7 夕と夜の間
ガクが図書館に来て、ひと月ほどが経とうとしていた。
春はその盛りを迎え、花の香りが夜風に感じられた。
夜空の色も、どこかあたたかくなったようだ。
図書館に現れるのは、相変わらずヨアだけだった。
彼はいつも、夜の色が一番濃くなると現れ、日が昇る前に帰る。
その頻度は週に一度か二度で、時折本を借りることもあった。
ガクは何度か話しかけようとした。
けれどヨアは、椅子に座ると本の中の世界に入り込んでいるのではないかと思うほど集中するため、挨拶以外はほとんど話せていない。
それでも、ヨアがいる空間はやはりどこか心地よく、張りつめた糸が緩むような安堵を感じた。
ガクは天窓を見上げる。
今日の空は、まだあたたかい夜の色には染まっていない。
日が長くなり、夕と夜の間、紫色に混じる色が赤から青に映ろう、僅かな時間が訪れるようになった。
ガラスを支える骨組みの、淡い影が落ちる。
あの天井の裏に隠された部屋には、ヨアが現れなかった日に時々行き、掃除をしたり、本を読んだりしていた。
もちろん、文字は読めないが、挿絵から予測したり、同じ文字を見つけたりしているうちに、読み取れる文字が増えてきた。
点と点が繋がるように文の意味が分かった時、全く知らない分野の学問書を目の前にした時のように気持ちが昂った。
といっても、本全体の内容を読み取れるようになるには程遠い。
やはり特異的に古いか、遠い国の言語なのだろう。
この図書館の中でも、参考になる本は未だ見つけられていない。
ガクは手元に向き直り、今日も一人で作業を進める。
ヨアが訪れたのは三日前であるから、今日あたりに来るだろうと考えていると、扉の開く音が響いた。
ヨアが来る時間はまだ先だ。
今日は早めに訪れたのだろうか、とガクは手を止めた。
視線の先、赤と紫の空気の中に現れた影は、ヨアよりも随分と背の低い人だった。
その身体は深い色のローブに包まれ、頭から被っているせいで、顔さえ影になって見えない。
その人が歩く度、ローブの模様がゆらりと揺れた。
よく見ると、ローブにしがみつくように、もう一つの小さな影がある。
「誰だ、」
その影が立ち止まり、ローブの中から声が響いた。
老齢な男性の、低く掠れた声だ。
ガクは立ち上がり、その見えない視線を受け止め、名乗った。
「新しく司書となりました、ガクといいます」
その人は動かず、影の中からじっとガクを見つめていた。
ガクも呼吸だけをしながら、ただその視線を受け止める。
赤紫の光が角度を変えた。
その光が煉瓦色だったローブの模様を浮かび上がらせた。
大きな模様が彼の呼吸に合わせて動く。
「以前の司書と違うといいがな」
疲れて息をつく時のように吐き出された言葉は、少しのあざけりを含んでいるように聞こえた。
ガクは何も言わず、次の言葉を待つ。
しかし、彼は再度短く息を吐き出しただけで、身体の向きを変え、本棚の中へと消えた。
空の色はあっという間に夜へと移ろっていく。
本棚の影に消える背中を見送り、考える。
「以前の司書と違う」とはどういうことだろうか。
「違う」という言葉に、ガクは自身の瞼に触れたが、彼の物言いからするに、それは関係ないのだろう。
第一、 彼に「瞳」を見分けることはできないはずだ。
息を吐いて瞼から指を離した。
すると、下からガクを見上げている影に気が付いた。
先ほどまでローブの影に隠れていたのは、可憐な少女だった。
明るく長い髪が、人形のような顔の周りで波打つ。
桃色の頬が、あまりに夜にそぐわない。
彼女の大きな目を見て、ガクは気付く。
髪と同様、人より色素の薄い左右の瞳は、その焦点が若干ずれていた。
「新しい司書さんね」
ガクは彼女の視線に合わせてしゃがむ。
「ええ。こんばんは。ガクといいます」
「私はリュイよ。さっきの人は、ロウンさん」
盲目なのだろう彼女は、可愛らしい声でそう教えてくれた。
彼女の、明けきる前の朝の日のように柔らかい瞳が細められる。
「良かった。前の司書さんはいる日の方が少なかったから、ロウンさんが呆れてたの」
ガクはその言葉に納得した。
ロウンという名の彼が、前の司書とガクを比較するようなことを言ったのは、そういう理由からなのだろう。
リュイは楽し気にガクを見る。
「ガクさん、ヨアにはもう会った?」
何も映していないのだろうリュイの瞳は、他の人のように光を取り入れるのではなく、淡く湛えているようだった。
ガクはその光に目を細め、頷く。
「ええ。でも、あまり話せていません」
「ヨアはね、いつも落ち着いてて、たくさんは話さないけど、すごく優しいから。きっとすぐ仲良くなれると思うよ」
とリュイは微笑んだ。
そうだといいです、とガクは優しく返す。
「あとは、ウォンさんも夜の図書館に来るの。ヨアは良く来るって言っていたけど、ロウンさんと私は時々だし、ウォンさんはもっと少ないの」
指折り数えるリュイに、初めて耳にした名を聞き返そうとしたとき、
「いない人のことをぺらぺらと話すんじゃない」
と、声が響いた。
本棚の方、ロウンが本を持って立っている。
リュイはロウンの言葉を全く気にしていないと言うように、嬉し気に手を伸ばす。
ロウンは、リュイに近づいて、彼女の髪の絡まりを整えた。
そして、ガクに目を向けずに閲覧机に座ると、本を開く。
リュイはロウンにぴったりとっくついて座り、時々あの可愛らしい声でロウンに何かを話していた。
ヨアは、やはり夜が一番濃くなると現れた。
いつものようにガクに頭を下げると、今日は本棚には向かわずに、ロウンとリュイの下へ行く。
ロウンに凭れながら舟を漕いでいたリュイは、ヨアに気付くと飛び起き、その腰に抱き着いた。
ヨアはその頭を撫でながら、ロウンと言葉を交わす。
何を話しているのかは聞こえないが、ヨアの顔にはささやかな笑みが浮かんでいた。
そして、話を終えてリュイに声をかけ、いつもの席に本を持って座った。
今日も、本の中に入り込むように集中する。
ガクは天窓を見上げた。
いつもより人が多い空間では、夜空の色も香りも薄れているように感じた。




