意志
「――あら、もう出来たの? まだ、昨日の今日のはずだけれど」
その日の昼を過ぎた頃。
楼の最上階に姿を見せた俺に、楽しそうな笑顔で問い掛ける可憐な少女。だが、その言葉とは裏腹に驚いた様子はまるでない。むしろ、俺が来るのを分かっていたという様子で。
「いえ、それはまだ。今日は、姫君にお聞きしたいことがあって参りました」
「聞きたいこと? 何かしら?」
ともあれそう告げると、表情を変えることなく尋ねる姫君。そして、平時とは異なる鼓動を感じつつ徐に言葉を口にする。
「――貴女ですよね? 姫君。丹子を、死に追いやったのは」
しばし、沈黙が支配する。丹子がそう言ったわけではない。そして、確固たる証拠があるわけでもない。なので、俺の言葉は本来であれば赦されざる言葉だろう。だが……それでも、確信はあった。そして――
「ふふっ、やはり分かっていたのね、斎月。ええ、私がお願いしました。いつか斎月にここを出ていくと伝えられたら、その直前に貴女自身の生命を絶つようにと。義理堅い貴方のことだから、お世話になった丹子には必ず事前に伝えていくことは分かっていましたから」
「……そう、ですか」
俺の問いが何かを分かっていたのだろう、まるで驚く様子もなく、虫も殺さぬような笑顔で答える姫君。そのあまりにも無邪気な笑顔に、ただでさえ怖ろしいその言葉がよりいっそう怖ろしく感じられる。人間とは、ここまで表情と言葉を乖離させられるものなのか。
「さて、余談はこのくらいにして――今日も、お仕事に精を出してね? 斎月」
戦慄の最中、尚も可憐な笑顔で告げる姫君。だが、戦慄と共に――いや、そんなものを遥かに越える別の感情が心の内を支配する。……こんな場所、一刻も早く去ってしまいたい。こんな狂った女の言うことを聞く道理など、いったいどこにある。そもそも、どうして俺は今の今までここにいた? 俺がもっと早く――あいつが俺の世話をする前に出ていってしまえば、あいつも死ぬことはなかったんじゃないか?
……ああ、分かっている。全てが、もう遅い。俺のせいで、あいつは死んだ。ならば、贖罪……などというのも烏滸がましいが、せめて筆を置くのが――今まで積み重ねてきたことを全て捨ててしまうのが、俺のすべきことではないか。
なのに、俺の手は描き始めた。俺の意志に背くように――なのに、明確に意志を以て描き始めた。どれほど時間が経ったのだろうか、すっかり夕暮れになった頃――俺の前には、見たこともないほどに禍々しい可憐な少女がこちらに微笑みかけていた。




