名無し
喫茶店の奥。
窓際の席で、灯は手を振った。
「やぁ、名無し。元気してる?」
向かいの席に座る女性が大きな欠伸をする。
「元気だよー。」
どこにでも居そうな顔。
だが、どこにも居ない顔。
名無し。
名前が無いのではない。
名前が多すぎるのだ。
本当の名前を知る者は誰も居ない。
十代にも見える。
三十代にも見える。
能力者ではない。
ただ異常なまでに演技が上手かった。
立ち振る舞いだけで人を騙し、場に溶け込む。
それが名無しだった。
灯はテーブルの上に封筒を置く。
「はい。」
「咲さんの件、調べてくれてありがとね。」
名無しは封筒を開ける。
中身を確認した瞬間、顔が緩んだ。
「良いねぇ……。」
「何買おうかな。」
灯は呆れたように笑う。
「本当によくやるよね。」
「ありがとー。」
名無しは機嫌良さそうに封筒をしまった。
灯は前から気になっていた事を聞く。
「てかさ。」
「潜り込めるのは分かるけど、どうやって聞き出してるの?」
名無しは首を傾げた。
「聞き出すって人聞き悪いなぁ。」
「相手が勝手に話してくれるだけだよぉ。」
「例えば?」
「今回だったらねぇ。」
名無しは楽しそうに笑う。
「咲の知人の人に。」
「"咲さんって人と同じ学校なんだぁ。"」
「"あの人頭良いから君も優秀なんだろうなぁ。"」
って言ったらさぁ。」
「勝手にペラペラ話してくれた。」
灯は思わず笑う。
「やるねぇ。」
「学校も面白かったよぉ。」
名無しは続ける。
「担任の先生に。」
「元教え子ですって言ったらさぁ。」
「"覚えてる"とか言い出してぇ。」
「何人も見てたら普通忘れるでしょぉ。」
「最低だね。」
「褒め言葉かな?」
名無しは嬉しそうだった。
しばらくして。
名無しは封筒を眺めながら考える。
「お金だぁ。」
「何買おうかなぁ。」
「モデルガンとか面白そう。」
灯は眉をひそめた。
「先月金庫買ってなかった?」
「買ったよぉ。」
「捨てた。」
「なんで?」
「物が増えて邪魔なんだもぉん。」
灯はため息を吐く。
「ま、いいや。」
どうせ止めても無駄だ。
名無しはふと灯を見る。
「ねぇ、灯。」
「何?」
「世界を変えたいじゃなくて。」
「世界を終わらせたいで能力貰ったんでしょ?」
灯の表情が僅かに止まる。
名無しは気にせず続けた。
「いつ世界終わらせるの?」
沈黙。
窓の外を眺めながら、灯は静かに答える。
「……汚い物は沢山見てきた。」
「両親が死んでから。」
「変わらない物も沢山見てきた。」
名無しは黙って聞いている。
灯は小さく笑った。
「でも。」
「汚くても。」
「変われなくても。」
「人は前に進める。」
「最近そう思えたんだ。」
名無しは少しだけ目を細める。
「一ノ瀬春ねぇ。」
灯の眉がぴくりと動く。
「………。」
名無しはニヤニヤしながら続けた。
「あぁ。」
「灯がだぁいすきなのは一ノ瀬蒼かぁ。」
空気が凍る。
文字通り。
テーブルの表面に白い霜が広がった。
灯は笑顔だった。
「凍らせるよ。」
名無しは即座に両手を上げる。
「怖い怖い。」
だが。
全く反省している顔ではなかった。




