第9話 四十二人の契約者は、歴史から消されていた
――《第四十三代契約者 カイル・レインズ》。
礼拝堂の壁に刻まれた自分の名前を、俺は何度見直しても現実として受け入れきれなかった。
昨日までは王立騎士養成院に通う、少し剣が得意なだけの学生だった。それが勇者選定に落ち、帰宅したら聖剣が玄関で待っていて、その翌日には王都から追われ、今では四十三代目の何かになっている。
人生の変わり方として、いくら何でも急すぎる。
「四十二人全員を忘れさせられた、と考えていいんだな?」
俺が手の中のアルセリアへ尋ねると、青白い光がわずかに弱まった。
『たぶん。でも、何もないわけじゃないの。ここを見ると胸が苦しくなるし、誰かと一緒にいた気がする。でも顔を思い出そうとすると、そこだけ白くなる』
これまでより滑らかになった声だったが、その響きには戸惑いが混じっていた。
人間なら、自分の過去を大量に失っていると突然知ったようなものだろう。
しかも失われたのは四十二人分。
アルセリアが三百年以上前から存在していることを考えれば、それより遥か昔まで遡る可能性がある。
俺が無意識に柄を撫でていると、ミリアが壁に残された文字列を調べながら口を開いた。
「まずは決めつけない方がいいわね。神殿が全部消したのか、もっと昔の誰かが消したのか、それとも聖剣自身を守るために記憶を封印したのか。今の私たちには判断材料が少なすぎるもの。ただ、四十二代分の契約者が存在した事実まで現在の記録から消えているなら、自然に忘れられただけでは説明しにくいと思う」
こういうとき、ミリアが一緒にいるのはありがたい。
俺一人だったら「神殿が怪しい」で突っ走っていたかもしれない。
エルナも同意するように頷いたが、その表情はまだ硬かった。
「私も同意見です。大神殿の上層部に問題がある可能性は高いですが、現在の神官全体が真相を知っているとは思えません。私自身、契約者が四十三代も続いていたことなど聞いたことがありませんでした。それどころか、聖務院の保管庫で読める最古級の文書ですら、聖剣の歴史は初代勇者レオンを中心に記述されています」
「それって何年前?」
「約三百年前です」
俺は壁へ目を戻した。
四十三代。
三百年。
仮に一人につき十年でも四百年以上になる。
もちろん一人あたりの契約期間がどれほどだったかは分からないが、少なくとも初代勇者レオンより前から契約者制度が存在していた可能性は極めて高い。
「アルセリア。レオンって覚えてるか?」
その名前を出した瞬間だった。
柄を通して、妙な感覚が伝わってきた。
懐かしい。
けれど。
少し違う。
『覚えてる。レオンは一緒に魔王と戦った人。でも……』
「でも?」
『契約者じゃない』
俺だけでなく、話を伝え聞いたミリアとエルナまで沈黙した。
エルナが真っ先に反応する。
「待ってください。王国正史では、初代勇者レオンこそ聖剣アルセリアに選ばれた最初の勇者です。魔王討伐後、レオンが聖剣を大神殿へ託したことで、現在の勇者選定制度が始まったとされています」
俺がその説明をアルセリアへ伝えると、刀身が不満そうに震えた。
『レオン、最初じゃない。それに、わたしを神殿にあげてない』
「じゃあ何で神殿にいたんだ?」
今度はすぐには答えが返ってこなかった。
アルセリア自身が記憶を探っているように、光が強くなったり弱くなったりする。
『分からない。でも……レオンと別れたあと、何かあった。怖かった気がする』
そこで記憶が途切れているらしい。
エルナは額に手を当て、しばらく黙り込んだ。
「もしアルセリアの記憶が正しいなら、王国成立以降の歴史にも大きな誤りがあります。レオン様が聖剣を大神殿へ託したという部分すら事実ではない可能性が出てきました」
「国の教科書全部書き直すような話になってない?」
ミリアが半ば呆れたように言うと、エルナはさらに沈んだ顔をした。
「私が子供たちへ教えていた内容も、かなり書き直す必要がありそうです」
「エルナさん、教えてたんだ」
「月に何度か、神殿学校で聖典史を」
「……今は考えない方がいいですよ」
「そうします」
自分が教えていた歴史が根本から間違っている可能性は、地味にかなり堪えるらしい。
だが。
俺たちは重大なことを一つ忘れていた。
ミリアの腹が、小さく鳴った。
「……」
誰も何も言わなかった。
ミリアの顔が見る見る赤くなる。
「仕方ないでしょう。朝から走って、魔物が出て、騎士から逃げて、地下通路まで歩いたんだから」
「誰も責めてないって」
「カイルが今、絶対笑った」
「笑ってない」
『ちょっと笑ってた』
「アルセリア!?」
味方だと思っていた聖剣から即座に裏切られた。
ミリアの視線が冷たくなる。
「全部聞こえてるわけじゃないけど、今アルセリアがカイルを売ったのは分かったわ」
「なんで分かるんだよ」
「顔」
どうやら契約しても表情までは隠してくれないらしい。
もっとも、腹が減っているのは俺も同じだった。
エルナも朝からほとんど何も食べていないという。
そこで俺たちは一度調査を切り上げ、この祈祷所を仮の拠点として使えるか確認することにした。
◇
古い祈祷所とはいえ、完全な廃墟ではなかった。
エルナによれば、年に数回は聖務院の職員が点検に訪れるため、裏手に小さな生活区画が残されているらしい。
井戸。
簡素な台所。
寝台が四つ。
保存食まで少量置かれていた。
「十分すぎるな」
俺は戸棚から乾燥肉と固焼きパンを取り出した。
王都から逃げ出した時点では、森の中で野宿するくらいは覚悟していた。それを考えれば屋根と寝床と水があるだけでありがたい。
ミリアは台所の鍋を確認しながら、少し機嫌を直している。
「野菜はないけど、乾燥豆があるわ。簡単なスープくらいなら作れそう。カイル、井戸から水を汲んできてくれる?」
「了解。エルナさんは休んでてください。今日は俺たちを案内して走り回ってたでしょう」
「ですが私も何か――」
「じゃあ皿をお願いします。それなら座りながらできますから」
そう告げると、エルナは少し戸惑ったあと素直に頷いた。
朝からずっと気を張っていたのだろう。
大神殿の命令に逆らい、聖剣を匿い、俺たちを王都から逃がした。本人が口にしないだけで、俺以上に失ったものが多い可能性だってある。
井戸へ向かおうとしたところで、アルセリアが俺の後ろをふわふわ浮きながら付いてきた。
「お前も来るの?」
『一緒に行く』
「井戸まで十歩くらいだぞ」
『一緒』
「はいはい」
これである。
昨日までは玄関に勝手に居座る剣だったのに、意思疎通ができるようになってから急に距離が近くなった気がする。
井戸から水を汲んで戻るときもアルセリアは俺の肩の横を浮いていた。
試しに立ち止まると、彼女も止まる。
一歩下がると同じだけ下がる。
「……何してるんだ?」
『ついていってる』
「それは見れば分かる」
『カイル、嫌?』
その質問だけ。
少し声が小さくなった。
俺は返答に迷った。
昨日会ったばかり。
本来なら、ずっと付いてこられれば面倒だと感じてもおかしくない。
だが。
アルセリアは何百年も、自分を道具として扱う場所にいた。
過去の仲間の記憶まで失っている。
そこまで考えると、邪魔だとは言えなかった。
「別に嫌じゃない。ただ家でも玄関に立ってただろ。もしかして一人になるの苦手なのかと思ってさ」
アルセリアは少し黙った。
『……たぶん』
短い答え。
それ以上は聞かなかった。
「じゃあ付いてこい。ただし夜中に顔の横へ浮かぶのは禁止な。起きたら聖剣が目の前にいるとか心臓に悪いから」
『じゃあ枕元』
「玄関と発想変わってないぞ」
青い光が楽しそうに揺れた。
昨日までなら、こんなやり取りすらできなかった。
こいつが本当に何百年も生きている聖剣なのか。
たまに疑いたくなる。
◇
簡単な昼食を済ませたあと、改めて礼拝堂の調査を始めた。
最初に確認したのは、俺の名前が刻まれた壁だ。
第四十三代契約者。
その上には、本来なら第一代から第四十二代までの名前が並んでいるはずだった。
ところが。
「消されてる」
近くで見ると、はっきり分かった。
壁が古くなって文字が崩れたのではない。
一定の範囲だけが不自然に削り取られている。
四十二人分。
名前があったと思われる場所すべてだ。
俺の名前だけが新しく、一番下へ青白く刻まれている。
エルナが削られた部分を慎重に調べる。
「かなり昔の傷ですね。少なくとも数十年程度ではありません。ただ、壁そのものを壊したのではなく、文字だけを狙って削っています」
「誰かがここまで来て、消したってこと?」
「そう考えるのが自然です」
ミリアが壁の横を見ながら首を傾げた。
「でも変じゃない? 完全に隠したいなら、この祈祷所そのものを壊せばよかったでしょう。契約者しか開けられない通路があるとしても、出口側は普通の建物なんだから」
確かに。
壁には「第四十三代」という数字が残っている。
四十二人の存在を消したいなら数字ごと消すべきだ。
なのに。
名前だけがない。
「名前に意味がある?」
俺が呟いた瞬間。
契約紋が熱を持った。
「またか」
最近、この紋章が何かに反応するたび厄介事が起きている。
今回は痛みではない。
むしろ。
壁から何かが呼びかけてくる。
俺が右手を近づけると、削られた部分へ細い青光が走った。
「カイル、待って。何が起きるか分からないわ」
「分かってる。でもアルセリアも反応してる」
隣を見る。
聖剣の光が。
明らかに強くなっていた。
『いる』
「誰が?」
『分からない。でも、いる』
俺は契約紋を壁へ触れさせた。
途端に。
礼拝堂の景色が消えた。
◇
草原。
青い空。
俺は知らない場所に立っていた。
いや。
実際に移動したわけではない。
アルセリアの記憶を見たときと同じだ。
目の前には。
一人の少女がいた。
金色の髪を短く切り、使い込まれた革鎧を着ている。年齢は俺と大して変わらないだろう。
少女の隣には。
聖剣アルセリア。
今とほとんど同じ姿で浮いていた。
『ねえ、アルセリア』
少女が笑う。
『私が死んだあとも、ちゃんと次の人を選ぶのよ。寂しいからって、誰も選ばないのは禁止』
アルセリアが不満そうに少女の肩へ柄をぶつける。
『痛い痛い。冗談だってば』
少女は笑いながら聖剣を抱え込んだ。
『大丈夫。あなたは一人にならないわ。私がいなくなっても、きっとあなたを剣じゃなくて、アルセリアとして見てくれる人が現れるから』
胸が苦しくなった。
俺の感情ではない。
アルセリアだ。
少女が大切だった。
とても。
とても大切だった。
『それとね。もし誰かがあなたを無理やり使おうとしたら――』
そこで景色が乱れた。
雑音。
白い光。
少女の顔が崩れていく。
『――第四十一代契約者、セ――』
名前が聞こえない。
そして。
景色が途切れた。
◇
「カイル!」
ミリアに肩を掴まれ、俺は現実へ引き戻された。
「……大丈夫」
「大丈夫な顔じゃないわよ。急に立ったまま目を閉じたと思ったら、契約紋がものすごく光り始めたんだから」
息を整える。
アルセリアは。
俺の胸元へ寄り添うように浮いていた。
いつもの元気な光はない。
「アルセリア。今の人、覚えてる?」
長い沈黙。
『……少しだけ』
「第四十一代って聞こえた」
エルナが息を呑む。
「名前は?」
「途中で消えました。セ……何とか。女性です。金髪で、俺くらいの年齢に見えました」
すると。
アルセリアから。
ぽつりと声が届く。
『セフィ』
「思い出したのか?」
『名前だけ。でも、たぶん……セフィ』
その瞬間。
削り取られていた壁の一部が光った。
青い文字が。
ゆっくり。
再び浮かび上がる。
――《第四十一代契約者 セフィリア・アーク》。
「戻った……」
ミリアが声を失う。
エルナは壁へ駆け寄り、何度も文字を確認している。
「消された文字そのものが復元されたわけではありません。契約紋とアルセリアの記憶を使って、施設側が新たに記録を書き直したように見えます」
「つまり」
俺は残りの空白を見る。
「アルセリアが思い出せば、四十二人全部戻せるかもしれない?」
『……うん』
弱い声。
だが。
その直後。
礼拝堂の床が震えた。
地震ではない。
壁の奥。
何か巨大な術式が起動する感覚。
「今度は何!?」
ミリアが杖を構える。
祭壇の下から。
石が動く音がした。
ゴゴゴゴゴ――。
祭壇の一部が横へずれる。
その下から現れたのは。
地下へ続く階段。
「また地下……」
俺は思わず呟いた。
「今日だけで何回潜ればいいんだよ」
するとアルセリアが。
少しだけ楽しそうに答えた。
『地下、好き?』
「好きじゃない。お前と会ってから地下に縁ができただけだ」
緊張していたミリアが、思わず笑った。
「そのうち『聖剣に選ばれなかった俺、地下にばっかり連れていかれる』に題名変わるんじゃない?」
「絶対嫌だ」
そんな軽口を交わしている間にも。
地下から青い光が溢れてくる。
そして。
階段の上。
新しい古代文字が浮かび上がった。
エルナが読む。
「《記憶の間》」
その下には。
さらに一文。
「《契約者の記憶を失いしとき、聖剣をここへ導け》」
アルセリアの光が。
大きく揺れた。
ここには。
最初から用意されていたのだ。
聖剣が記憶を失うことを想定した場所が。
「……誰か知ってたんだな」
俺が呟く。
「アルセリアの記憶が消される可能性を」
それが意味することは。
一つしかない。
過去にも。
同じことが起きた。
俺は地下への階段を見つめた。
四十二人の契約者。
消された名前。
忘れさせられたアルセリアの記憶。
そして。
それを取り戻すために残された《記憶の間》。
逃亡初日だというのに。
どうやら俺たちは。
休んでいる暇すら与えてもらえないらしい。




