイスを大事にしろって……」
「涼香部長の言うボイスと、君のこれは別物だ。ボイスとは、徹底した客観的事実の上に、どうしても滲み出てしまう書き手の姿勢のことだ。君の文章は、ただ自分に甘えているだけだ。……例えばここを見ろ」
拓海がスタイラスペンで、湊が書いた一文を指した。
『自由という名の空白は、僕の空っぽな心そのもののようで、眺めていると息苦しくなる』
「『息苦しくなる』?それは君の生理現象だ。読者は君の肺活量を心配しに来たわけじゃない。なぜ自由が空白に見えるのか。翠明高校のICT環境が、具体的にどのようなコミュニケーションの偏りを生んでいるのか。その事実を提示せず、感情の形容詞ばかりを並べて何が伝わる?鏡に向かって喋っているのと変わらないぞ」
湊は唇を噛んだ。言葉の刃が、むき出しの自意識を容赦なく切り裂いていく。自分の「中身のなさ」と向き合って書いた言葉さえも、技術という名の冷徹な物差しで「ゴミ」だと断じられる。
部室のあちこちでも、同じような光景が繰り広げられていた。
「……結衣ちゃん。これ、正論すぎて、ちょっと読んでて疲れちゃうかな」
三村陽菜が、困ったように眉を下げて結衣の原稿を眺めていた。あの完璧主義者の結衣が、わずかに眉を跳ねさせる。
「……正論の何が悪いんですか。私は事実と論理を積み上げただけです」
「うーん。事実は合ってるんだけどさ、陽菜、途中で『あ、もういいや』って画面閉じちゃいそう。これ、誰に向けて書いてるの?」
結衣は言葉に詰まり、自分の原稿を見つめ直していた。
一方、太陽は早乙女志乃の事務的な指摘に、もはや魂が抜けかかっていた。
「中野くん。この『ヤバい』『神』という言葉で、読者の何パーセントが具体的な状況を想起できると思うの?定義できない言葉は、ライターの怠慢よ。すべて書き直しなさい」
「し、志乃先輩……厳しすぎ……」
そして、凛は高城陸の横で、かつてないほどの沈黙に耐えていた。
陸は凛の原稿をじっと見つめたまま、一言も発しない。ただ、ときどきカメラのファインダーを覗くときのような鋭い視線で画面を睨んでいる。
「……長い」
数分ぶりに陸が放ったのは、たった二言だけだった。
「……視線が、定まってない」
それだけで、凛は「……チッ、わかったし」と悔しそうに画面をフリックし始めた。
湊は、再び自分のタブレットに目を落とした。
拓海の赤字は、まるで外科手術のメスのように、湊が大切に守ろうとしていた「主観」を削ぎ落としていく。
客観性。事実。情報の価値。
ライティング部という場所は、ただ楽しく文章を書く場所ではない。自分の内側にある熱量を、他人に届く「形」へと無理やり成型し、規格に合わない破片を捨て去る場所なのだ。
「佐倉、勘違いするなよ」
拓海が、わずかに声を和らげた。
「君の視点は悪くない。だが、その視点を支えるための『骨組み』が、今の君には何もない。ただの泥団子に色を塗っても、すぐに崩れるだけだ。君に必要なのは、自分の感情を一旦殺してでも、言葉を構築するための技術だ」
湊は、真っ赤に染まった画面を見つめながら、指先が微かに震えるのを止めることができなかった。
これが、リライトの洗礼。
自分が「空っぽ」であることを自覚するよりも、自分が「間違っている」と突きつけられることの方が、何倍も息苦しかった。




