第6話 逃亡中なのに、聖剣が寄り道を要求してきた
裏口を出た瞬間、王都の空気が昨日までとはまるで違っていることが分かった。
大通りの方角からは警鐘が続けて鳴り響き、複数の騎士が何かを叫びながら走っている。屋根の上では伝令用の使い魔が飛び交い、通りの角という角には人だかりができていた。
その原因が自分だと思うと、胃のあたりが重くなる。
「顔を隠してください」
先頭を歩くエルナが、振り返らずに言った。
「隠すって言っても、そんなもの持ってませんよ」
「これを」
渡されたのは、彼女が着ていた神官服の上に羽織る薄い外套だった。
「エルナさんは?」
「私は聖務官です。むしろ顔を見せていた方が、道を通りやすい場合があります」
「じゃあ借ります」
フードを深くかぶる。
これで完全に顔が隠れるわけではないが、遠目なら多少は誤魔化せるだろう。
ミリアも髪を布でまとめ、いつもとは少し違う印象になっている。
最大の問題は。
「……アルセリア、頼むから静かにしてくれよ」
俺の背中だ。
遮魔布で包まれた聖剣は、今のところ大人しくしている。
さっきまでは。
『ありがとう』
あの声が、まだ耳の奥に残っていた。
聞き間違いではない。
ただ光で答えるだけだった聖剣が、確かに俺へ言葉を届けた。
もう一度話しかければ返事が聞こえるのではないか。
そんな期待もあった。
だが。
「今は光るのも喋るのも禁止だからな」
布の中から、弱く振動が返ってきた。
「……聞こえてるならいい」
「もう完全に相棒みたいになってるわね」
横を歩くミリアが小声で言った。
「昨日会ったばっかりだぞ」
「でもカイル、もう『返さない』って決めたじゃない」
「事情が分かるまで、だ」
「はいはい」
「何だよ、その顔」
「別に?」
妙に楽しそうなのが腹立つ。
そんな会話をしながらも、俺たちは大通りを避けて細い路地を進んでいた。
目的地は大神殿外周区画の施療院。
そこから地下の旧水路へ入り、王都の外へ出る。
言葉にすれば簡単だ。
実際には。
「止まって」
エルナが突然足を止めた。
俺とミリアもすぐ壁際へ寄る。
路地の向こうを、騎士が四人横切っていった。
「対象は黒髪、十八歳前後! 剣術科の制服を着ている可能性が高い!」
「私服に着替えている可能性もある! 長い荷物を持っている者は必ず確認しろ!」
声が遠ざかる。
俺は背中を見る。
「長い荷物って、完全に俺のことじゃないですか」
「今朝の報告がかなり具体的だったようですね」
「俺が悪いんですけどね……」
「分かってるなら次から逃げないことね」
ミリアが言う。
「次がある前提で話すなよ」
「この二日間のカイルを見てると、ありそうだもの」
「俺の人生を何だと思ってるんだ」
そんなやり取りをしながら、再び歩き出した。
◇
施療院までは、本来なら歩いて十五分もかからない。
だが今日は違った。
大通りは検問。
広場には騎士。
学院方面の通りには神官まで配置されている。
迂回を重ねた結果、すでに二十分近く歩いていた。
「王都って、こんなに逃げにくい街だったんだな」
「普通は逃げることを前提に造られてないから」
ミリアの返事は冷たかった。
「でも妙じゃないですか?」
俺が言うと、エルナが振り返る。
「何がです?」
「俺一人探すにしては、騎士が多すぎる気がします」
正確には。
俺はまだ盗人と確定したわけではない。
重要参考人。
それだけだ。
なのに、王都全体を使ったような捜索が始まっている。
「……私も気になっています」
エルナの表情が曇った。
「通常、参考人一人の捜索にここまでの人数は投入しません」
「聖剣が絡んでるからじゃないの?」
ミリアが聞く。
「それだけなら、まず私へ連絡が来るはずです」
「聖務官だから?」
「はい。私は昨日の選定儀式にも立ち会っていますし、今朝から聖剣捜索の現場にも出ています。ですが先ほどの緊急封鎖について、私は何も知らされていませんでした」
俺は足を止めそうになる。
「それって……」
「私より上の権限で動いている人がいる、ということです」
大神殿上層部。
俺の頭に、アルセリアから見せられた光景が浮かんだ。
魔法の鎖。
祭壇へ固定された聖剣。
そして。
『神器に意思などない』
あの言葉。
「契約紋が出たことは、まだ知られてないですよね?」
「私たち以外は知りません」
「だったら、何でそんなに焦ってるんだ?」
「アルセリアが誰かを選んだ可能性に気づいているのかもしれません」
エルナの答えに、ミリアが眉を寄せた。
「でも選定ではカイルは失敗したんでしょう?」
「表向きは。ただ、儀式の記録を詳しく確認すれば、柄の宝石が光ったことに気づく人間がいるかもしれません」
「契約者の反応」
「そうです」
つまり。
俺自身を探しているのではない。
契約者を探している。
もしそうなら。
「……絶対捕まるわけにはいかないな」
「同感です」
エルナが頷く。
俺たちは歩く速度を少し上げた。
◇
あと二つ角を曲がれば施療院。
そこまで来たときだった。
背中のアルセリアが、突然震え始めた。
「……おい」
弱い振動ではない。
ぶるぶると。
遮魔布越しでもはっきり分かる。
「どうしたの?」
「アルセリアが」
俺は立ち止まり、背中へ手を回す。
「今は駄目だぞ。大人しくしてろ」
震えは止まらない。
それどころか。
右手の契約紋が。
熱を持ち始めた。
「っ……」
「カイル?」
「紋章が反応してる」
エルナがすぐ近づく。
「何か見えますか?」
「いや。今のところは」
熱い。
だが、さっき記憶を見たときほどではない。
代わりに。
何か。
方向のようなものを感じる。
右。
この路地を曲がった先。
「……こっちに何かある?」
俺が聖剣へ聞く。
震えが強くなった。
「目的地は反対よ」
ミリアが言う。
「分かってる」
「なら無視しましょう」
「そうしたいんだけど」
聖剣が背中で暴れる。
「暴れるなって!」
ぴかっ。
遮魔布の内側から光が漏れた。
「ちょっと!」
「アルセリア!」
俺は慌てて布を押さえる。
こんなところで光れば、騎士に見つけてくれと言っているようなものだ。
「何か伝えたいんだと思います」
エルナが真剣な顔で聖剣を見る。
「でも今は確認してる時間なんて」
ミリアが言いかけた。
その瞬間。
「いやああああっ!」
路地の奥から。
女性の悲鳴が聞こえた。
三人とも動きを止めた。
「今の……」
俺が右を見る。
アルセリアが示していた方向だ。
続けて。
何かが倒れる音。
男の怒鳴り声。
「魔物だ!」
「誰か騎士を呼べ!」
エルナの顔色が変わる。
「行きましょう」
「え?」
今度はミリアが驚いた。
「でも騎士を呼んでるなら」
「この区域で魔物が出ること自体がおかしいんです」
「どういう意味?」
「王都内部には大規模な魔除け結界があります。小型の鼠魔獣程度なら侵入することもありますが、人を襲う規模の魔物が現れることはほとんどありません」
俺は右手を見る。
契約紋はまだ熱い。
アルセリアは。
まるで早く行けと言うように震えている。
「……分かった」
「カイル?」
「見るだけだ。危なかったらすぐ戻る」
「絶対戦う顔してるんだけど」
「人が襲われてたら放っておけないだろ」
「そういうところよ!」
ミリアが何か言いたそうにしながらも、結局ついてきた。
◇
角を曲がった先は、小さな市場通りだった。
普段なら野菜や果物を売る露店が並んでいる場所だ。
今は。
「なんだ、あれ……」
店が壊れていた。
屋台が横倒しになり。
籠から果物が散乱している。
そして通りの中央。
巨大な獣がいた。
黒い毛。
牛ほどもある体。
前脚から伸びた鋭い爪。
何より異様なのは。
「魔力が……変」
ミリアが呟いた。
獣の体から黒紫色の靄が溢れている。
「《黒牙獣》です」
エルナが息を呑む。
「こんなのが王都の中に?」
「普通ならあり得ません」
魔物の前では、一人の男が倒れていた。
その少し後ろ。
母親らしい女性が、小さな男の子を抱えて壁際へ追い詰められている。
黒牙獣がゆっくり近づく。
「まずい!」
俺は走り出した。
「カイル!」
ミリアの声が背後から飛ぶ。
考えている暇はない。
普段の剣を抜く。
「こっちだ!」
黒牙獣が振り向いた。
赤い目。
牙。
俺を認識した瞬間、地面を蹴る。
「速っ――!」
横へ跳ぶ。
爪が石壁を抉った。
学院で訓練用の魔物とは戦ったことがある。
冒険者の護衛演習にも参加した。
だが。
これは違う。
完全な実戦。
「カイル、右!」
ミリアの声。
俺は反射的に剣を構える。
黒牙獣の前脚。
刃を合わせる。
ガキンッ!
「ぐっ!」
重い。
腕が痺れる。
一撃だけで剣が大きく弾かれた。
こいつ。
俺一人じゃ。
「カイル、下がって!」
ミリアが魔法の詠唱へ入る。
だが黒牙獣は。
俺を無視した。
「え?」
視線が。
母子へ戻る。
「待て!」
獣が跳んだ。
間に合わない。
俺の剣では。
届かない。
その瞬間。
背中のアルセリアが。
勝手に遮魔布を弾き飛ばした。
「おい!?」
聖剣が宙へ飛ぶ。
青白い光。
柄が俺の右手へ向く。
契約紋が熱くなる。
頭の中へ。
今度は。
はっきりした声が響いた。
『――使って』
「……アルセリア?」
聖剣が。
俺の手の中へ落ちてくる。
握った瞬間。
世界が変わった。
いや。
俺の感覚が変わった。
黒牙獣の動き。
周囲の魔力。
剣の重さ。
すべてが。
分かる。
「な――」
考えるより先に。
体が動いた。
一歩。
前へ。
間に合うはずのない距離が。
一瞬で消える。
黒牙獣の爪が振り下ろされる。
俺は聖剣を横へ払った。
金属音すらしなかった。
爪が。
切れた。
「……は?」
黒牙獣も止まる。
俺も止まる。
何だ今の。
だが。
『カイル』
声。
女の子のような。
幼くもなく。
大人びてもいない。
澄んだ声。
『まだ』
「分かってる!」
考えるのは後だ。
獣が吠える。
残った爪が振り下ろされる。
今度は。
見える。
「遅い」
横へ半歩。
避ける。
懐へ入る。
青白い光が刀身を包む。
そして。
俺は。
聖剣を振り抜いた。
光が。
通りを走った。
次の瞬間。
巨大な黒牙獣の体から、黒紫色の靄が弾け飛ぶ。
獣がその場に崩れ落ちた。
「……」
静かだった。
さっきまで叫んでいた人々も。
ミリアも。
エルナも。
誰も声を出さない。
俺自身も。
何が起きたのか分からなかった。
「俺が……倒した?」
手の中のアルセリアが。
嬉しそうに光る。
『うん』
「……喋った」
『うん』
「普通に返事してる!」
思わず聖剣を見る。
すると。
刀身の光が。
少し得意げに強くなった。
「お前、喋れるなら最初から喋れよ!」
『できなかった』
「できなかった?」
『今は、少しだけ』
声は直接頭の中へ届いてくる。
ミリアが俺のところへ走ってきた。
「カイル! 大丈夫!?」
「ああ。それより」
「今、誰と喋ってるの?」
俺は固まった。
「聞こえない?」
「何が?」
「アルセリア」
ミリアが聖剣を見る。
「光ってるだけだけど」
「……俺にしか聞こえてない?」
エルナも近づいてくる。
「契約者だけに声を届けている可能性があります」
「そんなことできるのか?」
『できる』
「できるらしい」
「便利ね」
「俺だけ会話が成立するせいで、だいぶ変な人に見えそうだけどな」
ミリアが何か言いかけた。
だが。
エルナが黒牙獣の死骸の前へしゃがみ込む。
「……これは」
「どうしました?」
「見てください」
黒い毛の間。
首の付け根。
そこに。
何かが刺さっていた。
細い。
黒い針。
エルナが直接触れないよう、布越しに抜く。
「魔道具?」
ミリアが聞く。
「おそらく」
針の表面には。
小さな魔法陣が刻まれていた。
俺には。
見覚えがあった。
「……待って」
アルセリアの記憶。
祭壇。
聖剣を縛っていた魔法の鎖。
その根元に刻まれていた術式。
「これ」
「カイル?」
「見たことある」
エルナの顔が上がる。
「どこで?」
「アルセリアの記憶の中」
俺は針を見る。
「神殿で、アルセリアを制御しようとしてた魔法陣と似てる」
空気が変わった。
エルナの表情から。
完全に色が消えた。
「……間違いありませんか?」
「全く同じかは分からない。でも似てる」
エルナが針を見つめる。
ミリアも黙った。
そして。
アルセリアが。
俺の手の中で震えた。
『これ、嫌い』
小さな声。
「アルセリア?」
『怖いもの』
俺は剣を握る手へ力を込める。
怖い。
あの記憶と。
同じ感情。
「エルナさん」
「はい」
「これ、たまたま魔物が王都へ入ってきたんじゃないですよね」
「……はい」
彼女はゆっくり立ち上がった。
「誰かが意図的に魔物へ術式を施し、王都の中へ放った可能性があります」
「誰が?」
「今は分かりません」
だが。
候補は。
もう一つしか思い浮かばなかった。
聖剣を制御しようとしている人間。
そして。
俺を異常なほど必死に探している誰か。
そのときだった。
「いたぞ!」
通りの奥から声。
振り返る。
騎士。
一人。
二人。
いや。
十人以上。
「黒髪の男!」
「聖剣を持っている!」
「確保しろ!」
「……最悪だ」
俺は手の中を見る。
隠すどころか。
堂々と聖剣を持っている。
しかも。
アルセリアは。
なぜか得意そうに。
今までで一番明るく光っていた。
「お前、今それ絶対やめろ!」
『え?』
「え? じゃない!」
ミリアが俺の腕を引く。
「カイル! 逃げるわよ!」
「分かってる!」
エルナが施療院の方向へ走り出す。
「こちらです! 地下通路まであと少しです!」
俺も駆け出す。
背後から。
騎士たちの声が追ってくる。
「止まれ!」
「聖剣を置け!」
「カイル・レインズ!」
当然。
止まるわけにはいかない。
だが。
走りながら俺は。
少しだけ。
笑っていた。
理由は自分でも分からない。
ただ。
昨日まで俺を選ばなかった聖剣が。
今は俺の手の中にいる。
声が聞こえる。
力を貸してくれた。
そして。
『カイル』
「何だ?」
『楽しい』
「逃亡中に言うことじゃないからな!」
『でも、一緒』
その一言に。
俺は何も返せなかった。
手の中の聖剣は。
どこか嬉しそうに光っている。
王国中から追われ。
正体不明の術式を施された魔物まで現れ。
状況は。
確実に悪くなっている。
それなのに。
不思議と。
俺はもう。
この剣を拾ったことを。
後悔していなかった。




