破棄された婚約
ヴィオレッタは王宮へと呼ばれます
数日後。
公爵家の屋敷の前に、一台の馬車が停まっていた。
「じゃあ、行ってくるね」
「ええ。気をつけて行ってらっしゃい」
ヴィオレッタは馬車の前でエレオノーラを見送っていた。
今日から二週間。
エレオノーラは公爵領で行われる収穫祭に出席することになっている。
本来なら父か母が向かう予定だったのだが、王都での予定が重なったため、今回はエレオノーラが公爵家の代表として参加することになった。
「お土産、何がいい?」
「別に必要ありませんわ」
「じゃあ適当に買ってくる」
「人の話を聞いていました?」
「聞いてたよ。いらないって言われたから、私が勝手に買ってくるの」
「それでは聞いた意味がありませんわ」
ヴィオレッタが呆れる。
エレオノーラは楽しそうに笑った。
そして馬車へ乗ろうとして――足を止める。
「お姉ちゃん」
「何ですの?」
「本当に大丈夫?」
「何がです?」
「学院のこと」
「…………」
ヴィオレッタは少しだけ黙った。
どうやら先日の一件以来、エレオノーラはかなり心配しているらしい。
「何も問題ありませんわ」
「でも、変な噂いっぱい流れてるじゃん」
「噂は噂です。放っておけばそのうち消えますわ」
「本当に?」
「ええ」
ヴィオレッタは笑った。
「たった二週間でしょう?戻ってくる頃には、きっと皆様も飽きていますわ」
「……ならいいけど」
エレオノーラはまだ納得していないようだった。
「何かあったら、すぐ手紙送ってね」
「分かりました」
「絶対だよ?」
「ええ、絶対です」
「約束だからね」
「心配性ですわね」
「お姉ちゃんのことだから心配してるの」
「はいはい」
ヴィオレッタは妹の背中を押した。
「そろそろ出発しないと到着が遅くなりますわよ」
「分かった。それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
馬車の扉が閉じる。
ゆっくりと走り出した馬車を、ヴィオレッタはしばらく見送った。
窓からエレオノーラが何度も手を振っている。
ヴィオレッタも小さく手を振り返した。
やがて馬車が見えなくなる。
「……まったく」
心配しすぎなのだ。
二週間など、すぐではないか。
ヴィオレッタは屋敷へ戻ろうとする。
その時だった。
「ヴィオレッタ」
屋敷の入口に父が立っていた。
「お父様?」
「支度をしろ」
「支度?」
「これから王宮へ向かう」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「わたくしもですか?」
「ああ」
「何かございましたの?」
「…………」
父はすぐには答えなかった。
「行けば分かる」
それだけ告げて、屋敷の中へ戻っていく。
「……?」
嫌な予感がした。
それから一刻ほど後。
ヴィオレッタは両親とともに王宮を訪れていた。
案内されたのは謁見の間ではない。
王族が重要な話し合いに使用する、小さな会議室だった。
扉が開く。
中へ入ったヴィオレッタは、そこにいる人物を見て足を止めた。
国王アルフォンス。
第一王子レオンハルト。
そして――
「ロザリアさん?」
「…………」
ロザリアがレオンハルトの少し後ろに立っていた。
なぜ彼女が王宮にいるのか。
「来たか」
アルフォンスが低い声で告げる。
「ヴィオレッタ。前へ」
「はい」
ヴィオレッタは言われた通り前へ出た。
「本日呼び出した理由について、心当たりはあるか?」
「いいえ」
「ないと?」
「はい」
アルフォンスの眉が僅かに動く。
「学院での自身の行動についてもか?」
「わたくしの行動?」
「ロザリア嬢への度重なる嫌がらせだ」
「…………」
またその話か。
ヴィオレッタは隣にいる父を見る。
父は何も言わない。
「陛下。以前にも殿下から同様のお話をされましたが、わたくしには嫌がらせをした覚えがございません」
「覚えがない、か」
「はい」
「ならば確認しよう」
アルフォンスが机の上に置かれた書類へ視線を落とす。
「学院の図書館から借りた書物について、ロザリア嬢を人前で叱責した」
「叱責ではありません。本の頁が折られていたため、学院の所有物は大切に扱うよう注意しただけです」
「ロザリアを廊下で睨みつけた」
レオンハルトが続ける。
「睨んでおりません」
「俺とロザリアが話しているところを、何度も監視していたそうだな」
「監視もしておりません」
「では、なぜ見ていた?」
「婚約者が別の女性の腰を抱いていれば、見るくらいはするのではありませんか?」
「転びそうになったロザリアを支えただけだ!」
「存じております。以前も伺いましたから」
「その言い方が――」
「レオンハルト」
アルフォンスが制した。
「今は私が話している」
「……失礼しました」
アルフォンスが再びヴィオレッタを見る。
「そして先日。学院の大階段でロザリア嬢を突き飛ばした」
「それは事実です」
「認めるのだな?」
「当然ですわ。頭上から花瓶が落ちてきたため、助けるために突き飛ばしました」
「本当にそれだけか?」
「他に何があるというのです?」
ヴィオレッタはロザリアを見る。
「ロザリアさん。あなたも覚えていらっしゃるでしょう?」
「…………」
「あなたが立っていた場所へ花瓶が落ちた。違いますか?」
「違いません……」
「でしたら――」
「でも!」
ロザリアが声を上げる。
そして慌てたように口元を押さえた。
「申し訳ありません……」
「構わない」
アルフォンスが言う。
「続けなさい」
「……私は、本当にヴィオレッタ様が助けてくださったのだと思っています」
「ほら」
「ただ……」
ロザリアが俯く。
ヴィオレッタの眉が僅かに動いた。
まただ。
「その『ただ』は何ですの?」
「ヴィオレッタ!」
レオンハルトが声を荒らげる。
「威圧するな!」
「質問しただけです」
「その態度が威圧的だと言っている!」
「では、わたくしはどうやって会話をすればよろしいのです?」
「ヴィオレッタ」
アルフォンスの声が響く。
「今は口を閉じなさい」
「…………」
ヴィオレッタは黙った。
ロザリアが恐る恐る続ける。
「ヴィオレッタ様に突き飛ばされた直後、花瓶が落ちてきました。ですから、助けてくださったのだと思います」
「…………」
「でも……ヴィオレッタ様が花瓶に気づいていたかまでは、私には分かりません」
「なっ……」
ヴィオレッタが言葉を失う。
そこまで言われて、ようやく分かった。
この少女は――
「ロザリアさん」
「はい……」
「あなた……」
何をしているの?
そう尋ねようとして、ヴィオレッタは口を閉じた。
ここで何を言っても、また威圧したと言われるだけだ。
「…………」
「何だ?」
アルフォンスが尋ねる。
「いいえ。何でもございません」
ヴィオレッタは父を見る。
今度こそ何か言ってくれると思った。
幼い頃からヴィオレッタを見てきた父だ。
自分がそのようなことをする人間ではないと知っているはず。
しかし――
「ヴィオレッタ」
「はい、お父様」
「陛下の御前だ。余計な口を挟むな」
「…………」
それだけだった。
「お父様は……」
言いかけて、やめる。
「いえ。申し訳ございません」
ヴィオレッタは前を向いた。
アルフォンスが深く息を吐く。
「ヴィオレッタ。お前が実際にどのような意図を持って行動したのか、今となっては確認のしようがない」
「でしたら――」
「だが」
アルフォンスが言葉を遮る。
「問題は、それだけではない」
「……どういう意味でしょうか?」
「第一王子の婚約者である者が、これほど多くの醜聞を生み、学院内で騒動の中心となっている。その事実自体が問題なのだ」
ヴィオレッタは目を見開いた。
「お待ちください。それは、わたくしが流した噂ではございません」
「分かっている」
「でしたら!」
「王族に求められるものは、正しいか間違っているかだけではない」
アルフォンスの声に感情はなかった。
「国民からどう見えるか。それも王家に連なる者には必要な資質だ」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜか、一人の少年の顔が浮かんだ。
少し前。
大きな荷物を持って王宮を出ていった、第九王子。
ルシオン。
彼もまた――この王に切り捨てられた。
「お前とレオンハルトの婚約については、以前から話し合いを続けていた」
「……以前から?」
初めて聞いた。
ヴィオレッタはレオンハルトを見る。
レオンハルトは堂々と彼女の視線を受け止めた。
「俺から父上に頼んだ」
「…………」
「俺は、お前を妻に迎えるつもりはない」
あまりにもはっきりとした言葉だった。
「そう……ですか」
「ロザリアへの嫌がらせだけが理由ではない。お前のように他人を見下し、自分の正しさを押しつける女を、将来の王妃にはできない」
「わたくしが、他人を見下している?」
「自覚すらないのか?」
「…………」
ヴィオレッタはロザリアを見る。
彼女は悲しそうな顔をしている。
その顔を見た瞬間。
先ほど言いかけた言葉が、もう一度浮かんだ。
あなた、何をしているの?
だが口には出さなかった。
「ヴィオレッタ」
アルフォンスが告げる。
「王家としても、これ以上この婚約を維持することは適切ではないと判断した」
部屋が静まり返る。
「よって――」
ヴィオレッタは真っ直ぐ前を向いた。
「第一王子レオンハルトと、ヴィオレッタ・アーデルハイド公爵令嬢との婚約を、本日をもって解消する」
終わった。
幼い頃から決められていた婚約。
いつか第一王子の妻となり、この国を支える。
そのために学んできた。
礼儀作法。
政治。
経済。
外交。
歴史。
王妃となるために必要だと言われたことは、すべて努力して身につけた。
好きだからではない。
自分に与えられた役目だから。
公爵令嬢として。
未来の王妃として。
ずっと努力してきた。
それが――
今日。
なくなった。
「……承知いたしました」
ヴィオレッタは静かに答えた。
「ヴィオレッタ様……」
ロザリアが心配そうに名前を呼ぶ。
ヴィオレッタは彼女を見る。
「何でしょう?」
「私……こんなことになるなんて思ってなくて……」
「…………」
「本当に、ごめんなさい」
ヴィオレッタはしばらくロザリアを見つめた。
「謝る必要はありませんわ」
「え?」
「婚約を解消すると決めたのは、陛下と殿下ですもの」
「ですが……」
「それとも」
ヴィオレッタが僅かに首を傾げる。
「あなたが婚約を解消させたのですか?」
「ち、違います!」
「でしたら謝る必要はありませんでしょう?」
「…………」
ロザリアは黙った。
「ヴィオレッタ!」
レオンハルトが声を上げる。
「最後までロザリアを責めるつもりか!」
「責めておりません」
「今の言い方のどこが――」
「もう結構ですわ」
「何?」
ヴィオレッタはレオンハルトを見る。
「殿下とわたくしは、もう婚約者ではないのでしょう?」
「…………」
「でしたら、わたくしが誰とどのように話そうと、殿下に口を出される理由もございませんわ」
「お前……!」
ヴィオレッタはアルフォンスへ向き直った。
そして美しく頭を下げる。
「陛下。これまで長きにわたり、第一王子殿下の婚約者という立場を与えていただき、ありがとうございました」
「……ああ」
「婚約解消の件、謹んでお受けいたします」
背筋を伸ばす。
泣かない。
ここで泣くものか。
「それでは、失礼いたします」
踵を返す。
扉へ向かう途中、父の横を通った。
「ヴィオレッタ」
小さな声で呼ばれる。
足を止める。
「帰ったら話がある」
「…………」
ヴィオレッタは父を見る。
もしかしたら。
今度こそ。
屋敷へ戻れば、自分の話を聞いてくれるのかもしれない。
「分かりました、お父様」
ヴィオレッタはそれだけ答え、部屋を出た。
長い廊下を歩く。
誰もいなくなったところで、胸元を強く握った。
「…………」
苦しい。
それでも足は止めない。
「大丈夫ですわ」
自分へ言い聞かせる。
「婚約がなくなっただけですもの」
家族がいる。
父がいる。
母がいる。
エレオノーラだっている。
自分には帰る家がある。
「……大丈夫」
ヴィオレッタは顔を上げた。
まだ知らなかった。
王宮で失ったものが、婚約だけでは終わらないことを。
そして。
今、自分が帰ろうとしているその家からも――
間もなく、ヴィオレッタの居場所がなくなることを。
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