第8話 勇者選定は、聖剣が「拒むため」の儀式だった
石壁が閉じきると、追ってきた神官たちの声はほとんど聞こえなくなった。
完全な暗闇になるかと思ったが、俺が握っているアルセリアから淡い青白い光が広がり、地下へ続く階段を静かに照らしている。壁も床も古びてはいるものの崩れている様子はなく、何百年も使われていない場所とは思えないほど空気も澄んでいた。
俺たちはしばらく、その場から動かなかった。
扉の向こうから追手が入ってくる可能性を警戒していたからだ。
しかし一分ほど待っても、壁が開く気配はない。
「どうやら、向こう側から簡単に開けられる仕組みではないようですね」
エルナは閉じた石壁へ手を当て、魔力の流れを確かめてから安堵したように息を吐いた。
「少なくとも今すぐ追いつかれる心配はなさそうです。ただ、先ほどの神官は《契約者の道》という名前を知っていました。大神殿の全員が知らなくても、一部の上層部にはこの場所に関する記録が残っているのでしょう」
「だったら、別の入口から先回りされる可能性もあるわね」
ミリアはそう言いながら俺の右手を見た。
「それにしても不思議よね。神殿側が存在を知っている通路なのに、カイルの契約紋がなければ開けられないなんて。秘密にしていたというより、自分たちでは使えなかったから封じていた、と考えた方が自然かもしれないわ」
「それなら少し安心できるけどな。俺としては、この先が行き止まりじゃないことの方が重要なんだけど」
逃げるために飛び込んだのだから、地下深くに閉じ込められましたでは笑えない。
俺がアルセリアへ視線を落とすと、刀身の青い光がわずかに揺れた。
『だいじょうぶ。道、知ってる気がする』
「知ってるのか知らないのか、どっちなんだよ」
『……ずっと前だから』
以前より、少し長く喋った。
それだけでも驚いた俺へ、ミリアが怪訝そうな顔を向けてくる。アルセリアの声が聞こえているのは今のところ俺だけなので、黙っていると一人で聖剣を見つめている変な奴になる。
「昔ここへ来たことがあるみたいだ。ただ、ずっと前だから記憶が曖昧らしい」
「三百年以上生きている剣の『ずっと前』って、どのくらいなのかしらね」
「俺に聞くなよ。昨日までは剣に年齢があるかどうかすら考えたことなかったんだから」
俺たちは慎重に階段を下り始めた。
十数段ほどで平坦な通路へ変わる。
左右の壁には、人の背丈ほどもある石板が一定間隔で並び、それぞれに絵と古代文字が刻まれていた。
最初の石板に描かれているのは、一人の男と一本の剣だった。
男は王冠を被っていない。
豪華な鎧も着ていない。
旅装らしい簡素な服装で、その隣には地面へ突き立てられた一本の剣がある。
奇妙なのは、男が剣を掲げていないことだった。
向き合っている。
まるで人間同士が話しているように。
「今の勇者像とは随分違うわね」
ミリアも同じことを感じたらしい。石板の前で足を止め、指先で絵の輪郭を追わないよう少し離れた位置から眺める。
「王都にある勇者レオンの像なら、アルセリアを頭上に掲げて魔王を踏みつけているでしょう? でもこの人、剣を武器として持ってすらいない」
「文字も読めます」
エルナは石板の下部へ視線を落とした。
古代神聖文字を一文字ずつ確かめ、やがてゆっくり読み上げる。
「《剣は人を従えず、人もまた剣を従えず。互いが望みしとき、初めて道は一つとなる》……だと思います」
俺は思わずアルセリアを見た。
「お前たち、昔からそんな感じだったのか?」
『うん』
返事はすぐだった。
「じゃあ今の『聖剣に選ばれた勇者が聖剣を使う』って考え方とは、かなり違うじゃないか」
アルセリアは何も答えなかった。
答えられないというより、どう説明すればいいのか分からないような沈黙だった。
そのまま奥へ進むと、次の石板には複数の人間が描かれていた。
剣の前へ一人ずつ立っている。
現在の聖剣選定によく似た光景だ。
「これなら今の儀式と同じじゃない?」
ミリアの言葉を聞きながら、エルナが下の文章を読み始める。
ところが途中で、彼女の表情が変わった。
「どうしました?」
「少し待ってください。私の読み間違いでなければ、これは……」
もう一度最初から確認したエルナは、信じられないものを見るように石板を見上げた。
「《選定とは、人が剣に選ばれる資格を示すための儀にあらず》」
そこでいったん言葉を切る。
俺とミリアが黙って続きを待つ中、彼女は残りを読んだ。
「《数多の願いの中より、剣が自ら望む者を選び、自ら望まぬ者を拒む自由を守るための儀なり》」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……拒む自由?」
俺が聞き返すと、エルナは硬い表情のまま頷いた。
「今の聖剣選定では、人間側がアルセリアに選んでもらうことばかり考えます。でも、この記録が正しいなら本来は逆です。大勢の候補者へ聖剣を触れさせるのは、人間の資格を試すためではなく、アルセリア自身に『この人と一緒に行きたいか』を決めてもらうためだった」
ミリアも状況を理解したらしい。
「だから選ばなかった相手には、抜かれない。それは失格を宣告していたんじゃなくて、アルセリア自身が嫌だと言っていたってこと?」
「おそらくそうです。そして本来、その拒絶は絶対に尊重されるものだったのでしょう」
エルナの声音には、神官としての動揺が滲んでいた。
昨日まで彼女自身も、今の勇者選定を疑ってはいなかったはずだ。
それが今。
神殿が教えてきた意味そのものが覆されようとしている。
俺は何となくアルセリアの柄を撫でた。
「じゃあ昨日、お前が抜けなかったのも」
『カイルは、いやじゃなかった』
突然届いた言葉に、俺は黙った。
アルセリアは続ける。
『でも、あそこではいやだった。カイルを勇者にしたら、また祭壇に戻される。ずっと一緒にいられないと思ったから』
声はまだ途切れがちだった。
それでも今までよりずっと意味が伝わってくる。
俺は昨日の選定を思い出した。
聖剣は動かなかった。
俺は選ばれなかったと思った。
でも実際には。
「お前、俺が嫌だから抜けなかったんじゃなくて、勇者になる仕組みそのものが嫌だったのか」
『うん。それで、カイル帰ったから……追いかけた』
「そこだけ聞くと、やっぱりお前の行動力すごいな」
神殿から瞬間移動して、候補者の自宅玄関で待つ。
伝説の聖剣として正しい行動かどうかはともかく、意思表示としては非常に分かりやすい。
ミリアが俺の顔を覗き込んだ。
「今度は何て言ったの?」
「俺を嫌って抜けなかったわけじゃないってさ。勇者にすると神殿へ戻されるから、その場では拒否して、俺が帰ったあと追いかけてきたらしい」
「……それ、普通にカイルのことかなり気に入ってるじゃない」
「そうなるのか?」
「自分が何百年いた場所から逃げ出して家まで追いかけたのよ? それを『ちょっと気になりました』程度だと思うなら、カイルは女心を勉強した方がいいわ」
「相手は剣だぞ」
そう返した瞬間。
手の中のアルセリアが不満そうに震えた。
「分かった分かった。剣扱いすると怒るんだったな」
『わたし、アルセリア』
「はいはい、アルセリア」
途端に機嫌を直したように刀身の光が明るくなる。
それを見たミリアが、妙に生温かい目をこちらへ向けてきたので、俺は見なかったことにした。
◇
さらに奥へ進むにつれて、壁画の内容は少しずつ変わっていった。
聖剣と共に旅をする者。
怪我をした剣士を守るように宙へ浮く剣。
逆に、人間が壊れた刀身へ布を巻いている絵まである。
どちらが主人で、どちらが道具なのか。
そんな区別そのものが存在しないように見えた。
「これが本当の契約者……」
エルナは何度目か分からないため息をついた。
「大神殿に残っている文献では、契約者について『聖剣から特別な恩恵を受けた古代の勇者』程度にしか書かれていません。けれど、この場所を見る限り違います。勇者より契約者の方が古い。そしておそらく、聖剣と人間の関係も根本から別物だった」
「今の神殿が全部意図的に変えたと思います?」
俺が尋ねると、エルナはすぐには頷かなかった。
「それはまだ分かりません。三百年どころか、それ以前から続く歴史です。伝承が途中で失われた可能性もありますし、誰かが意図的に書き換えた可能性もある。だからこそ、今の段階で大神殿全体を敵だと決めつけるのは危険です」
その答えには俺も納得した。
今朝会った騎士のように、命令へ疑問を持つ人間はいる。
エルナも神殿の人間だ。
全員がアルセリアを道具として扱っているわけではない。
ただし。
「少なくとも、追加術式でこいつを強制的に制御しようとした人間はいる。それに黒牙獣へ使われた術式も、アルセリアが見せてくれたものと似てた。そこは調べないと駄目だな」
「はい。祈祷所へ着けたら、まず情報を整理しましょう。私も知っている限りの聖務院内部の情報をお話しします」
目的が少しずつ見えてきた。
ただ逃げればいいわけではない。
誰がアルセリアを制御しようとしているのか。
なぜ契約者の存在が隠されていたのか。
そして俺たちがどこまで追われているのか。
調べなければならないことは山ほどある。
そんなことを考えながら歩いていると、通路の先に大きな扉が現れた。
扉には、俺の右手と同じ契約紋。
その中央には人間の手を置くためらしい窪みがある。
「分かりやすいな」
俺は苦笑しながら右手を重ねた。
契約紋が熱を持つ。
次の瞬間。
扉全体へ青い光が走った。
『――契約者を確認』
「え?」
今の声は。
アルセリアではない。
俺だけでなく、ミリアとエルナも同時に顔を上げた。
「聞こえた?」
「ええ」
「私にも聞こえました」
古い術式そのものが声を発しているらしい。
『聖剣アルセリアとの相互契約を確認。意思接続、正常。主従固定、なし。強制命令権、なし』
「……強制命令権なし?」
俺が呟く。
すると機械的な声がさらに続いた。
『契約の原則を確認。契約者は聖剣へ命令する者にあらず。聖剣もまた契約者を支配する者にあらず。双方の同意なき力の行使を禁ず』
エルナが愕然としていた。
「現在の制御術式と……正反対です」
そういうことか。
本来の契約は、アルセリアへ自由を与えるためのものだった。
だから追加術式を嫌がった。
神殿側から無理やり力を引き出そうとする行為そのものが、古い契約の思想から完全に外れている。
やがて声が。
最後の言葉を告げた。
『契約成立を確認。第一封印《共鳴》を解除します』
「封印?」
聞き返す暇はなかった。
アルセリアが突然、俺の手から離れた。
宙へ浮かぶ。
刀身から溢れた光が俺の右手の契約紋へ流れ込み、一瞬だけ全身が温かくなる。
痛みはない。
むしろ。
今まで薄い壁越しに感じていたものが、急に鮮明になった感覚だった。
『カイル、大丈夫?』
声がする。
今度は。
はっきりと。
「……アルセリア?」
『うん。さっきより、ちゃんと喋れる』
俺は言葉を失った。
声だけなのに、不思議と嬉しそうなのが分かる。
『ずっと伝えたかったことがいっぱいあったの。でも上手く届かなかったから、光ったり、動いたりするしかなくて……カイルが全然分かってくれないとき、ちょっと困ってた』
「待て。最初に床を滑って逃げ回ってたのも、俺が分からないせいだったのか?」
『あれは遊んでた』
「そこは違うのかよ!」
ミリアが吹き出した。
「何て?」
「最初に家で俺から逃げ回ってたのは、意思疎通じゃなくて普通に遊んでたらしい」
「でしょうね。あれ絶対楽しんでたもの」
なぜミリアには最初から分かっていたんだ。
アルセリアから笑うような気配が伝わってきた。
俺は少し呆れながらも。
気になっていたことを聞いた。
「なあ。どうして俺だったんだ?」
アルセリアはすぐには答えなかった。
宙に浮いたまま、俺の前へゆっくり近づいてくる。
『昨日、いっぱい人がわたしに触ったの。みんな強くなりたいとか、勇者になりたいとか、家の名誉とか、国を救いたいとか、色んなことを考えてた。それが悪いとは思わないよ。でも、みんな最初からわたしを「使うもの」だと思ってた』
そこで一度。
声が柔らかくなる。
『カイルは違った』
「俺も選ばれたらいいなとは思ってたぞ」
『うん。でも抜けなかったとき、怒らなかったでしょう? わたしが悪いとも言わなかったし、無理やり力を入れ続けなかった。「まあ、こんなものか」って手を離してくれた』
思い出す。
たしかに俺はそうした。
特別な理由なんてない。
自分は選ばれなかった。
そう思っただけだった。
『だから、もう一度会いたいと思ったの』
「それで玄関?」
『うん。帰る場所、そこだったから』
あまりにも単純な理由で。
俺は返す言葉を失った。
世界を救う資格を見抜かれたわけではない。
秘められた才能を評価されたわけでもない。
俺が聖剣を道具として責めなかったから。
もう一度会いたいと思われた。
それだけ。
なのに。
妙に嬉しかった。
「……そうか」
『うん』
「なら、来たのがお前でよかったよ」
一瞬。
アルセリアの光が止まった。
そして。
部屋全体を照らすほど明るくなった。
「眩しい眩しい! 会話できるようになったんだから、嬉しいとき全部光で表現する必要ないだろ!」
『だって嬉しいから!』
結局そこは変わらないらしい。
◇
扉の先へ進むと、通路は緩やかな上り坂へ変わった。
空気も少しずつ冷たくなり、どこからか土と草の匂いまで流れ込んでくる。
「外が近い」
ミリアの声にも安堵が滲んでいた。
やがて前方にもう一つ小さな扉が現れる。
今度は契約紋を使う必要すらなく、アルセリアが近づいただけで静かに開いた。
眩しい。
思わず目を細める。
差し込んできたのは。
夕方にはまだ早い、明るい太陽の光だった。
「……出た」
俺たちは一人ずつ外へ出る。
そこは。
小さな石造りの礼拝堂だった。
屋根の一部は蔦に覆われ、長椅子には薄く埃が積もっている。割れた窓から差し込む光の向こうには森が広がり、王都の城壁は遠く西側に小さく見えていた。
エルナが周囲を確認し。
とうとう呆然と呟いた。
「ここ……目的地です」
「え?」
「私が言っていた、王都東部の古い祈祷所です。旧水路を通れば二時間近くかかるはずだったのに」
つまり。
俺たちが偶然飛び込んだ秘密通路は。
最初からここへ繋がっていた。
「偶然じゃないんでしょうね」
ミリアが礼拝堂を見回す。
「ここ、ただの古い祈祷所じゃなかったんじゃない?」
その可能性は高かった。
俺たちは礼拝堂の中央へ進む。
正面には祭壇。
その背後には、長い年月で汚れた壁画が残っていた。
描かれているのは。
一本の聖剣。
そして。
その横へ立つ人間。
「また契約者か」
俺が近づいた瞬間。
祭壇が青く光った。
「カイル、何かした?」
「してない!」
床から細い光の筋が走り、正面の壁へ集まっていく。
古代神聖文字。
最初は読めない文字列だったものが。
なぜか契約紋を通して。
意味として頭へ入ってきた。
『契約者帰還を確認』
さっきと同じ術式の声。
『新規契約を記録します』
「新規……」
壁に。
一行の文字が刻まれた。
俺の名前。
カイル・レインズ。
そしてその前に。
数字があった。
「エルナさん」
「はい」
「俺の読み間違いじゃなければ、これ」
エルナも見ていた。
顔色が。
完全に変わっている。
「四十三……」
ミリアが小さく読み上げた。
壁に刻まれた文字は。
確かに。
こうなっていた。
――《第四十三代契約者 カイル・レインズ》
「待ってください」
エルナが壁へ駆け寄った。
「大神殿の古文書には、《契約者》が実在した可能性を示す記録は一件しかありません。それすら伝承として扱われています。なのに第四十三代って……」
「少なくとも」
俺は壁を見上げた。
「俺の前に四十二人いたってことですよね」
四十二人。
それだけの人間が。
アルセリアと共に歩いた。
なら。
記録が失われたなんて話では済まない。
四十二人分の歴史が。
今の王国から。
消えている。
俺がそう考えた瞬間。
手の中のアルセリアから。
今まで感じたことのない感情が流れてきた。
懐かしさ。
寂しさ。
そして。
ほんの少しの恐怖。
「アルセリア?」
声をかけると。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて。
はっきりした声で答えた。
『カイル。お願いがあるの』
その声から。
さっきまでの楽しそうな響きが消えていた。
『四十二人のことを調べて』
「……どうして?」
アルセリアの光が。
静かに揺れる。
『わたし、思い出せないの』
「何を?」
次の言葉を聞いた瞬間。
背筋が冷えた。
『みんなの顔も、名前も、一緒にいたことも。ここに来るまで、契約者がいたことさえ……全部、忘れさせられてた』
礼拝堂から。
誰の声も消えた。
俺たちが追われている理由。
聖剣の歴史が書き換えられた理由。
そして。
アルセリア自身が。
神殿から逃げ出した本当の理由。
どうやら俺たちは。
考えていたよりずっと大きなものに。
触れてしまったらしい。




