第5話 聖剣を隠して逃げるはずが、俺の右手に知らない紋章が出た
「今日中に手配されます」
エルナからそう告げられてから、しばらく誰も喋らなかった。
窓の外から聞こえるのは、いつもと変わらない王都の生活音だ。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、遠くでは商人が朝の商品を売り込んでいる。近所の家からは洗濯物を干すために窓を開ける音まで聞こえてきた。
俺の家の中だけが、完全に日常から取り残されている。
「……重要参考人って」
ようやく口を開いた俺に、エルナは申し訳なさそうな顔をした。
「まだ犯罪者として手配されるわけではありません。あくまで、今朝の検問から逃走した不審人物として事情を聞かれる段階です」
「背中に国宝を担いで逃げた男ですけどね」
「それを言うと非常に心証が悪くなりますから、今は忘れましょう」
「忘れられる側じゃないんですよ」
ミリアが長椅子の背にもたれたまま、深いため息をつく。
「そもそもカイル、なんで逃げたのよ。捕まる前に事情を説明しようとして神殿へ行ったんでしょう?」
「そうなんだけどさ」
「だったらそこで止まればよかったじゃない」
「水晶が光って騎士がこっち見て、背中でこいつが暴れ出したら、体が勝手に走ったんだよ」
俺が聖剣を指差す。
アルセリアは俺の椅子の後ろから刀身を半分だけ覗かせていた。
「原因の半分はお前だからな」
ぴか。
「褒めてない」
ぴかぴか。
「二回光れば誤魔化せると思うなよ」
ミリアが額を押さえる。
「この状況でそのやり取りができる二人、少しすごいわね」
「俺はやりたくてやってるわけじゃない」
問題は、ここからだ。
俺の名前まではまだ割れていない可能性が高い。
しかし今朝の検問では顔を見られている。
昨日の勇者候補者名簿と照合されれば、俺に辿り着くまでそれほど時間はかからないだろう。
しかも、今この家には王国騎士が三人来ている。
彼らをいつまでも外で待たせるわけにはいかない。
「騎士の人たちは?」
「私から説明します」
エルナが答えた。
「聖剣の反応を調査したが、盗難との直接的な関連は確認できなかった。カイルさんについては後日改めて聖務院へ出頭するよう伝えた、と」
「それ通るんですか?」
「今日一日程度なら」
「一日」
「長くは無理です」
即答だった。
「私が聖務官であるとはいえ、今回の捜索には王国騎士団だけではなく大神殿の上層部も関わっています。報告書を確認されれば、いずれ矛盾が出ます」
「つまり今日中に何とかしろってことですよね」
「はい」
「何を?」
「それを今から考えます」
「考えてなかったんですか!?」
「私も聖剣が布団に隠れている状況までは想定していませんでした」
「そこを基準にしないでくださいよ!」
ミリアがとうとう吹き出した。
「ごめん。でも、エルナさんってもっと堅い人かと思ってた」
「よく言われます」
「本人もそこ認めるんだ……」
エルナは少しだけ頬を赤くしたあと、咳払いをして話を戻した。
「まず、選択肢は三つあります」
指を一本立てる。
「一つ目。このままカイルさんの自宅に聖剣を隠す」
「無理ですね」
「私もそう思います」
二本目。
「二つ目。大神殿へ返す」
俺とミリアは同時にアルセリアを見た。
ぴか。
光った直後、聖剣は俺の椅子の後ろへ完全に引っ込んだ。
「本人が嫌だそうです」
「剣なのに分かりやすすぎるわね」
そして三本目。
「カイルさんとアルセリアを、一時的に別の場所へ移す」
俺は眉を上げた。
「王都の外へ?」
「それが理想です」
「でも門が封鎖されてますよ」
「ええ。通常の方法では出られません」
「通常じゃない方法がある?」
エルナが少しだけ躊躇した。
その反応だけで、俺は嫌な予感がした。
「大神殿には、物資搬入に使われる古い地下通路があります」
「……それを使う気ですか?」
「正確には、その通路から繋がる旧水路を利用します」
ミリアが身を乗り出す。
「そんなもの、神殿の人間が使わせていいの?」
「よくありません」
「またそれ?」
「今日は朝から、よくないことばかりしています」
エルナが遠い目をした。
神官として色々諦め始めているらしい。
「でも、大神殿を通るならアルセリアが嫌がるんじゃない?」
ミリアの指摘はもっともだった。
聖剣は神殿へ近づいただけで拒否反応を示している。
「大神殿の本殿へ入る必要はありません。旧水路への入口は、外周区画にある施療院の地下です」
「施療院?」
「大神殿が運営している施設ですが、追加術式を行う祭壇とはかなり離れています。一般の患者や治療師も出入りしていますから、聖剣への干渉術式も設置されていません」
「外へ出たあとどうするんです?」
「王都から東へ二時間ほど歩いた場所に、聖務院が管理していた古い祈祷所があります。今はほとんど使われていません」
俺は一度考える。
自宅にいるよりは安全。
神殿へ返す必要もない。
王都の外なら騎士の捜索も多少は遅れるだろう。
「そこならアルセリアも大丈夫そう?」
俺が尋ねる。
ぴか。
「行ってもいい?」
ぴか。
「珍しく素直だな」
ぴかぴか。
「……もしかして、ここから離れたくないわけじゃなくて、俺と一緒ならいいのか?」
聖剣が強く光った。
「眩しいって」
だが。
少しだけ胸の奥に妙な感覚が残った。
俺が一緒なら。
それでいい。
そう答えられた気がしたからだ。
「じゃあ決まりね」
ミリアが立ち上がる。
「準備しましょう」
「待て」
「何?」
「お前も来るつもりか?」
「当たり前でしょ」
「いやいや、お前は関係ないだろ」
「昨日まではね」
ミリアが俺を睨む。
「でも今日、王国中が探してる聖剣をこの目で見た。神殿が何か隠してることも聞いた。しかも騎士が家の前に来てる状況で、私だけ『じゃあ帰るね』ってできると思う?」
「できるだろ」
「できない」
「できるって」
「できません」
「何で敬語になるんだよ」
ミリアは腕を組んだ。
「それに、あんた一人にアルセリア任せるの不安なのよ」
「俺、昨日から面倒見てるぞ」
「昨日一日だけで検問から逃走した人が言っても説得力ないから」
「ぐっ」
何も言い返せなかった。
「ミリアさん」
今度はエルナが止めた。
「これは危険な話になる可能性があります。あなたまで関わる必要はありません」
「もう聞いちゃいました」
「それでも」
「私はカイルの友達です」
ミリアはそこで一度だけ俺を見た。
いつもの茶化すような表情ではない。
「こいつ、昔から変なところで一人で何とかしようとするんです。こういうとき放っておいたら、絶対また余計なことします」
「そこまでじゃないだろ」
「朝、国宝背負って検問から逃げた」
「今日だけで何回それ言うんだよ!」
「事実でしょ」
エルナが口元を押さえた。
笑ったな。
今、絶対笑った。
「分かりました」
エルナが頷く。
「ただし、危険だと判断したらすぐ離れてください」
「はい」
「俺には言わないんですか?」
「カイルさんは離れようとしても、アルセリアがついてくるでしょうから」
「……そうですね」
ぴか。
「お前は嬉しそうにするな」
◇
俺は最低限の荷物だけを鞄へ詰めた。
着替え。
保存食。
水筒。
金。
普段使っている剣。
そして問題の聖剣。
「また毛布?」
ミリアが呆れた声を出した。
「他に包むものないんだよ」
「今朝それで怪しまれたのに?」
「じゃあどうしろって言うんだ」
「剣袋は?」
「一本分しかない」
俺の普段の剣を抜いてアルセリアを入れるという手もある。
だが聖剣は普通の長剣より少し長く、柄も独特だ。完全には隠せない。
そこでエルナが、持ってきていた鞄から白い布を取り出した。
「これを使ってください」
「何です?」
「神殿で祭具を運ぶ際に使う遮魔布です。魔力反応をある程度抑えられます」
「そんな便利なものがあるなら最初からくださいよ」
「まさか持ち出すことになるとは思っていませんでした」
アルセリアを遮魔布で包む。
今度は光もほとんど漏れない。
「おお」
「ただし、完全に消せるわけではありません。強く発光すれば分かります」
俺は布越しに聖剣を軽く叩いた。
「聞いたな。大人しくしてろよ」
反応は分からない。
「……これ、返事が見えないと逆に不安だな」
「もうかなりアルセリアに慣れてるわね」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
荷物の準備を終え。
エルナが騎士へ説明するため一度外へ出た。
数分後。
三人の騎士が去っていく。
窓の隙間から確認していたミリアが振り返った。
「本当に帰った」
「エルナさん、かなり偉い人なんだな」
「聖務官って若くてもなれるものなのかしら」
「知らない」
しばらくして、裏口からエルナが戻ってきた。
「今から出ます」
「もう?」
「正午の発表前に動いたほうがいいです。発表後は巡回の人数が増えます」
俺は鞄を背負い。
遮魔布に包んだアルセリアを肩へ担ぐ。
その瞬間だった。
「……ん?」
右手が熱い。
最初は、聖剣の柄に近い場所を握ったせいだと思った。
だが違う。
手の甲。
皮膚の内側から熱が広がっている。
「カイル?」
ミリアが俺の様子に気づく。
「ちょっと待って」
俺はアルセリアを床へ置いた。
右手を見る。
何もない。
いや。
「……何だこれ」
手の甲に。
淡い青色の線が浮かび始めていた。
「カイル、動かないで」
ミリアがすぐ近づく。
線は一本。
そこから枝分かれして円を描き、複雑な模様を作っていく。
剣のようにも。
翼のようにも見える。
「痛い?」
「いや。熱いだけ」
「魔力は?」
「分からない」
エルナが俺の手を見た瞬間。
顔色を変えた。
「その紋章……」
「知ってるんですか?」
「見せてください」
彼女が俺の手首を取る。
目を細め、紋章を確認する。
さっきまでの落ち着きが明らかに消えていた。
「間違いない」
「何が?」
エルナは答えず、アルセリアへ視線を向けた。
「アルセリア。あなたがやったのですか?」
遮魔布の中から。
ぴか。
青い光が透けた。
「おい」
俺は手の甲と聖剣を交互に見る。
「何した?」
今度は弱く光った。
「いや、光だけじゃ分からないって」
ミリアがエルナを見る。
「これが《契約者》の印?」
「おそらく」
「おそらく?」
「私が知っているのは、古い文献に描かれていた図だけです。現物を見るのは初めてです」
「悪いものじゃないですよね?」
俺が聞く。
エルナは黙った。
「その間やめてもらえます?」
「悪いものとは書かれていません」
「その言い方、不安しかないんですけど」
「ただ――」
エルナが言葉を切る。
「《契約紋》が現れたということは、聖剣とカイルさんの間で正式な契約が成立した可能性があります」
「正式な?」
「はい」
「昨日からずっと一緒にいたのに?」
「それまでは、アルセリアが一方的にあなたを選んでいただけだったのかもしれません」
俺は再び手を見る。
青い紋章は、もう消えそうにない。
皮膚の上に描かれたのではなく、体そのものへ刻まれているようだった。
「何が変わるんです?」
「分かりません」
「またそれか……」
「だから古文書を調べる必要があります」
「祈祷所にある?」
「一部の複製が保管されています」
エルナはそう言ったあと。
突然、目を見開いた。
「カイルさん」
「はい?」
「今、アルセリアから離れてください」
「え?」
「早く!」
声の緊迫感に押され、俺は二歩下がった。
直後。
アルセリアを包んでいた遮魔布が。
内側から膨らんだ。
青白い光が一気に強くなる。
「何だ!?」
布が弾け飛ぶ。
聖剣が宙へ浮いた。
俺は咄嗟に身構えた。
アルセリアは俺へ刃を向け――なかった。
柄をこちらへ向けたまま。
宙に浮いている。
「……握れってことか?」
ぴか。
「今?」
ぴか。
ミリアが心配そうに俺を見る。
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんで触るの?」
「触らないと進まなさそうだろ」
俺は右手を伸ばす。
手の甲の紋章が、聖剣へ近づくほど熱くなった。
指が柄に触れる。
そして。
「――っ!」
景色が変わった。
◇
暗い。
最初に感じたのは、それだった。
どこだ。
家じゃない。
目の前には巨大な祭壇がある。
俺はその場所を知っていた。
昨日。
勇者選定が行われた場所。
だが人がいない。
いや。
違う。
これは今じゃない。
祭壇の周囲に、見たことのない術式が刻まれている。
幾重もの魔法陣。
聖剣アルセリアが中央へ固定され。
その周囲を白い法衣の人間たちが囲んでいた。
『出力が足りない』
誰かの声。
『さらに深く接続しろ』
『しかし、聖剣の拒絶反応が――』
『神器に意思などない。術式の不具合だ』
アルセリアの刀身が震える。
鎖。
光で作られた何本もの鎖が、刀身へ絡みついている。
『次代勇者が決まるまでに、完全制御を完成させる』
『それでは聖剣そのものが損傷する可能性があります』
『魔王軍の侵攻は待ってくれない。必要なのは意思ではなく、力だ』
胸の奥が。
妙に苦しくなった。
俺の感情じゃない。
怖い。
痛い。
逃げたい。
その感覚が直接流れ込んでくる。
「アルセリア……?」
俺が呼んだ瞬間。
景色が砕けた。
◇
「カイル!」
ミリアの声で意識が戻る。
「……っ!」
膝から力が抜けた。
倒れそうになった俺を、ミリアが支える。
「大丈夫!? カイル、返事して!」
「大丈夫……たぶん」
「顔真っ青よ!」
俺は荒い息を整える。
右手にはアルセリア。
手の甲の契約紋が強く光っていた。
エルナが俺の前に膝をつく。
「何が見えました?」
「見えたって……分かるんですか?」
「契約紋には、聖剣が持つ記憶を共有する作用があると記録されています」
俺は言葉を失った。
今のが。
アルセリアの記憶。
「……祭壇が見えました」
エルナの表情が固まる。
「昨日の?」
「似てた。でも、周りに別の魔法陣があった」
「どんな?」
「鎖みたいな術式でアルセリアを固定してた。神官らしい人たちがいて」
そこで。
エルナの顔から血の気が引いた。
「何を話していました?」
「聖剣を完全制御するって」
沈黙。
ミリアの腕に力が入る。
「それと」
俺は続けた。
「アルセリアが拒絶してるって言った人がいた。でも、別の人間が『神器に意思なんてない』って」
「……」
「損傷する可能性があっても、続けるつもりだった」
俺は手の中の聖剣を見る。
いつもなら光る。
逃げる。
遊ぶ。
妙に人懐っこい。
そんなこいつから。
さっき俺に流れてきたもの。
怖い。
痛い。
逃げたい。
あれが本当にアルセリアの感情だったのなら。
「だから俺のところに来たのか」
聖剣が。
小さく光った。
今までで一番弱い。
俺は柄を握り直した。
「……分かったよ」
何をするべきか。
ようやく少しだけ分かった。
「神殿に返す話は一旦なしだ」
ミリアが俺を見る。
エルナも。
「誰が正しいとか、何が本当とか、まだ全部は分からない。でも」
俺はアルセリアへ言う。
「嫌がってるお前を無理やり戻すことだけはしない」
聖剣は動かない。
「契約者が何なのかも知らないし、俺がなんで選ばれたのかも分からない。でも、守ってほしいって言ったんだろ」
手の甲の紋章が。
熱を持つ。
「だったら、事情が分かるまでくらいは守る」
その瞬間。
アルセリアが輝いた。
眩しい。
けれど。
これまでのような暴れる光ではない。
どこか温かい。
そして。
頭の奥へ。
ほんの一瞬だけ。
声が届いた。
『――ありがとう』
「……え?」
俺は固まった。
「カイル?」
ミリアが俺を覗き込む。
「今……」
「どうしたの?」
「声が」
俺は聖剣を見る。
「アルセリアの声が聞こえた」
「え?」
エルナが息を呑む。
「何と言ったんですか?」
「ありがとう、って」
誰も言葉を発さなかった。
聖剣アルセリア。
三百年間。
誰にも聞こえなかったはずの声。
その声を。
俺は確かに聞いた。
そして次の瞬間。
外から。
カン、カン、カン――!
王都中へ響く警鐘が鳴り始めた。
エルナが窓へ駆け寄る。
「正午の鐘ではありません」
「じゃあ何?」
ミリアが聞く。
エルナは窓の外を見たまま答えた。
「緊急封鎖です」
通りの向こう。
騎士たちが走っている。
家々の扉を叩きながら、大声を張り上げていた。
「聖剣盗難事件に関する重要参考人を捜索する! 十八歳前後の黒髪の男性! 名はカイル・レインズ!」
「……」
俺は天井を仰いだ。
「思ったより早かったな」
ミリアも窓の外を見て引きつった笑いを浮かべる。
「感心してる場合じゃないわよ」
「分かってる」
外からさらに声が響く。
「対象の自宅を再確認しろ! 近隣への聞き込みも開始する!」
俺たち三人が。
同時に玄関を見る。
「エルナさん」
「はい」
「地下通路までどれくらいです?」
「走って十五分です」
「走ります?」
「走りましょう」
俺はアルセリアを遮魔布で包み直す。
すると聖剣が。
今度は嫌がらず、大人しく布の中へ収まった。
「よし」
鞄を背負う。
ミリアも荷物を掴む。
エルナが裏口を開け、外の様子を確認した。
「今なら行けます」
俺は一度だけ。
住み慣れた家を振り返った。
昨日の朝までは。
勇者になれたらいいな、くらいに考えていた。
昨日の昼には聖剣に選ばれなかった。
昨日の夜には聖剣が玄関にいた。
そして今日。
俺は聖剣と契約し。
その声を聞き。
王都から逃げ出そうとしている。
「人生って一日でこんな変わるもんか?」
「カイル、早く!」
「分かってる!」
俺は裏口から飛び出した。
腕の中で。
アルセリアが一度だけ、静かに光った。
こうして。
聖剣に選ばれなかったはずの俺は。
誰にも知られない《聖剣の契約者》として。
王都からの逃亡を開始した。




