第一話 いつもの朝に
最初に聞こえたのは、何かが焦げる音だった。
続いて、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえた。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、寝台の上に細長い線を落としている。
エトは目を開けた。
「……ん?」
もう一度、焦げる音がした。
じゅう、というより、じりじりと何かが焼け尽くされていくような音だった。
エトはしばらく天井を眺め、それからゆっくりと起き上がった。
「……またかな」
寝ぼけた頭でそう呟き、部屋を出る。
廊下を進むにつれ、香ばしいとは到底呼べない匂いが強くなっていった。
食堂の扉を開けると、そこには見慣れた光景が広がっていた。
「……何をしているんですか、ゼファル」
「見れば分かる。朝食を作っている」
ゼファルは至って真剣だった。
黒い髪の隙間から伸びる黒い角。その深紅の瞳は、目の前の鍋を厳しく見据えている。
鍋の中では、かつて何かの食材だったらしいものが、黒々とした塊へと変貌を遂げていた。
「それは朝食というより、炭では……?」
「火加減は間違えていない」
「食材の方が負けてるんだよなぁ」
向かいの席で、ラグナが腹を抱えて笑った。
深い赤色の髪の間から、狼の耳がぴんと立っている。笑うたびに揺れる尻尾まで、面白くて仕方がないと言っているようだった。
「ラグナ」
ゼファルが顔を上げた。
「なんだよ」
「お前が今朝の食材を選んだのだったな」
「……あ」
ラグナの笑顔が止まった。
「責任を持って食べろ」
「いや待て、食材を選んだだけだろ!? 調理したのはゼファルだろうが!」
「食べ物を粗末にするなと言っている」
「その理屈でこれを食わせるのは無理があるって!」
「二人とも、朝から騒がないの」
澄んだ声が食堂に響いた。
セレスティアが厨房から顔を出す。青い髪の後ろでは、同じ色の翼がゆったりと揺れていた。
「ゼファル、もういいから。あとは私が作るわ」
「……すまない」
ゼファルはわずかに眉を寄せた。
「謝らなくていいのよ。得意なことは人それぞれでしょう?」
「その言葉、俺にも適用してくれない?」
ラグナがすかさず手を挙げた。
「あなたはまず、厨房でつまみ食いをしないところから始めましょうか」
「なんで俺だけ!?」
「さっき、焼く前のベーコンが減っていたのだけれど」
「……気のせいじゃないか?」
「ラグナ」
「はい」
ラグナは素直に座り直した。
そのやり取りを眺めながら、エトは小さく笑った。
この家では、朝になると誰かが起きて、誰かが食事を作り、誰かが叱られる。
だいたい、いつもそんな調子だった。
*
朝食ができる頃には、七人全員が食堂に揃っていた。
深緑色の髪が綺麗な双子の弟、セイルは人数分の飲み物を用意し、双子の姉、ネリシアは若葉色の瞳を輝かせて焼き菓子を皿に並べている。陽光のような金髪のレイヴェルは窓際の席で本を開いていたが、セレスティアに声をかけられると、栞を挟んで本を閉じた。
「レイヴェル、冷めないうちに食べてね」
「うん」
短く答えた彼の隣に、エトが腰を下ろす。
「何を読んでたの?」
「古い魔物の記録」
「朝から?」
「朝だから」
「……そっか」
エトは納得したように頷いた。
納得した理由は、本人にもよく分かっていなかった。
「エト、それで納得するの?」
ネリシアが笑いながら聞いた。
「レイヴェルがそう言うなら、そうなんじゃないかな」
「エトはレイヴェルに甘いねえ」
「そう?」
「そうよ」
セレスティアが食事を置きながら、柔らかく笑った。
「ほら、みんな。いただきましょう」
七人の声が重なった。
「いただきます」
食卓には焼きたてのパン、野菜のスープ、卵料理、それにネリシアが選んだ甘い焼き菓子が並んでいた。
ゼファルは黙々と食べている。自分の料理が食卓に並ばなかったことについて、特に不満を口にする様子はなかった。
ただし、ラグナが焼き菓子を二つ目に取ろうとした瞬間だけは、鋭い視線を向けた。
「お前は朝から食べすぎだ」
「成長期なんだよ」
「お前の年齢で何が成長期だ」
「心が成長してんの!」
「それなら、もう少し落ち着きを覚えろ」
「ゼファルって、ほんとラグナに厳しいよねえ」
ネリシアが楽しそうに言った。
「期待しているからだ」
ゼファルは、さも当然のように答えた。
ラグナは一瞬だけ口を閉じた。
それから、照れ隠しのように焼き菓子を頬張った。
「……だったら、もっと優しく言えよ」
「食べながら話すな」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
「はい!」
セイルが静かに息を吐いた。
「朝食くらい、落ち着いて食べられないのかな」
「セイルも大変だねえ。毎日こんな騒がしい食卓で」
「ネリシア。君も十分、騒がしい側だよ」
「えー、私はみんなを楽しませてるだけだもん」
ネリシアは口を尖らせたが、すぐに笑った。
エトはスープを一口飲み、窓の外へ目を向けた。
庭の木々が風に揺れている。
食器の触れ合う音。誰かの笑い声。セレスティアがラグナをたしなめる声。
どれも、いつもと変わらない。
エトはそれを特別なことだとは思わなかった。
ただ、朝ご飯はおいしい方がいいし、みんなで食べる方が楽しい。
それだけだった。
*
「エト、今日は買い物に行くんだけど、一緒にどう?」
食事を終えたあと、ネリシアが声をかけてきた。
「買い物?」
「うん。セレスティアに頼まれたものもあるし、私もちょっと見たいものがあって」
「いいよ。ボクも外に出たかったし」
「決まり!」
ネリシアは嬉しそうにエトの腕を取った。
屋敷を出ると、街には朝の活気が満ちていた。
店先には色とりどりの果物が並び、荷車を引く人々が行き交っている。通りの向こうでは、獣族の子どもたちが追いかけっこをしていた。頭の上で揺れる耳も、後ろで跳ねる尻尾も、走るたびに忙しそうだった。
エトは通りを歩きながら、店先を一つずつ眺めていく。
「何か欲しいものでもあるの?」
「うーん……今のところはないかな」
「じゃあ、今日は私の買い物に付き合ってもらおうっと」
「ネリシアの買い物って、長いんだよね」
「女の子には、じっくり選びたいものがあるのです」
「ボクも女の子なんだけど」
「知ってるよ。だから誘ったんじゃない」
ネリシアは悪戯っぽく笑った。
エトは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに笑い返した。
食材を買い、日用品を選び、途中で甘いものを食べる。
ネリシアは目についたものを片っ端から眺めていたが、エトはどちらかというと、隣を歩きながら街の様子を見ている方が楽しかった。
そんなときだった。
小さな雑貨店の店先に、星の模様が入った栞が並んでいるのが目に留まった。
淡い水色の地に、小さな星が散りばめられている。
派手ではない。けれど、光の当たり方によって、星の模様がほんの少しだけ輝いて見えた。
「……これ、いいな」
エトは足を止めた。
「栞?」
「うん」
「本を読むのはレイヴェルだから、あの子への贈り物?」
「……どうして分かったの?」
「エトが自分用に買うものって、もうちょっと変わったものが多いから」
「変わったものって何?」
「この前、妙な形の石を買ってなかった?」
「あれは、形が面白かったんだよ」
「ほらね」
ネリシアはくすくすと笑った。
エトは栞を手に取り、裏返したり、光に透かしたりして眺めた。
「レイヴェル、こういうの好きかな」
「好きかどうかは、あの子に聞いてみないと分からないね」
「……そっか」
「でも、エトが選んだものなら、きっと喜ぶんじゃない?」
エトは少し考え、それから栞を店主のところへ持っていった。
自分のために何かを買うときよりも、ずっと迷わなかった。
*
屋敷に戻ると、セレスティアが厨房で夕食の準備を始めていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。買い物はどうだった?」
「楽しかったよ。あと、これ」
エトは買ってきた包みを見せた。
「レイヴェルへの贈り物?」
「うん。栞」
「素敵ね。きっと喜ぶわ」
セレスティアは微笑み、エトの頭をそっと撫でた。
「……セレスティア、ボク、もう子どもじゃないよ」
「知っているわ」
「だったら……」
「それでも、撫でたいときがあるの」
「……むう」
エトは不満そうな顔をしたものの、逃げようとはしなかった。
その日の夕食は、野菜と肉を煮込んだ温かな料理だった。
食卓には、朝と同じように七人が集まっている。
ラグナがセレスティアの料理を褒め、ネリシアが今日の買い物について話し、セイルがそれを聞きながら静かに食べる。ゼファルは明日の訓練の予定を確認し、レイヴェルは本の続きを読みたいのか、時折、食卓の隅に置いた本へ視線を向けていた。
「レイヴェル」
エトが声をかけた。
「これ、あげる」
差し出したのは、淡い水色の栞だった。
レイヴェルはそれを受け取り、表と裏を確かめた。
「……栞?」
「うん。街で見つけたんだ。星の模様がきれいだったから」
レイヴェルは栞をしばらく眺めていた。
そして、ほんのわずかに目元を和らげた。
「ありがとう。大切に使う」
「どういたしまして」
エトは満足そうに笑った。
「よかったねえ、レイヴェル。エトからの贈り物だよ?」
「分かってる」
「毎日使わないと、エトが寂しがっちゃうかも」
「ネリシア」
セイルがたしなめるように名前を呼んだ。
「冗談だよ、冗談」
ネリシアは悪びれもせず笑った。
レイヴェルは栞を本に挟み、静かに閉じた。
「今度、これを使って読もうと思う」
「うん!」
エトは嬉しそうに頷いた。
やがて食事が終わり、食器が片づけられ、誰かが明日の予定を話し始める。
いつもの夜だった。
窓の外には星が瞬いている。
エトは食堂の椅子に座ったまま、みんなの話に耳を傾けていた。
明日は訓練がある。
その次には、任務が入るかもしれない。
面倒なこともあるだろうし、ラグナがまたセレスティアに怒られることもあるだろう。
それでも、朝になればみんな起きてきて、食卓を囲む。
エトはそう思いながら、椅子の背もたれに体を預けた。
「エト、眠いの?」
セイルが尋ねた。
「ちょっとだけ」
「寝るなら部屋に戻った方がいいよ」
「うん。もう少ししたら」
エトは目を閉じた。
食堂では、まだ誰かが笑っていた。
その声を聞きながら、エトはゆっくりと息を吐いた。
今日も一日が終わる。
そして明日も、きっといつもどおりの朝が来る。
少なくとも今は、それを疑う理由など、どこにもなかった。




