3 神話の陰
夜闇に浮かぶ白く細い身体が近づき、まっすぐな髪から覗く目がガクを捉える。
ガクは、立ち上がったまま動くことが出来なかった。
その目に出会ったのは、ここが初めてではない気がした。
揺れる灯りを映す瞳は、淡く、たっぷりと水を含んだ黒色の水彩絵の具のように、透き通っている。
この少年に出会った覚えはない。
けれど、確かに見たことがあるのだ。
記憶の中で、少年と同じ、薄い黒色の虹彩が、ガクを捉えている。
いつだろうか。
その瞳の持ち主は、誰なのだろうか。
「新しい司書の人?」
少年の言葉に、ガクははっとする。ガクよりも低い声だった。
「ええ、そうです。ガクといいます」
ガクが答えると、少年はガクの名を確かめるように小さく口にした。
「あなたは?」
ガクが尋ねると、少年の、僅かに開いた口から音が零れた。
「ヨア」
ガクも、頭の中で彼の名をなぞる。響きの美しい名前だが、聞き覚えは無かった。
「ヨアは、よくここに来るんですか?」
「うん」
「そうですか。僕も今日から毎日いるので、困ったことがあったらいつでも声をかけてください」
ガクがそう言って微笑むと、ヨアは頷いた。その目は既にガクから外れている。
ヨアはもう話すことは無いと言わんばかりに小さく頭を下げると、ガクの横を通り過ぎて本棚の方へ歩いて行った。
ヨアの背中が本棚の中に消えるのを見届けると、ガクも確認を終えた本を抱えて天窓のある部屋を出る。
廊下には、春の夜の風が心地よく吹いていた。
先ほど感じた、ヨアの目への既視感は、起きてすぐ夢を忘れるように、その風に乗って薄れていくのを止められなかった。
ヨアは静かな少年だった。
一冊だけ本を持って閲覧机に座り、黙々と本を読み進めている。
本を戻し終えたガクは、再び中央の机で作業を始める。
部屋には、ガクが作業をする音の他に、ヨアが紙をめくる音があった。
控えめに辺りに響いて消えていくのが心地よい。
その音を聞きながら、ガクはまた本を積み上げていく。
夜の香りが、穏やかに辺りに満ちていく。
時間の流れが緩やかになっていった。
ふと、何かに警戒するように強張る身体から、力が抜けていくのを感じた。そうして初めて、常に何かに対して身構えていたのだと気付いた。
それが何なのかは分からない。
けれど、ガクは思わず息をついた。
彼が纏う夜の香りのせいだろうか。自分と相手だけの空間は苦手だったが、ヨアだとその緊張感が無かった。むしろ春風のように、好ましいとさえ感じた。
辺りの夜の色が薄くなり始めた時、椅子を引く音が聞こえた。
顔を上げると、ヨアが立ちあがって、本を棚に戻しに行っている。
時計を見て、夜明けが近いことを知る。
こんなにも長い時間が経っていることに驚いた。
帰るのだろうか、とヨアをぼんやりと眺めていると、目が合った。
その薄い黒色の瞳に、忘れていた既視感が再び湧き上がる。
ヨアは小さく頭を下げ、扉へと向かった。
薄闇の中にその姿が消え、扉が閉まる音が響いた。
再び静寂が広がる中、ガクはヨアが座っていた閲覧机に目を向けた。
椅子は丁寧に収められ、端から誰も座っていなかったようだ。それでも、淡い夜の香りはまだ微かに残っている。
彼は、どうして夜の間に図書館を訪れるのだろうか。
ガクは、天窓を見上げる。
夜空の色は、もう随分と淡い。すぐに朝日が昇るだろう。
この国の人々は、ずっと昔から夜闇を厭うてきた。
そんななか、一人の少年が、夜に図書館を訪れる理由が、ガクは気になった。
遠い昔、太陽の神が、才能のある子供たちに創らせたのが、この国だった。
あらゆる自然に宿るために何万という神の中で、最も偉大なのが、太陽の神だ。
太陽の神は、何の秩序も成っていない世界を一から形作るため、〈太陽の一族〉と呼ばれる子供達をこの地に降ろした。
長時間日光が差し、豊かな自然があるこの地に、他国の模範となる理想の国を創り上げるためだ。
〈太陽の一族〉と呼ばれる彼らは、白日をも見据える頑強な瞳をはじめとする、優れた能力で、もともと根を下ろしていた野蛮な民族たちを放逐した。
土地を開き、種を植え、文明を築いていった。
現代でも、豊かな日差しのもとに育つ作物や家畜は、周辺国への大事な交易品だ。
始めは十人にも満たなかった一族は、子供を産み、繁栄していく。
そして、〈太陽の一族〉のうち、太陽の神の長男が、王となった。
その血筋は、千年経った今でも受け継がれている。
〈太陽の一族〉の子孫であるこの国の民は、尊い太陽の加護を受けて平和な日々を送ることができているのだ。
ただ、〈太陽の一族〉から外れ、太陽の神の加護を受けることのできない人が、稀に存在する。
数は極めて少ないが、僅かな光でも強い刺激となる、脆い瞳を持つ赤子が生まれてくることがあった。
彼らには頑強な瞳はもちろん、〈太陽の一族〉が持つ優れた能力も与えられない。
彼らはかつて、太陽の神を裏切り、陥れようとした。
天に昇ることも許されず、死んでは生まれ直し、罪を償い続けなければならない。この国の正史にも、そう記されている。
彼らは〈瞳を持たない者〉と呼ばれ、長い間人々から蔑まれてきた。
一方で〈瞳を持たない者〉は、日が差さない中、難なく行動する。
僅かな光も刺激となる瞳では、眩しすぎる昼より、夜の方が過ごしやすかった。
太陽に守られているこの国において、「夜」は正と反対にある。
闇夜の中、わざわざ行動するのは、罪を犯して太陽の神の下に行くことを許されない死者の魂、正しく回る社会から外れた者、そして、〈瞳を持たない者〉達だ。
そういう理由から、猶更〈瞳を持たない者〉は厭われてきた。
そして、ガクもその一人だった。




