第6話 ヒーラー:ファティマ(2)
アルセリオがいなくなってから、数日が経った。
私は教会で過ごしていた。朝になれば祈りを捧げ、傷ついた人たちに治癒魔法を施す。教会の人たちは以前と変わらず、私に優しくしてくれた。
それなのに、何をしていても落ち着かなかった。
礼拝堂の扉が開くたびに顔を上げる。廊下から足音が聞こえると、アルセリオが来たのではないかと期待してしまう。けれど、そこにいるのは別の信徒や他のヒーラーだった。
「ファティマ様、お願いします」
声をかけられ、私は慌てて立ち上がった。
「はい。分かりました」
治療室には、治療を必要とする騎士が運ばれてきていた。ダンジョンで負傷したらしい。腕には切り傷があり、額にも血がにじんでいる。
「よろしくお願いします」
「はい。お任せください」
私は両手をかざし、治癒魔法を使った。淡い光が傷口を包み、少しずつ傷が塞がっていく。やがて血は止まり、騎士の顔にも安心した様子が戻った。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ。お大事になさってください」
いつも通りのやり取りだった。騎士が立ち上がり、治療室から出ていく。私はその背中を見送ったあと、自分の手を見つめた。
あのとき、私は彼のそばにいながら治せなかった。アルセリオは傷ついていた。大きな魔物の攻撃を受け、壁に叩きつけられ、それでも私たちを逃がそうとしていた。
私はヒーラー。傷ついた仲間を癒やすため、一緒にいたはずだった。それなのに、何もできなかった。
「……私のせいで、アルセリオは」
声に出すと、目の奥が熱くなった。
アルセリオの傷を治すために走ればよかった。彼が私たちを逃がそうとしたとき、せめて一緒に残ると言えばよかった。その言葉すら出なかった。それはつまり、私が残るという意思を持っていなかったことの証明。アルセリオを見捨てたのと同じこと。
後悔しても、何も変わらない。それでも、考えるのをやめられなかった。
私は自分の腕を見た。傷ひとつない、いつも通りの腕だった。
「……どうして」
アルセリオはあんなに傷ついたのに。どうして私は、こんなに綺麗なままなのだろう。私はハサミを手に取り、自分の腕に傷をつけた。痛みが走り、赤い血が肌ににじむ。
すぐに治癒魔法を使った。傷が塞がる。私は、もう一度同じことをした。また治す。何度も繰り返した。
目から涙が落ちた。
彼の傷を治したかった。痛がる彼のそばにいて、大丈夫と声をかけたかった。いつもみたいに笑って、無理しないでと言いたかった。なのに、私は何もできなかった。
「ごめんなさい……。痛かったよね」
誰もいない治療室で、私は何度も謝った。
その日の夕方、私は神父に呼び出された。
教会の奥にあるその部屋には、机と椅子が置かれている。神父は私を見ると、手元の書類を閉じた。
「ファティマ。アルセリオの件ですが、彼は何者かの手によって移動した形跡があることが分かりました」
「えっ!? アルセリオが生きてるってことですか! アルセリオはどこに!」
「そこまでは。ただそれを伝えておきたかっただけです」
私は机に手をついた。
「神父様、私にできることなら何でもします。私の身体がどうなっても構いません。だから……、あれをやってください」
声が詰まった。
「お願いします!」
神父はしばらく黙っていた。
「ファティマ。あなたは聖女候補です。自分の身体を粗末にしてはいけません」
「でも、アルセリオは私のせいで――」
「彼のことは私たちに任せなさい。あなたは自分の務めを果たすのです」
私は返事をしなかった。神父にとって、私は聖女候補。教会に必要なヒーラー。
夜になっても眠れなかった。
私は部屋を出て、礼拝堂へ向かった。誰もいない礼拝堂は静かで、祭壇の上には神像が置かれている。私はいつも通り、その前で膝をついた。
「神様。どうか、アルセリオを守ってください」
何度も教えられた祈りの言葉を口にする。
「どうか、無事でありますように。どうか、苦しんでいませんように」
彼がいなくなってから、何度も祈った。けれど……。
「……どうしてですか? どうして神は、アルセリオを助けてくれなかったんですか?」
神像は何も答えない。
「私はずっと祈ってきました。教えられた通りに治癒をして、聖女になるために頑張ってきました。今でもそうです」
声が震えた。
「なのに、どうしてアルセリオを助けてくれなかったんですか!」
私は立ち上がり、祭壇の近くに置かれていた花瓶を掴んだ。床に叩きつけると、乾いた音が礼拝堂に響いた。
花が散らばる。
それでも怒りは消えなかった。私は椅子を押し倒し、祭壇の装飾品を床へ落とした。普段なら、そんなことをする自分を想像することさえできなかった。
「返してください……」
神像を見上げる。
「アルセリオを返してください!」
私は神像に近づき、両手を伸ばした。壊してしまいたかった。祈り続けてきた神様が、何もしてくれなかったのなら。私が信じてきたものに何の意味もなかったのなら。こんなもの、なくなってしまえばいい。
けれど、最後のところで手が止まった。
壊したところで、アルセリオは帰ってこない。分かっていた。私はその場に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
床に散らばった花を拾おうとした。けれど、涙が落ちて手が止まる。
「ごめんなさい……」
神様に謝っているのか、アルセリオに謝っているのか、自分でも分からなかった。
ある日、私は部屋に戻ってから、布や古い衣服を集め始めた。アルセリオの姿を思い出しながら、少しずつ形を作っていく。髪はこんな感じで、服はいつも着ていたものに似せる。顔を作るのは難しかったけれど、何度もやり直した。
ようやく完成した人形を、私は椅子に座らせた。
「おはようございます、アルセリオ。今日は何を話してくれるんですか?」
もちろん、返事はない。
私は向かいの椅子に座り、いつものように話しかけた。
「今日は怪我をした騎士の方を治療したんですよ。ありがとうって褒められました」
人形は何も言わない。
「アルセリオなら、きっとよくやったって言ってくれますよね」
私は笑ってみせた。
「そうですよね。いつも、そう言ってくれましたから」
食事の時間には、人形の前にも食器を置いた。アルセリオが好きだったものを用意して、向かい合って食べた。
「今度、一緒に町へ行きましょうね」
人形は何も答えない。
「約束しましたよね?」
私は人形の顔を見つめた。
「また来るって、言ってくれましたよね?」
答えはなかった。それでも、私は話し続けた。
ある日、部屋に入ってきた教会の人が人形を見つけた。
「ファティマ様、これは何ですか?」
「アルセリオです」
「……え?」
「アルセリオですよ。私の友達で、パーティーの仲間です」
その人は困った顔をした。
「これは人形でしょう。片づけておきますね」
「触らないでください!」
私は人形を抱きしめた。
「アルセリオに触らないで!」
「ファティマ様、落ち着いてください」
「連れていかないで!」
声が大きくなった。自分でも驚くほど必死に、人形を抱きしめていた。相手が手を引っ込めると、私はようやく力を緩めた。
「……すみません」
人形の服を整える。
「大丈夫ですよ。もう誰にも触らせませんからね。ねえ、アルセリオ」




