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自分が無い
職場の廊下を、犬飼優人と恋宮叶が並んで歩く。
「はぁ……なんでついてくるんだよ」
優人が呆れたように言う。
「別にいいでしょ。私の勝手」
叶は前を見たまま答える。
すれ違いざま、一人の男と視線が合った。
止まる。
「……ちょっと待って」
男が振り返る。
「なんでしょうか」
「今日はメガネかけてなくてさ。よく見えないんだよね」
「それがどうしましたか」
叶は目を合わせ続ける。
――効かない。
何も変わらない。
「名前は?」
「一ノ瀬蒼です」
優人が横から淡々と補足する。
「白雪が目を付けてるやつだ」
(……おかしい)
犬飼みたいな“引っかかり”がない。
むしろ、ただの人間に見える。
「……もう行っていいですか」
「あ、うん」
蒼は軽く会釈して、そのまま去っていく。
叶は背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。
「何を驚いてる」
優人が言う。
「目を合わせても、効かなかった」
「へー」
興味なさげな相槌。
「自分がそうだからって」
「人の真似で動いてるやつに、ああいうのは効かないだろ」
叶が振り向く。
「どういうこと?」
「見てりゃ分かる。動きはあるのに、中が空っぽだ」
「……あそこまで徹底してるのは珍しいけどな」
叶は少しだけ視線を落とした。
「そっか」




