第三話 少年ジル、初めての友達、鉄のトトちゃんにパン食わされる。
その瞬間、私はこのために生まれたのだと思った。
圧倒的な存在だった。
すべての時が止まり、今までの人生が無色透明になっていく。
私は彼女――公爵令嬢エレノア様にあっという間に心臓を奪われた。
エレノア様と出会ったのは、ほんの一瞬のことだった。
公爵邸の前の通りを歩いていたら、目の前で公爵家の馬車が止まった。
豪華絢爛な馬車から、執事に手を引かれて一人の令嬢が下りてくる。周りの空気が、ふわりと甘い花の匂いに支配された。
彼女の瞳は宝石のルビーのように煌めき、金色の髪は太陽の光を編み込んだかのように輝いている。
水色のドレスの裾が風に舞い、そこから覗いた彼女の白い足首に、私はゴクリと息を呑んだ。
その凛とした光に、私の心はたちまち射抜かれてしまった。
エレノア様は足元を踏み外さないようステップを見つめ、瞬きを一回。
それから、スッと私の方に視線が移された。
しかし、その紅玉の瞳の中に、私という存在は映っていない。
道端に咲く一輪の花と、そこに佇むだけの私は、彼女にとっては等しく無価値な存在なのだ。
「くっ……」
エレノア様は従者たちを引き連れ、邸宅の中へと入っていかれた。まるで幻の女神のように、私の目の前から消えていなくなる。
肋骨を内側からドンドンと叩き割られそうなほど、鼓動が激しく打っていた。思考は停止し、金縛りにあったように手も足も動かなくなってしまった。
時間で言えば、永遠のようでもあり、ほんの一瞬でもあった。
けれど、それだけで私の人生を変えるには十分過ぎた。
今の私は道端の泥と同じだ。
あの美しい光に触れていい手ではない。
けれど――あの光を守れる男になりたい。
彼女に振りかかる泥はすべて私が払い、彼女には光り輝く道だけを歩いてほしい。
その一心で、私は騎士団の門を叩いたのだ。
◇
パリーン!!
金属の鈍い音が、騎士団の訓練場内に響き渡った。剣の刃先が完全に折れてしまい、無残な姿を晒している。私の眉間に深いシワが寄った。
「……折れた」
くそ、と独り呟く。
入団してからというもの、私は剣を消費し続けている。
駄目だ、駄目だ、どうしてこんなにも上手くいかない。騎士団に入れば、あの光に少しでも近づくことができると思っていた。
ところが現実はどうだ。
くだらない取り決め、つまらない権力争い、騎士道精神のかけらもない騎士たち。こんな奴らが、エレノア様や国民を守ってやっているという顔をしている。反吐が出そうだった。
だが、一番反吐が出そうなのは自分自身だ。今の実力では、エレノア様を泥から守ることさえできない。情けなさのあまり、噛み締めた唇から血が滲んだ。
折れた剣も、私の行き場のない感情をぶつけられた被害者なのだ。加害者である私は、あの反吐が出そうな奴らと何一つ変わらない。私は折れた剣を強く握りしめた。
そこへ、ふらりと小柄な騎士が現れた。
「ジルフォード! お前、また剣を壊したのか?」
私が折れた剣を見つめていたことに気づいたその騎士は、汗を拭いながら声をかけてきた。
この人は私より三歳ほど年上で、新人たちの間で未だに馴染めずにいた私を何かと気遣ってくれる先輩だった。こうやって声をかけ、世話を焼き、時には愚痴も聞いてくれる、当時の私の良き理解者だ。
のちに彼、ザック先輩は、騎士団長となった私の腹心――騎士団副団長となる男である。
「ザック先輩……」
「……はぁ、ジルフォード。一度、腕のいい鍛冶工のところに行ってこい。俺の知り合いに、少し荒削りだが凄腕のやつがいるんだ。そいつに剣を一本打ってもらえ。俺から頼んでおいてやるからさ。きっと、お前にピッタリな剣を作ってくれるぞ」
ザック先輩は人差し指をピンと立て、少し自慢気に語った。
「鍛冶工、ですか……」
「お前、武具にも騎士道精神にもこだわりが強いだろ。一度行ってみれば分かる。お前はあの子の作る武具に、絶対ハマるからな!」
◇
ザック先輩に背中を押され、私は訓練の後、半信半疑のまま彼に教えてもらった城下町の工房を訪ねることにした。
王城近くの高級住宅街をくぐり抜け、城下町へと続く坂道を下ったその先に、ひっそりと佇む工房があった。流れる風が、工房の方からかすかに炭の匂いを運んでくる。
私は工房の扉を恐る恐る開けてみた。ギギギ、と鈍い音が響く。
ーーカーン、カーン
工房の中は外よりも一段と温度が高く、埃や煤が床や空中にひらりと舞っていた。奥からはパチパチと炎が煌めく気配がし、カーン、カーンと小気味いい鉄の音が反響して聞こえてくる。
炉の前には、身体を丸めて鉄を打っている作業着姿の人物がいた。
「……すみません」
カーン、カーン、と音のリズムは崩れない。茶色のポニーテールが、鉄を打つ音に合わせてリズムよく左右に跳ねていた。
「あの! すみません! 騎士団のザックから聞いてやってきた、ジルフォード・アイゼンと申します!」
声が届いていないと判断し、私は騎士団仕込みの大声で叫んだ。
すると驚いたのか、煤だらけの人物がこちらを勢いよく振り返った。
「わっ!? びっくりしたー! ……あぁ、あなたがザックの後輩くんか。話は聞いてるよ」
ハンマーを作業台の上に置き、立ち上がって私を見上げてくる。
全身煤まみれで、頬には墨がついており、ダボついた作業着を着ている。栗毛のポニーテールに、琥珀色の大きなつり目をした、まるで猫のような瞳の少女だった。年齢は私とほとんど変わらない、十四歳前後だろうか。騎士に対する礼儀など、微塵も興味がなさそうだ。
「折れた剣、見せて」
促されるまま、彼女に折れた剣を手渡した。彼女は色んな角度から、じっくりと折れた剣を観察し始める。
「確認しとくから、そのへんに座ってて。あ、ワタシはトトって言うの。よろしくねー!」
軽く手を挙げたものの、視線は手元の剣から一切外さない。
煤だらけの彼女は、あの憧れのエレノア様とは似ても似つかなかった。同じところを挙げるなら、性別が同じであることと、顔に目と鼻と口があることくらいだ。
(トト、か……本当に猫みたいな名前だな)
私は手持ち無沙汰になり、工房の中を興味の赴くままに見て回った。彼女が打ったであろう剣や鎧、盾などが無造作に置かれている。どれも美しく洗練されており、一目見ただけで彼女の腕が一流であることが分かった。思わず惚れ惚れと見入ってしまう。
トトは手元の剣を置くと、私を上から下までじっと凝視し、それから新しく鉄を打ち始めた。炎が赤く燃え上がっても気にする様子もなく、ただひたすらに鉄を打つリズムが響く。
私は椅子に腰掛け、その様子をぼんやりと眺めていた。同じ年齢なのに、彼女はとっくにプロとして完成されている。それに引き換え、自分は剣すらまともに扱えないダメな騎士だ。不甲斐なさが押し寄せ、私は小さくため息をついた。
「ジルフォードだっけ? 長いな……ジルでいい?」
「え?」
「ジルさー、力任せに剣を使ってもダメだよ。もっと身体全体で踏み込まないと。あと、右手ばっかりに頼るクセ、気をつけなね」
剣と私を見ただけで、一瞬にして私の悪いクセを見抜いてみせた彼女に、私はゴクリと息を呑んだ。
「あの……」
鉄を打ち終えたのか、トトがこちらに歩み寄って剣を手渡してきた。
「今日のはまだ仮の調整だよ。ちゃんと合わせたやつは来週までに作るから。まずは振ってみて、感想教えてよ」
私は手渡された剣を目の前に掲げた。
「わぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
鋭く銀色に光る剣先。手に持った瞬間に、まるで身体の一部のようにスッと馴染む柄。驚くほど軽くて重心も安定しており、私の「右手に頼るクセ」を自然とカバーしてくれているのが握っただけで分かった。私は一瞬にして、彼女の作る武具の虜になってしまった。
トトはどうだと言わんばかりに腰に手を当て、フン、と誇らしげに鼻を鳴らしている。
「すごいな……」
「鉄のトトちゃんと、お呼び!」
「鉄の……トトちゃん……」
ブハッと、私は堪えきれずに吹き出してしまった。こんなに笑ったのは、一体いつ以来だろう。
なんだこの人は。こんな面白い人間は、お堅い騎士団には一人もいない。
――グゥゥゥー。
盛大に笑ったせいで、お腹の虫が激しく鳴り響いた。騎士としてあるまじき失態に、私は恥ずかしさで顔を真っ赤に染めた。
「ジル、ワタシが作ったパンがあるんだ。食べていきなよ!」
そう言って手渡されたパンからは、焼きたての香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。
「食べて食べて! ワタシも食べよーっと」
鉄のトトちゃんは私の隣に腰掛けた。こんなに歳の近い少女と食事をするなんて初めてのことだった。私はパンを見つめ、思い切って一口かじってみた。
「うまい……」
ほんのり甘くて優しい味が、冷え切っていた心に染み渡り、じわじわと温かくなっていく。工房の炎が熱いせいだ、と私は自分に勝手な言い訳をした。
「鉄のトトちゃんは、……料理のトトちゃんでもある!」
トトが、夢中でパンを頬張る私を見て無邪気に笑うものだから、私はまた吹き出してしまい、口からパンくずを飛び散らせた。
「お腹が空いたら、またおいでよ」
「ハハハ! 剣の相談じゃないのか、トトちゃん!」
騎士団でずっと馴染めずにいて、理想の騎士道と現実のギャップに悩み、私の心は石のように硬くなっていた。
けれど、トトちゃんのパンを食べた瞬間、スゥーッと肩の力が抜け、肺が大きく膨らんで喉のつかえが楽になっていくのを感じた。
(――あぁ、息って、こうやってするんだったな)
私は最後の一口を飲み込み、工房の炎で温まった空気を、胸いっぱいに思いきり吸い込んだ。
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画像はAI画像生成ツール使用しています。
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