雨よ降ってくれ
王都を離れようとします。
買い出しが必要ですね。
王宮を追い出されてから、数時間後。
俺はまだ王都の大通りを歩いていた。
右隣にはリゼット。
左隣にはミネット。
二人ともとても美人だ。
周りから見たら両手に花のとても羨ましく見えるだろう。
俺の護衛をしていた双子の姉妹、そして腕利きの暗殺者だ。
綺麗な薔薇には棘があるのだ。
俺が王宮を出たことで二人の護衛としての役目も終わったはずなのだが、なぜか当然のようについてきている。
魔法の使えない第九王子なんか誰が狙うのだろうか。そもそも第九王子にもなると顔も知らないんじゃないだろうか。
追放された事など公表はされないのであろう。
「ねえ、二人とも」
「はい、なんでしょう?」
姉のリゼットが振り向く。
「本当についてくるの?」
「はい」
「俺、もう王子じゃないよ?」
「存じております」
今度は妹のミネットが答えた。
「給料も払えるか分からないけど」
「当面の資金については問題ありません。私と姉さんにも蓄えがありますので」
「いや、二人の今まで稼いだお金を使わせるなんて」
「でしたら、ルシオン様がお仕事を見つけられるまで私たちが稼ぎます」
「俺が養われる側になってない?」
「お気になさらず」
「気にするよ」
王子だった昨日までとは、ずいぶん状況が変わってしまった。
もっとも、二人が一緒に来てくれたこと自体はありがたい。
一人だったら、何から始めればいいのかも分からなかっただろう。
「それで、ルシオン様。これからどうされるおつもりですか?」
ミネットに聞かれ、俺は少し考える。
「とりあえず、もうここにはいたくないから王都を出ようかな」
「行き先は決まっているのですか?」
「まだ決めてない」
「住居は?」
「まだないね」
「お仕事は?」
「それもないね」
「…………」
ミネットが黙った。
「そんな顔しないでよ。これから決めればいいだろ?」
「ルシオン様が思っていた以上に何も考えていなかったので、少し驚いただけです」
「今日、ついさっきいきなり追い出されたんだから仕方ないじゃん」
「それもそうですね」
俺は大通りの先へ目を向ける。
せっかく自由になったんだ。
どうせなら王都から離れて、静かなところで暮らしたい。
人が多い場所は王宮だけでもう十分だ。
「森があって、川があって、人が少なくて、土地が広い場所とかないかな」
「条件だけ聞くと辺境ですね」
「いいじゃん、辺境。人が来なくてのんびりできそうだし」
「人は来ないかもしれませんけど魔物がいますよ」
「そこはリゼットとミネットがいるし」
「お任せください!」
リゼットが胸を張った。
うん、頼もしい。
昔から力仕事や戦闘に関しては、俺より遥かに頼りになる。
「ルシオン様、私たちを魔物除けのように扱わないでください」
「分かってるよ。俺だって剣くらいは使えるから」
「魔物が出たら私が倒します!」
「ほら、本人もこう言ってるし」
「ルシオン様を甘やかさないで、姉さん」
は
ミネットが呆れたように息を吐いた。
なんだか王宮にいた頃とあまり変わらない。
少しホッとした。
変わったのは、俺が王子ではなくなったことくらいだ。
そう考えると、不思議な事にずいぶん気が楽になった。
二人が来てくれて本当にありがたい。
「では、まずは旅に必要な物を揃えましょう」
ミネットがそう言って、指を折りながら必要な物を挙げていく。
「保存食、飲料水、野営道具、回復薬の類、替えの衣類。それから地図も必要ですね」
「結構あるなー」
「当然です。行き先すら決めていないのですから、余裕を持って準備しておくべきです」
「じゃあ買いに行こうか」
「いえ、私と姉さんで行ってきます」
「俺も行くよ?」
「ルシオン様には別の店を見ていただきたいのです」
「別の店?」
「書店です。王都周辺だけでなく、地方まで載っている地図を探してください。今後住む場所を決めるのでしたら、地理についても調べておいた方がよいでしょう」
「ああ、それなら俺向きだな」
俺は地図を見るのも本を読むのも嫌いじゃない。
むしろリゼットに任せるより適任だろう。
「では、一刻ほどしましたら、この場所へ戻ってきてください」
「分かった」
「絶対ですよ?」
「子供じゃないんだから大丈夫だって」
なぜか念を押された。
リゼットとミネットが人混みの中へ消えていく。
俺も教えられた書店へ向かおうとして――
「……ん?」
何やら焦げ臭い。
どこかで料理でも失敗したのかと思ったが、それにしては臭いが強い。
直後。
「火事だー!」
遠くから男の叫び声が聞こえた。
俺は反射的に声のした方を見る。
建物の向こうから、黒い煙が上がっていた。
「本当に火事か」
書店とは反対方向だ。
一瞬迷ったが、足はすでにそちらへ向かっていた。
路地を抜ける。
その先にあったのは、小さな二階建ての家だった。
窓から炎が噴き出している。
火はすでに一階から二階へ回り始めていた。
「誰か!水だ!水を持ってきてくれ!」
「井戸まで遠いぞ!」
「隣の家にも燃え移る!」
近くにいた住民たちが慌てている。
だが、人手が足りない。
何人かが桶を持って走っているものの、この勢いの炎を消せるとは思えなかった。
「中に人はいないのか?」
俺が近くにいた男へ尋ねる。
「分からねえ!この家には母親と小さな娘が住んでるんだが、母親は仕事に出てるはずだ!」
「娘は?」
「いつもなら家にいる時間だ!」
その言葉を聞いた直後だった。
「たすけて!」
声がした。
二階だ。
煙の向こう。
窓際に小さな女の子の姿が見えた。
「いるじゃないか!」
「おい、嬢ちゃん!そこから動くな!すぐに助けてやるから安心しろ!」
男が叫ぶ。
だが炎は階段付近まで広がっている。
外から入ろうにも、玄関からすでに火が噴き出していた。
「くそっ、どうする……」
水さえあれば。
そう考えてから、俺は自分の右手を見る。
「……水」
今朝のことを思い出す。
俺には魔力がない。
何度やっても魔法は使えなかった。
それは分かっている。
だけど――
「そうだ、やるだけやってみよう」
女の子がいる。
何もしないよりはいい。
俺は燃え盛る家へ右手を向けた。
呼吸を整える。
今朝と同じように、正しい術式を頭に描く。
「清き水よ、我が呼びかけに応え、その姿を現せ――《ウォーター》!」
…………
やはり……何も起きなかった。
一滴の水すら出ない。
「やっぱり駄目か……」
分かっていた。
分かっていたんだ。
分かっていたはずなのに。
くそっ、こんな時くらい使えてくれてもいいだろ。
「お兄ちゃん!」
女の子の泣き声が聞こえる。
炎がさらに大きくなった。
二階の窓から黒煙が噴き出す。
「くそっ!」
俺に魔力があれば。
水魔法が使えれば。
せめて――
雨でも降ってくれれば。
今まで雲一つ気にしていなかったのに、俺は空を見上げた。
「頼むよ……雨でも何でもいいから降ってくれよ!」
水が必要だった。
あの子を助けられるだけの水が。
この炎を全部消せるくらいの雨が。
今すぐに、そう願った。
その瞬間だった。
ぽつり。
「……ん?」
頬に冷たいものが当たった。
雨?
空を見上げる。
ぽつり。
また一滴。
そして――
ザアアアアアアアアッ!
「うわっ!」
突然だった。
滝のような雨が降り始めた。
「雨だ!」
「なんだ、急にこの豪雨は!?」
「いいから水をかけ続けろ!火が弱まってるぞ!」
周囲から歓声が上がる。
屋根を叩くほどの豪雨が、燃え盛る家へ容赦なく降り注ぐ。
炎が急速に弱くなっていった。
「すごいな……」
さっきまで雨の気配なんてなかったのに。
でも、助かった。
今は理由なんてどうでもいい。
「今なら入れる!」
男たちが玄関へ走る。
「俺も行く!」
「待て、まだ危ねえぞ!」
「二階にいるんだろ!」
火の勢いはかなり弱まっている。
俺は濡れた布で口元を覆い、家の中へ飛び込んだ。
煙の中を進み、階段を駆け上がる。
「おい、どこだ!」
「ここ!たすけて」
奥の部屋から声がした。
扉を開けると、小さな女の子が床に座り込んでいた。
その腕の中には、一匹の小さな犬が抱かれている。
「大丈夫?」
「お兄ちゃん……」
「もう大丈夫だ。外に出よう」
「この子も……」
「もちろん一緒だよ」
女の子を抱き上げる。
小さな犬もしっかり抱えているのを確認して、来た道を戻った。
外へ出た瞬間、大きな歓声が上がった。
「出てきたぞ!」
「無事だ!」
「よかった……!」
女の子を近くの女性へ預ける。
幸い、大きな怪我はなさそうだった。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「俺は運んだだけだよ」
女の子が抱いている犬も、元気そうに尻尾を振っている。
「でも、ありがとう」
俺は空を見上げた。
雨はまだ降っていた。
「それにしても……」
すごい偶然だ。
雨でも降ってくれればと思った直後に、本当に降り出すなんて。
こんなこともあるんだな。
しばらくすると、火は完全に消えた。
そして――
「あれ?」
雨も止んだ。
本当に突然だった。
さっきまでの豪雨が嘘のように、空が明るくなっている。
「本当に変な天気だな」
最近はこんな雨の降り方もするのだろうか。
俺は濡れた髪を手でかき上げる。
「まあ、助かったんだからいいか」
書店へ行かないと。
ミネットから一刻で戻れと言われている。
遅れたら何を言われるか分からない。
俺は火事の現場を離れ、大通りへ戻った。
少し歩いたところで足を止める。
「……えっ?あれ?」
足元を見る。
乾いている。
振り返った。
火事のあった家の周辺は、まだ屋根や道から水が滴っている。
なのに、少し離れたこの場所には水溜まり一つない。
「へえ……」
俺は火事のあった場所と、乾いた道を交互に見る。
「ずいぶん狭い範囲に降ったんだな」
雨というのは、もっと広い範囲に降るものだと思っていた。
でも実際に目の前で起きたんだから、そういうこともあるのだろう。
「こんな偶然もあるんだな」
ちょうど水が必要な時に。
ちょうど火事の場所だけに。
そして火が消えたら、すぐに止んだ。
運が良かった。
俺はそれ以上深く考えず、今度こそ書店へ向かった。
この時の俺は、本当にただの偶然だと思っていた。
まさかあの雨が――
俺自身の願いによって生み出されたものだなんて、考えもしなかった。
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