善意と悪意
ヴィオレッタはロザリアを助けるが……
翌日の放課後。
ヴィオレッタは学院の大階段を一人で下りていた。
「…………」
最近、学院の空気がおかしい。
廊下を歩けば視線を感じる。
教室へ入れば、それまで話していた生徒たちが急に静かになる。
そして今日は、昼食に誘った友人から用事があると断られた。
一人なら偶然だと思える。
だが二人、三人と続けば、さすがにヴィオレッタにも分かる。
避けられている。
「わたくし、何かしましたかしら……」
思い当たることがない。
レオンハルトからロザリアへの嫌がらせについて問い詰められたが、あれも結局何をしたのかよく分からなかった。
学院の本を大切にするよう注意した。
目が合った。
レオンハルトと一緒にいるところを見た。
たったそれだけのことだ。
「まさか、本当にあれが原因ではありませんわよね?」
だとしたら、あまりにも馬鹿馬鹿しい。
そんなことを考えながら階段を下りていると、下から数人の生徒が上がってきた。
その中にロザリアを見つける。
「…………」
「あ……」
ロザリアもヴィオレッタに気づいた。
その瞬間、びくりと身体を震わせる。
そして一歩、横へ退いた。
まるで道を譲るというより、ヴィオレッタから逃げるように。
「…………」
ヴィオレッタの眉が寄る。
またこれだ。
「ロザリアさん」
「は、はい!」
「なぜそのように怯えているのですか?」
「怯えてなんて……」
「では、そのような態度はやめてください」
「ご、ごめんなさい」
「ですから、なぜ謝るのです?」
話しているだけで疲れてくる。
ヴィオレッタはため息をつき、そのまま横を通り過ぎようとした。
その時だった。
ミシッ。
小さな音がした。
「……?」
ヴィオレッタが足を止める。
頭上を見る。
階段の吹き抜けには、大きな装飾花瓶が飾られていた。
壁から張り出した台座の上に置かれている。
その台座が――傾いていた。
「危ない!」
「え?」
花瓶が落ちる。
その真下にいるのはロザリアだった。
考えている時間などなかった。
ヴィオレッタは咄嗟にロザリアの肩を掴んだ。
「きゃっ!」
そのまま強く突き飛ばす。
ロザリアの身体が階段脇の踊り場へ倒れ込んだ。
直後。
ガシャァァン!
巨大な花瓶が、先ほどまでロザリアが立っていた場所へ落下した。
陶器の破片が辺りへ飛び散る。
「な、何!?」
「花瓶が!」
「落ちてきたぞ!」
周囲が騒然となる。
「ロザリアさん!」
ヴィオレッタはすぐに駆け寄った。
「怪我はありませんか?」
「…………」
ロザリアは床へ座り込んだまま、落ちた花瓶を見つめている。
顔が青ざめていた。
本当に危なかった。
あと少し遅れていれば、頭を直撃していたかもしれない。
「立てます?」
「は、はい……」
ヴィオレッタが手を差し出す。
ロザリアはその手を見る。
そしてヴィオレッタを見上げた。
「…………」
「ロザリアさん?」
「大丈夫です」
差し出された手を取らず、自分で立ち上がる。
「そうですか」
ヴィオレッタは少し気になったものの、それ以上は何も言わなかった。
「念のため医務室へ行った方がよろしいですわ。慌てて突き飛ばしてしまいましたから、どこか打っているかもしれません」
「はい……」
「誰か、付き添って差し上げて」
「分かりました」
近くにいた女子生徒がロザリアのもとへ駆け寄る。
ヴィオレッタは落ちた花瓶を見上げた。
「それにしても……」
どうして突然落ちたのだろう。
老朽化だろうか。
学院側へ報告しておいた方がいいだろう。
他にも同じような場所があれば危険だ。
ヴィオレッタは教師を探すため、その場を離れた。
残されたロザリアは、友人に支えられながら医務室へ向かう。
「大丈夫?」
「うん。少し腕を打っただけ」
「でもびっくりした。ヴィオレッタ様、いきなりロザリアを突き飛ばすんだもん」
「…………」
「花瓶、危なかったよね」
「そうだね」
ロザリアは小さく答えた。
ヴィオレッタが自分を助けた。
そんなことは分かっている。
彼女が突き飛ばしてくれなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「ヴィオレッタ様、花瓶に気づいてたんだよね?」
「……たぶん」
「じゃあ助けてくれたんだ」
「…………」
ロザリアは黙った。
ここで「そうだね」と言えば終わる。
ヴィオレッタがロザリアを助けた。
それだけの話になる。
だから――
振り返り割れた花瓶を見る。
「でも……」
ロザリアが呟いた。
「え?」
「ううん。なんでもない」
「何?」
「本当に何でもないから」
ロザリアは困ったように笑う。
「ヴィオレッタ様は、私を助けてくださったんだと思う」
「思う?」
「だって花瓶が落ちてきたもの」
「うん」
「だから……きっとそうだよ」
それだけ言う。
友人が怪訝そうな顔をした。
「なんか引っかかる言い方だね」
「そんなつもりじゃ……」
「だってロザリア、ヴィオレッタ様に嫌がらせされてたんでしょ?」
「違うの!」
ロザリアが慌てたように否定する。
「ヴィオレッタ様は悪くないから」
「でも、前から睨まれたりしてたんでしょ?」
「それは……」
ロザリアが視線を落とす。
「今回だって、花瓶が落ちてくるより先に突き飛ばされたんだよね?」
「…………」
「本当に花瓶に気づいてたのかな」
「そんなこと言わないで」
ロザリアが友人の手を握った。
「お願い。ヴィオレッタ様を疑わないであげて」
「ロザリア……」
「きっと偶然、落ちてきたのだから」
偶然。
その言葉だけを残した。
それだけで十分。
翌朝。
学院では事件の話でもちきりになっていた。
「聞いた?昨日のこと」
「ヴィオレッタ様がロザリアを階段で突き飛ばしたって」
「えっ、階段から?」
「落ちそうになったらしいよ」
「怖っ……」
「でも花瓶が落ちてきたって」
「それも本当に偶然だったのかなってみんな言ってる」
「そんな、まさか……」
「だって最近のヴィオレッタ様、ロザリアのこと嫌ってるって有名じゃん」
「もしかして、その花瓶……?」
噂は変わる。
『ヴィオレッタがロザリアを突き飛ばした』
から、
『ヴィオレッタがロザリアを階段から突き落とそうとした』
へ。
さらに、
『失敗した直後、偶然を装うように花瓶が落ちてきた』
という話まで加わった。
そして昼休み。
「ねえ」
一人の女子生徒がエレオノーラへ声をかけた。
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
「いいけど」
「ヴィオレッタ様のことなんだけど……」
「お姉ちゃん?」
エレオノーラが振り返る。
「最近、大丈夫?」
「何が?」
「その……家で」
「だから何の話?」
女子生徒は言いにくそうに周囲を見る。
「ヴィオレッタ様に、酷いことされてない?」
「…………は?どういうこと?」
意味が分からなかった。
「何それ」
「だって、学院で噂になってるから」
「何が?」
「ヴィオレッタ様がエレオノーラの行動を全部決めてるって。友達も自由に選ばせてもらえないとか」
「誰がそんなこと言ってるの?」
「誰っていうか……みんな」
「みんなって誰?」
エレオノーラの声が低くなる。
「それに、ロザリアさんのこともあるし……」
「ロザリア?」
「昨日、ヴィオレッタ様が階段から突き落とそうとしたって」
「…………」
エレオノーラは数秒黙った。
「お姉ちゃんが?」
「うん」
「ロザリアを?」
「そう聞いたけど」
「馬鹿じゃないの?」
「え?」
「お姉ちゃんがそんなことするわけないじゃない」
「でも見てた人もいるって」
「じゃあ、その人を連れてきて」
「え?」
「お姉ちゃんがロザリアを階段から突き落とそうとしたところを見た人。本人から話を聞くから」
「それは……」
「いないの?」
「突き飛ばしたところを見た人なら……」
「階段から突き落とそうとしたところを見た人は?」
「…………」
答えは返ってこない。
エレオノーラは立ち上がった。
「ロザリアってどこにいるの?」
「え?」
「ちょっと本人に聞いてくる」
「ちょ、ちょっと!」
エレオノーラはそのまま教室を出た。
探すのに、それほど時間はかからなかった。
中庭。
ロザリアはいつもの友人たちと一緒にいた。
「ロザリア」
「え?」
突然名前を呼ばれ、ロザリアが振り返る。
「エレオノーラ様?」
「ちょっと話があるんだけど」
「私にですか?」
「そう、あなたの他に誰に話しかけてるの?」
エレオノーラがロザリアの前まで歩いていく。
「昨日、お姉ちゃんに階段から突き落とされそうになったって本当?」
周囲の生徒たちが静かになった。
「え……」
ロザリアが困ったように視線を落とす。
「そんな……私、そんなこと言ってません」
「じゃあ違うの?」
「ヴィオレッタ様は、私を助けようとしてくださったんだと思います」
「思います?」
「はい」
「思いますって何?なんで言い切らないの?」
「だって……ヴィオレッタ様が何を考えていらっしゃったのか、私には分からないから」
「…………」
「でも花瓶が落ちてきましたし、きっと助けてくださったんです」
「じゃあ、それをみんなに言えばいいんじゃない?」
「え?」
「お姉ちゃんが助けてくれたって」
「もちろん、そのつもりです」
「今まで言ってなかったの?」
「そんなことは……」
「学院中で、お姉ちゃんがあなたを階段から突き落とそうとしたって噂になってるらしいんだけど」
「私のせいなんでしょうか……」
ロザリアの瞳が潤む。
「私がもっとちゃんと説明していれば……ごめんなさい」
エレオノーラは黙ってロザリアを見つめた。
「エレオノーラ様?」
「……変なの」
「え?」
「あなた、お姉ちゃんに助けてもらったんだよね?」
「はい」
「なのに、さっきからずっと『たぶん』とか『思います』とか『きっと』ばっかり」
「それは……」
「お姉ちゃんが悪く見える言い方だけは絶対に否定しないんだね」
ロザリアの表情が一瞬だけ固まった。
ほんの一瞬。
周囲の誰も気づかなかった。
だが、目の前にいたエレオノーラだけは見逃さなかった。
「エレオノーラ様、私……」
「もう一つ聞く」
エレオノーラが遮る。
「お姉ちゃんが私を虐めてるって噂も流れてる」
「え……」
「知ってた?」
「噂で少しだけ……」
「それについても、あなたが話してたって聞いたんだけど」
「私はただ、ヴィオレッタ様がエレオノーラ様に厳しいと聞いて心配して……」
「誰から?」
「え?」
「誰から聞いたの?」
「それは……」
「それを私に確認したの?」
「…………」
「してないよね」
エレオノーラは一歩近づいた。
「私はお姉ちゃんに虐められてない」
「…………」
「友達を選ばせてもらえないなんてこともない。出かけるのを禁止されたのは雨の日に傘も持たずに出ようとした時だけ。しかも、その前に同じことして風邪引いてる」
周囲の生徒たちがざわめく。
「そうだったの?」
「でも噂では……」
「全然違うじゃん」
ロザリアの表情が僅かに強張る。
エレオノーラはそんな彼女から目を逸らさなかった。
「ねえ、ロザリア」
「……はい」
「あなた、わざとやってるでしょ?」
「…………え?」
ロザリアが目を見開く。
「何を……ですか?」
「お姉ちゃんが悪く見えるように話してる」
「そんなこと!」
「じゃあ、これからはちゃんと否定して」
「…………」
「お姉ちゃんが私を虐めてるって言われたら、そんな事実はないって」
「もちろんです」
「昨日のことも。お姉ちゃんはあなたを助けたんだって」
「はい……」
「だったらいい」
エレオノーラは背を向ける。
数歩進んでから、もう一度振り返った。
「あと一つ」
「…………」
「私はお姉ちゃんのこと、あなたよりずっと知ってるから」
ロザリアの笑顔が僅かに消える。
「勝手な噂を広めないでもらえる?」
それだけ告げて、エレオノーラは立ち去った。
残されたロザリアは俯いた。
「ロザリア、大丈夫?」
「うん……」
「エレオノーラ様、言いすぎじゃない?」
「いいの」
ロザリアは顔を上げる。
いつもの柔らかな笑顔が戻っていた。
「お姉さんのことが大好きなんだと思う」
「でも……」
「私が誤解されるくらいなら平気だから」
「ロザリアって本当に優しいね」
「そんなことないよ」
笑いながら、ロザリアはエレオノーラが消えた方向を見る。
そして心の中で呟いた。
(やっぱり、この子は邪魔ね)
ヴィオレッタ本人より厄介かもしれない。
噂を流しても、エレオノーラ本人が否定すれば説得力が薄れる。
何より、あの少女は自分を疑い始めている。
「…………」
どうしよう。
ロザリアが考えていると、友人の一人が口を開いた。
「そういえばエレオノーラ様、来週から学院休むんだよね?」
「え?」
「知らない?公爵家の領地へ行くんだって」
ロザリアの目が僅かに動いた。
「どのくらい?」
「二週間くらいだったかな。領地で何か行事があるらしいよ」
「……そうなんだ」
ロザリアは微笑んだ。
「寂しくなるね」
その日の夕方。
公爵家の屋敷では、ヴィオレッタの父が王家から届いた手紙を読み返していた。
第一王子レオンハルトとの婚約。
学院で繰り返される問題行動。
ロザリアへの嫌がらせ。
そして――妹エレオノーラへの虐待疑惑。
「…………」
父親は手紙を机へ置いた。
そこへ新たな報告が届く。
ヴィオレッタがロザリアを突き飛ばした。
事実だけを見れば、それは間違っていない。
だが、その直後に花瓶が落下し、結果としてロザリアを救ったという事実よりも――
『第一王子の想い人を階段から突き落とそうとした』
という噂の方が、遥かに速く王都を駆け巡っていた。
そして数日後。
何も知らないエレオノーラは、公爵領へ向かう馬車へ乗ることになる。
姉の運命が大きく変わる瞬間が、すぐそこまで迫っているとも知らずに。
いつも読んで頂きありがとうございます!
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