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02*あたしと彼と ココロの傷

 あれはたしか4年前、ちょうど今日みたいな寒い日だった。

隣の家に住んでいた五十嵐 龍という高校生が、進学のために下宿先へ引っ越していった。


――彼はたぶん、あたしの初恋の人。


 幼い頃からずっと、あたしを妹のように可愛がってくれる龍のことを『龍ちゃん』と呼んで慕っていた。

彼に対する気持ちは大きくなるばかりで、側にいるだけで幸せだと思えた。

 それがある時、それまでに感じたことのないような、訳の分からないもどかしさに襲われたのをきっかけに、恐くて近づけなくなってしまった。まだその時のあたしには、その感覚が何なのかが解らなかったから。

 そのうち中学生になったあたしは、めっきり彼に会うこともなくなった。それどころか、自分から彼を避けるようにさえなっていた。面と向かったときのあの気まずさというか 哀しい感覚を、あたしはどうしても好きになれなかった。

――だから彼が引っ越してしまうことも、前日まで知らなかったのだった。


 窓の外のなんとなく慌ただしい様子を不思議に思って母に訊ねてみると、

「ああ。お隣の龍ちゃん、明日お引っ越しするのよ」 と返ってきた。

目の前が真っ白になった。頭がグラグラして、倒れるんじゃないかと思った。避けるようになったことを、遅ればせながら後悔した。

「……どこへ?」 震える声で訊ねると、

「そこまでは分からないけど……、」 母は玄関に置いてあったメモ帳を持ち出してきた。

 一番上の紙には、電車の路線らしきものと駅の名前が書かれていた。その上を何度もペンがたどっていて、誰かに道を説明したような跡がある。

「昨日 隣の奥さんにね、春ヶ台への行き方を教えたのよ」

確かにその紙には、ここから一番近い『鳴浜駅』と『春ヶ台駅』の場所が書かれていた。星城線で少し行ったところにその駅はある。

「まったく龍ちゃんったら、下宿に来られるのを嫌がって場所を教えてくれないらしくてね」ふふ、と笑って母は続けた。「だから春ヶ台の辺りなんじゃないかしら」


 その夜は彼が気になって眠れなかった。最後の日くらいはどうしても会いに行きたかった。でももしかしたら自分が寝ている間に出発してしまうんじゃないかとか、本当は春ヶ台の近くなんかじゃないんじゃないかとか、そんなことばかりが気になって、長い長い夜はぼーっと天井を眺めている間に過ぎていった。

 彼が家を出ていったのは正午近くだった。彼は電車で身の回りの細かいものを運び、大きな荷物は彼のお父さんが車で運んでいった。高校の友達らしい人たちが、身の回り品を運ぶのを手伝いに来ていた。

 彼が家を出て行く様子を、あたしは自分の部屋から眺めていた。行くべきか行かないべきか。この気持ちは、伝えるべきか封印するべきか。

正しい答えなど解らなかった。でも最後に一つだけ、ほんの一言だけ彼に伝えておきたい事があった。


――龍ちゃん、ありがとう。


 いつもあたしを可愛がってくれた。

「楓、こっちおいで」と、あたしを本当の妹のように抱きしめてくれていた。そんな龍ちゃんはもういなくなってしまうけれど、あたしは本当に幸せだった。

それだけでも伝えたかった。……なのに。


――彼は行ってしまった。


 あのとき改札口の目の前で、あたしは思い切って彼を呼んだ。

「龍ちゃんっ!」

楽しそうにしゃべっていた彼やその友達が、いっせいにこちらを振り向く。

「誰だよ、あれ」

「おまえの妹?」

一瞬静まった集団が、また少しざわつく。

 大きく息を吸って、「龍ちゃん、あ」りがとう、と言おうとしたそのとき――、


「さあ? 知らねえ。人違いじゃねえの」

彼はあたしと目も合わせずに、くるりと後ろを向いて去っていった。


 彼らが行ってしまってからも、あたしは茫然とその場に立ちつくしていた。

「知らねえ」その言葉はあたしの心を粉々に引き裂いて、そして消えた。

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