災厄の予感
魔法研究所で起きた一連の騒動を、冷徹な目で見つめている者がいた。
クロエである。
まばゆい金の光に包まれ、アルの全身の火傷が嘘のように消え去っていく光景を、廊下からじっと盗み見ていたのだ。
そして、作業員たちによる集団食中毒を発端とした魔法研究所の大騒動の様子もしっかりと視察した上で、ギルバートのもとへと参内し、一部始終を報告した。
「――何? アルカイドの奴が『赤』と『白』二つの魔法を使えるようになっただと?」
報告を聞いたギルバートは、美しい顔を不快そうに歪ませた。
かつてアルが『赤』『白』の同時発動という未踏の領域に挑み、暴走を引き起こして失脚したあの悲劇――。
実はそれこそが、ギルバートの仕掛けた罠だった。
当時、メキメキと頭角を現し、英雄視されていたアルカイド。
士官学校時代からアルカイドを妬んでいたギルバートは、それを苦々しく見ていた。
密かにアルの同僚を呼び出すと、本人も気づかぬまま、暗示をかけた。
そして、魔物の脅威が迫ったその時、同僚はアルカイドの耳に、甘く囁いたのだ。
「お前ならできる」
「新しい英雄の力を見せてくれ」
ギルバートの狙い通り、赤と白の魔法を同時に発動したアルは自滅した。
そして、自ら閑職を申し出るだけでなく、実家であるベネトナシュ侯爵家とも断絶し、完全に孤立したのだった。
それなのに、まさかの名誉挽回、それどころか、以前より強くなって戻ってくるかもしれない。
その事実は、ギルバートにとって看過できない危惧だった。
(また戦地に送るか……だが、下手に活躍されるのも、あれこれ嗅ぎまわられるのも困る……)
ギルバートは細い指に、紫の髪をくるくると巻き付けながら思案した。
「……フン、まあいい。
その小娘のせいで研究所の作業効率が上がったというのなら、今のところは泳がせておけ。
アルカイドはそのまま小娘の警護をさせておく。
お前は引き続き監視していろ」
「御意――」
執務室を辞し、中央塔の階段を下りるクロエの無表情な顔の裏で、ほんの一瞬だけ、チリ……と右耳が熱くなった。
ドロドロとした洗脳魔法が彼女の精神を縛り付ける中――その紫の靄を押し返すように、右耳の脇に残された、あの健気な『一粒の金の粒』がポン! と弾けたのだ。
それに呼応するように、クロエ自身が本来持っていた『緑の魔力』が、心の奥底から小さな芽を出すようにフワリと湧き上がる。
(……あの温かい金の光。あの時、口にした初めての味……)
突如として、柔らかいお肉の感触、醤油の香ばしい香り、そして「温かいうちにお食べ」と微笑むメイシーの顔が、鮮明にフラッシュバックする。
(……すき、やき……)
呪縛に抗う金と緑の輝きが、彼女の凍りついた心をかすかに揺さぶる。
だが、クロエはすぐにその微かな心のざわつきを心の奥底へと無理やり押し込め、冷たい人形の目に戻って王宮を後にした。
――――――――――
だが、ヴァーゴの勝手な行動にギルバートは激怒した。
数日後、呼び出されたヴァーゴを迎えたのは、ギルバートからの激しい叱責だった。
「私の指示を無視して、あの小娘を勝手に使ったな」
「そ、それは……」
ヴァーゴは必死に言い訳を探した。
だがそれよりもギルバートの追及の方が早かった。
「おまけに研究所の管理もまともにできず、高位の魔法士たちを酷使するとはなんたることだ。
お前の無能さには反吐が出る」
「ひ、一言の弁明もございません、お許しください、殿下……!」
青ざめて平伏するヴァーゴを、ギルバートは冷たい目で見下ろし、パチンと指を鳴らした。
「連れて行け」
ヴァーゴが引きずり込まれたのは、窓一つない薄暗い『仕置き部屋』だった。
――ビシィッ!
激しい風切り音と共に、鞭が容赦なく何度もヴァーゴの背中に打ち付けられる。
「ぎゃああああっ! ご、ご容赦を、殿下ぁーっ!」
魔石に吸われた魔力が戻らず、ただでさえ本調子ではないヴァーゴは、打ち据えられるたび、あられもなく無様に床を転げ回って涙と鼻水を撒き散らした。
ヴァーゴが虫の息になったところで、ギルバートは何事もなかったかのように鞭を投げ捨て、優雅にハンカチで手を拭った。
「……ところで、ヴァーゴ。お前が交代制とやらを導入したおかげで、魔石の納品効率が跳ね上がったそうだな。
そこだけは評価してやる。罰のついでだ、一つだけ希望を叶えてやろう」
ヴァーゴとしては、喉から手が出るほど「人員の増加」を願い出たかった。
だが、彼の脳裏にメイシーの強く険しいまなざしが浮かぶ。
(あ、あのクソガキの要求を無視したら、また何をやらかすか……)
再び問題を起こされたら、今度こそ王子に『処分』されかねない。
我が身の安全を守るため、ヴァーゴは震える声で必死に絞り出した。
「……恐れながら申し上げます。
あの小娘に『外出許可』をいただけないでしょうか……」
「外出許可?」
ギルバートは意外そうな顔をした。
「はっ。父母に会うため週一度王宮の外に行きたいと……」
「ふん、まだ母親の乳が恋しいか、小娘め」
ギルバートは「ふむ」と考えた。
クロエからの報告では、今のところメイシーにはこれといった脅威はなさそうだった。
少しくらい温情を与えておくのもいいだろう。
「よし。月一回だけ外出を許可してやる。ただし条件付きだ」
「条件とは……」
「親であろうとなんであろうと、王宮内でのことは一切話さないこと。
クロエを必ず同行させること。もし破れば許可は取り消しだ」
「ありがとうございます。アルカイドの結界はいかがいたしましょう」
ギルバートは不快そうな表情を浮かべた。
「仕方ない、奴も同行させろ」
◇◇◇
――数日後、魔法研究所。
所長室に呼ばれていくと、ヴァーゴがより一層げっそりした顔で「月一回の外出許可」が下りたことを伝えてくれた。
「やった!」
私は小躍りした。
「所長さん、ありがとう。あんたもやるときゃやるねぇ」
満面の笑みを浮かべる私に、ヴァーゴは心底うんざりしたような顔をしながら、手でシッシと追い払う仕草をした。
「サッサと仕事に行け」
私は大喜びで、もらったキャンディやお小遣いを鞄に詰め込み、初めての外出日を今か今かと指折り数え始めた。
――――――――――
そんなある日のこと。
私が作業を終えて地下の作業部屋から、廊下を歩いて帰ろうとした時のことだった。
前方から、数人の厳めしい魔法士たちに囲まれるようにして、一人の少年が足取り重く歩いてくるのが見えた。
前にもここですれ違った銀色の少年『シルバー』だ。
さらに痩せこけ、その顔色は酷く悪かった。
一瞬こちらを見やったその目は、感情の抜け落ちた暗い鈍色。
この薄暗い研究所の地下で、一体何をさせられているんだろう。
ただの『測定不能のクソガキ』としてこき使われている私とは、また違うようだ。
――底の知れない嫌な予感が、私の胸の奥でざわざわと波立った。
◇◇◇
『金と銀が交錯する時、災厄に備えよ』
王城の一室、豪華なドレスを身に纏った少女が不安そうな表情で窓の外に目を向けた。
その瞳の色は、『青紫』。
王族からも滅多に発現しない、星詠みの色。
何不自由ない生活を送っているはずの彼女は、魔法研究所の方向を見やり、身体を小刻みに震わせていた。




