妖しく甘美な紫魔法
物置小屋をこっそり抜け出したクロエは、夜明けを待って、ギルバートの執務室の前に控えていた。
荒い足音を立てながら近づいてきたギルバートは、見るからに不機嫌そうだ。
「何だ、こんな朝早くから。くだらない報告だったら許さんぞ」
「申し訳ございません。少しでも早くと思いまして……」
クロエは深く頭を垂れたが、ギルバートは無視して執務室の中に入っていった。
豪華なソファにドサっと座ると、跪いて控えたクロエに顎をしゃくって見せる。
「話せ」
「はい。あの小娘ですが、やはり尋常ではないと思われます。
誰も知らない未知の調味料を作り出し、警護騎士であるアルカイドをも完全に手懐けています。
……それにあの料理のおいしいことと言ったら……」
報告の途中だというのに、クロエは昨夜食べた、あのホクホクとした肉じゃがの味を思い出してしまい、ふっと夢見心地な、うっとりとした表情を浮かべた。
その様子を、ギルバートは冷酷な紫色の瞳で見つめていた。
(……こいつ、緑の魔力が戻りつつあるな)
自分がクロエに施した精神支配の術式の奥底に、ほんのわずかな「綻び」が生じていることに気づいたのだ。
(森のせいか……?)
ギルバートは音もなく立ち上がると、クロエの背後に近づき、容赦なくグイッとこめかみを掴んだ。
「あ……」
クロエの身体が微かに震える。
ギルバートの冷たい指先に触れられたはずなのに、なぜか彼女の脳裏を一瞬よぎったのは――
メイシーに優しく髪を撫でられた時の手の温かさや、森の優しい緑の光たちだった。
「クロエ、私の目を見ろ」
ギルバートの細い指先が、想像もつかないほど強い力で頭を押さえつける。
抗うこともできず上向きにされたクロエは、妖しい紫に輝くギルバートの瞳に射抜かれた。
(いや……私は、またあの『とんじる』を食べたいと……っ)
必死に抵抗しようとしたクロエの意識の隙間に、ねっとりとした紫の魔力が滑り込む。
ビクン、とクロエの身体が大きく跳ねた。
けれどそれは、恐怖や痛みによるものではなかった。
脳内を直接、甘く、おぞましいほどの濃厚な快感がドロドロと満たしていくような感覚。
思考することを根本から放棄させられる、圧倒的な『恍惚』が彼女を包み込む。
「ギルバート、さま……」
クロエの口元から、うっとりとした、締まりのない笑みがこぼれ落ちた。
メイシーへの小さな好意も、温かくおいしい料理への渇望も、紫の靄が心の奥に押し込めていく。
「どうぞご命令を……」
その瞳に浮かんでいた葛藤は、すでに消えていた。
◇◇◇
魔法研究所の地下。
作業部屋では、ドンヨリとした熱気と、男たちの重苦しい吐息が満ち満ちていた。
「……くそ、もう限界だ……」
青白い顔をした大柄な男が、魔法陣の刻まれた作業台に突っ伏し、荒い息を吐き出している。
彼の目の前にある大きな魔石は、男の魔力を吸い上げて禍々しく輝いていた。
ここに集められているのは、平民からは絶対に現れないとされている魔力量大の男たちだ。
平民でありながら魔力量大と認定された者たちは、『色彩の儀式』を終えた直後、この研究所に連行されてくる。
男たちは、王城や貴族の邸宅で使われる魔道具の動力源――魔石へ、その魔力を注入する作業員として、研究所に一生監禁され、使役させられるのだ。
女たちは王城へ連れていかれ、奴隷として洗濯や掃除、灯りの維持などの下働きや雑用にこき使われる。
作業員の一人が、額の汗を汚れた袖口で乱暴に拭いながら、隣の男に声をかけた。
「おい……この間連れて来られたガキ……魔力量が『特大』だったって言うじゃないか」
「ああ、測定器をぶっ壊したって、魔法士が噂してたな」
「なんでそいつを魔力注入に使わないんだよ」
作業員たちは口々に言い始めた。
「そんだけ魔力があるんなら、俺たちの三倍はいけるぜ」
「だよなぁ。お前らも最近送られてくる魔石の量が異常に多いと思わないか?
このままだと俺たちが干からびちまう。
そんな便利なガキがいるんなら、さっさと連れてきて使わせないと割に合わねえよ」
「それもそうだな。おい、みんなで所長に掛け合ってみようぜ」
疲弊しきった作業員たちは泥のように重くなった身体を引きずるように、ゾロゾロと所長室へと向かった。
「――なにぃ!?」
突然部屋に押し寄せてきた作業員たちの直訴に、ヴァーゴは眉間の深い皺を歪めて怒声を上げた。
「お前ら、平民の分際で誰に向かって口を利いている!
さっさと作業に戻れ!」
ヴァーゴの鋭い一喝に、作業員たちは一様にがっかりとした顔をしながら、肩を落として部屋を出ていった。
バタン、と重い扉が閉まる。
一人残されたヴァーゴは、机の上に山積みにされた『魔力注入待ち魔石一覧』の書類を忌々しげに睨みつけ、大きな音を立てて舌打ちした。
(……チッ。だが、あの連中の言う通り、確かにこのところ回ってくる魔石の量は異常だな)
魔石への魔力注入が追いつかなければ、王宮の維持だけでなく、貴族たちからの突き上げを食らうのはこの自分だ。
しかも、作業員たちの効率は、このところ目に見えて落ちていた。
(……ならば、奴らの言う通り、あのクソガキに魔力注入をすべてやらせればいいのではないか?)
あのクソガキの魔力量は『測定不能』。
ギルバートは飼い殺しにするつもりのようだが、それは少々もったいない。
万が一、魔力が枯渇してそのまま死んだところで、たかが平民のガキ一人、どうということはないだろう。
(わざわざ報告するまでもなかろう)
ヴァーゴの口元が、醜く歪む。
「おい、誰か!」
ヴァーゴは部屋の外の部下を呼びつけると、傲慢な声で命令を下した。
「あのクソガキを警護……いや、監視している騎士に連絡を入れろ。今すぐあのガキをここに連れて来させるんだ」
ヴァーゴはニタリと笑った。




