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職場の一室
廊下の端、足音だけがやけに響く。
「おーい」
犬飼優人が書類を片手に立っていた。
「なんか書類渡せって押し付けられたんだけど。自分で行けよな、面倒くせぇ」
目の前の少女は、顔を上げない。眼鏡の奥に視線を隠したまま、何も返さない。
「……なんか話せよ。独り言言ってるみたいだろ」
反応はない。
優人はため息をつき、少しだけ身を乗り出す。
「そいや、その伊達メガネ。似合ってねぇけど、なんで付けてんだ?」
ぴくり、と指先が揺れる。
「……んじゃ、渡したから」
書類を差し出す。受け取る気配がない。
「おい」
舌打ち混じりに名札へ視線を落とす。
「愛宮、か」
その瞬間。
胸の奥で、何かが弾ける。
(イラ)
愛宮叶は、ゆっくりと眼鏡を外した。
「ん? なんだよ、今度はじっと見てきて気持ち悪ぃな。」
視線が、真正面からぶつかる。
沈黙。
叶の呼吸が、わずかに乱れる。
(……効いていない?)
違う。
おかしい。
優人は瞬きひとつしない。ただ、そこにいるだけの人間みたいに。
「趣味じゃ無いですけど!!」
思わず声が強くなる。
「……あーそう」
肩をすくめるだけ。
「んじゃ、書類渡したから」
何事もなかったように、踵を返す。
去っていく背中を、叶は動けずに見つめる。
初めてだった。
誰かと、目を合わせても——何も起きなかったのは。




