03*俺と偶然
コツ、コツ、コツ……
ハイヒールの音が軽快に響く。
カッカッカッカッ……
早足で通り過ぎていく人がいる。
人の行き交うこの駅で、いろんなペースの足音を聞く。
――静かにベンチに座る僕はコーヒーをすすると、目を閉じてゆっくりゆっくり味わった。
仕事帰りの一杯は、僕のささやかな習慣だ。まあ、一杯といったって自販機のコーヒー。笑えるくらいリーズナブルで、財布のヒモも麻痺してしまうけど。
あまり人影のない休憩室の隅で、今日も早速ボタンを押す。ヴーンというファンの音と同時にガシャンと缶が落とされた。
この駅の、このコーヒー。缶コーヒーにも、少しばかりこだわりがあった。この味は他の商品では味わえない。さらにはこの品を置いた自販機は、ここ鳴浜駅にしか存在しない。
という訳で僕は毎日、この駅でこのコーヒーを飲んで帰るのだ。
この鳴浜駅は、僕が昔住んでいた家に近い。今ではここから8駅離れた春ヶ台駅の近くで一人暮らしをしているが、以前はこの近くで家族と暮らしていた。幼い頃によく利用していたので、思い出もいくつかある。
小学生の頃、家出して電車に乗ったら帰り道が分からなくなって、泣きながら家に電話したのはこの駅だった。中学の頃、初めてできた彼女に振られたのもこの駅だ。高校生になって、学校へ行く途中に財布を落としていったこともあった。
……どれも決していい思い出ではないが。まあ、良くも悪くも、思い出は思い出。今となれば全てが笑い話なのである。
だけど……。ただ一つだけ、割り切れない思い出もあった。
高校三年生の冬、僕はこの場所で、大好きな人を傷つけた。本当は、彼女を忘れるためにしたことだった。だけど傷つけてしまったことへのショックはあまりに大きすぎて、その思い出はずっと心に残ってしまった。彼女への想いとショックを、僕は癒すことも切り捨てることもできずに、ただ傷として自分の中に抱えて生きてきたのだった。
そんな僕もいつしか大学を出て社会人になって。そしてここは会社からの帰り道に立ち寄れる駅になった。
いつもの駅の、いつものベンチ。
自販機の横には小さなベンチがある。そこが僕の定位置だった。
――と、ここまでは何もかもが普段通りだったのだが、ベンチに腰掛けようとかがんだその時、何か見慣れないモノが目の前をよぎった。
「ん?」
白いボディーに控えめな飾りつけのそれは、女性の携帯電話だと思う。まったく、こんな所に落としていくなんて個人情報の流出もいいところだ。
僕はそいつを手に取ると、コーヒーをぐいっと一気に飲み干して改札横の窓口まで向かった。いくらなんでも放っておくほどの薄情者ではないつもりである。
あいにく、駅員の姿は見えなかった。
「ったく、しょうがねぇなぁ」
僕は窓口とケータイを交互に見やった。
「……持ち主さん、失礼します」
僕はなぜか電話に一礼したあと、仕方なくそいつを開き、とりあえずプロフィールページを捜してみた。自宅か職場に連絡してやれば安心するだろう。センターキーを押すと、メニューからプロフィールが立ち上がった。
するとそこには――
「……嘘だろ」
一番に目についた持ち主の名前を見て、僕は凍りついた。一瞬、もと落ちていた場所に戻そうかとすら思った。
まさかの展開。
――持ち主の彼女は、あの日傷つけた大好きな人だった。
【相原 楓:アイハラ カエデ】
間違いない、あの『楓』だ。小学生の頃、妹のように可愛がっていたあいつなんだ。
僕はケータイから目が離せないまま、少しの間棒立ちになっていた。
届けることはできない。逢ってしまったら今度こそ僕は何をしてしまうか分からないから。
今までずっと心に秘めてきた想いだって、今さら彼女に届くはずもない。惨めになるだけだ。
そんな凍てついた僕の手の中のケータイは、まもなく鳴った。
『その電話、あたしのなんです!』
電話口から聞こえるあわてた、でも綺麗に澄んだ声に、人違いであることを祈る。幼い日のあの『楓』が、ここまでの娘になることは僕には考えられない。
『助かります! 拾っていただいて、ありがとうございました』
「……どういたしまして」
僕が僕だと気づかれないように慎重に話したために、応対が少し無愛想になってしまった。口数を減らし、なるべく口を開かないようにする。
僕はこいつと違って成長期でも何でもないし、声で分かってしまうだろうから。僕だと分かったら、彼女も取りに来にくいに決まっている。
『すぐにうかがいます。本当にありがとうございました!』
電話口の向こうの彼女は嬉しそうに礼を言うと、さっさと電話を切ってしまった。
「あ、あの……」
――俺のこと、覚えていてくれてますか? 最後に一言だけ、そう聞いておきたかったかったけど。
過去は過去。楓に逢ってはいけない。今の彼女の邪魔をしてはいけない。僕はそう思う。
いや、自分にそう言い聞かせた。
「忘れるんだ」――今日のことも、あの日のことも。
僕は再び歩き出した。




