枯れた涙
騎士アルカイド・フォン・ベネトナシュが向かった先――そこは、文字通りの地獄だった。
魔物はどこからともなく這い出てくるのではない。
何もない空間が突然ひび割れ、黒い『裂け目』になる。
そこから恐ろしい魔物が次々と湧き出してくるのだ。
特に、人口の多い大きな街の近くほど、その裂け目は頻繁に、そして巨大なものとなって現れる傾向があった。
「そこへ直撃する! 炎よ、焼き尽くせ!」
アルは圧倒的な『火炎魔法』を放ち、裂け目から這い出ようとした魔物の群れを一網打尽に焼き払う。
凄まじい熱風が戦場を包み込むのと同時に、後方から死角を突いて迫る別の魔物の爪を、強固な『結界魔法』で完璧に弾き返す。
赤と白、二つの魔法を澱みなく使いこなすアルの強さは、戦場でも圧倒的だった。
彼が一人いるだけで、崩壊しかけた戦線が奇跡的に立て直され、維持される。
だが、周囲の騎士たちの彼を見る目は、お世辞にも温かいものとは言えなかった。
「おい、見ろよ……あのベネトナシュ家の厄介者、二つの魔法を使ってやがる」
「仲間内であんな被害を出しておきながら、よくもまぁノコノコと前線へ戻ってこれたもんだ」
「放っておけ。どうせ便利に使い潰されるだけの消耗品だ」
あからさまな忌避、無視、そして嘲笑。
騎士団の連中はアルを汚物のように避け、誰も連携を取ろうとはしない。
背中を預け合える仲間など、この戦場には一人もいなかった。
アルは完全に孤立していた。
満足な休息も得られず、血の臭いに塗れながら、過酷な転戦を繰り返す日々。
あの温かい家を思いながら、胸のお守りを握りしめ、アルは孤独に戦線を支え続けていた。
――――――――――
いくつかの戦地を渡り歩いたある日のこと。
アルは、泥に塗れた本陣の片隅で、ついに『彼』の姿を見つけた。
「う、あああああ――ッ!!」
耳を突き刺すような、少年の悲痛な悲鳴。
見れば、数人の魔法士たちに囲まれ、地面に組み伏せられている小柄な影があった。
その少年の痩せこけた背中には、禍々しい『改造魔力注入器』が装着させられていた。
強引に、異色の魔力を流し込まれ、少年の魔力回路が限界を超えて悲鳴を上げている。
銀色の髪を泥まみれにして振り乱し、獣のようにのたうち回るその少年は――あの『シルバー』だった。
「よし、注入完了だ。おい、さっさと立て、この出来損ない」
注入が終わると、魔法士たちは足蹴にして少年を泥の中へ放り出し、冷淡に去っていった。
アルは胸を締め付けられるような激しい怒りで拳を震わせた。
(ここの連中は、この小さな子どもを人間とも思っていないのか……!)
激しい怒りを殺気として漏らさぬようグッと抑えながら、アルはそっと少年の元へ歩み寄った。
ピクピクと痙攣し、泥まみれで横たわるシルバーの横に、アルは静かにしゃがみ込む。
そして、自分の支給品である一切れの乾いたパンを、そっと差し出した。
「……?」
シルバーはピクリと身体を震わせたが、泥に汚れた顔を上げようともせず、視線だけをアルに向けた。
だが、その瞳は完全に光を失って濁り、アルの顔を虚ろに見つめるだけで、差し出されたパンに触れようともしない。
これまで誰一人として、自分に親切にしてくれる者などいなかったのだろう。
差し伸べられた手が、自分に向けられた好意だということすら、今のシルバーには理解できないのだ。
それでも、アルは諦めなかった。メイシーがかつて、自分にしてくれたように。
「これを食べるといい。お腹が空いただろう?」
何度も、何度も、根気強く、優しく声をかけながら、パンを差し出し続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。
シルバーは怯えるような手つきで、ようやくアルの手からパンを受け取った。
そして、恐る恐る一口齧った瞬間――目の色が変わった。
ガバッと飛び起き、飢えた獣そのものの勢いで、小枝のような指を立ててパンを掴み、喉を詰まらせそうになりながら夢中になって頬張り始めた。
「慌てなくていい。水もある。パンもまだあるから」
アルは水筒の水を差し出し、それから二つ目のパンをそっと手渡した。
シルバーは夢中で貪り食い、ようやく一息つくと、膝を抱えて小さく丸まった。
そしてポツリと、消え入りそうな声で呟いた。
「……なんで俺なんか構うの。
俺は平民の孤児だから、ゴミ扱いだ。
頭が引き裂かれるみたいに痛い魔力を入れられてさ。
こんな毎日……もう死んだ方がマシだ……」
少年のあまりにも深い、底知れない絶望。
その言葉を聞いた瞬間、アルの脳裏に、かつて森の中で絶望していた自分を励まし、救ってくれたメイシーの温かい姿が浮かんだ。
『辛い時はね、我慢なんかしないで、声を上げて泣いちまえばいいんだよ』
アルはシルバーの細く、骨が浮き出た肩にそっと手を置き、静かに語りかけた。
「……辛かったら、泣いてもいいんだぞ。我慢しなくていい」
だが、シルバーはふっと鼻で笑うと、乾ききった目を伏せた。
「泣く? ……無理だよ。俺の身体にはもう、涙になるような水の一滴すら、残ってない」
――――――――――
それからアルは、行軍の最中や夜営のたびに、シルバーを見かけると必ず自分のパンを分け合った。
シルバーは何も言わず、ただパンを貪るだけだった。
身を切るような夜風が吹き荒れる酷寒の夜。
陣幕の外で歯をガチガチと鳴らし、震えるシルバーの姿があった。
アルは迷わず歩み寄り、シルバーのやせ細った小さな身体を、自分が纏っていた大きなマントでそっと包んだ。
これほど衰弱したシルバーには、どんなに弱かろうと火の魔法をかけるわけにはいかない。自分の体温で暖めるしかなかった。
アルは重く冷たい鎧を脱ぎ捨て、シルバーを抱きしめた。
血と汗でドロドロに汚れたアンダーシャツに似合わぬ純白のアスコットタイが、月の光を反射している。
胸元には小さな袋が揺れていた。
「なんだよ……それ」
シルバーがかすれた声で尋ねた。
「ああ、これはな、妹たちが作ってくれた『おまもり』だ」
「『おまもり』……?」
シルバーはその言葉を、無意識に繰り返した。
どこかで聞いた覚えがあった。
だが、とたんに割れるような頭痛が彼を襲った。
「あ、あああ……」
苦悶の声をあげるシルバー。
「どうした、どこか痛いのか?」
(この子の『反射膜』に頼り、防壁にしているくせに……平民だというだけで、なぜこれほどまでに残酷な扱いができるのだ)
アルの胸の奥で、騎士団と、その上に鎮座する王家への怒りが燃え上がる。
同時に、腕の中の少年のあまりの軽さが、愛おしさと切なさを掻き立てた。
「おっさん、俺のことなんか放っておいてくれよ。
こんな世の中、生きてる価値なんかない」
シルバーは痛みに顔をしかめながら、投げやりな声を出した。
「いや、生まれたからには、生きなければならない」
アルは静かに、けれど揺るぎない確信を込めて答えた。
「それと、私はおっさんではなくアルカイドだ。
……アルと呼んでくれ」
「ふん……」
シルバーは不満そうに鼻を鳴らしたが、アルの力強い胸の鼓動とその温もりに、いつしか安心しきった表情で眠りに落ちていったのだった。




