2 夜の番
「夜の番とは、」
ガクが男に問い返すと、男が僅かに目を眇めた。
「そのままの意味です。この図書館は『太陽の日』以外、その門を閉じることはありません。たとえ真夜中だとしても、です。しかし、夜の来館者は少ない。そのため、日が沈んだ後は『夜の番』が一人で業務を行うのです」
「一人で、ですか」
男は目を細めたまま続ける。
「あなたは、あの中央学校を大変優秀な成績で卒業し、官吏登用試験の結果も頭一つ抜けていました。このような役目は造作もないでしょう」
彼の、僅かに片方だけ上がった口角を眺めながら、ガクは、ああ、だから自分が選ばれたのか、と思った。
「期待に添えることができるか分かりませんが、精一杯つとめます」
平坦な声でそう言ったガクに男は眉を顰めたが、すぐにもとの表情に戻った。
「では、業務内容を説明します」と言って踵を返す。ガクは黙って男に付いて行った。
全ての説明を聞き終わり、司書用の宿舎に案内されたのは、夕日が見える頃だった。
充てられた部屋に荷物を置き、少しだけ食べ物を口に入れる。
昼ご飯は食べていないが、その分を今食べられる気はしなかった。
日が沈む前に、支給された白い上着を羽織って、部屋を出る。
城に再び足を踏み入れると、夜の色を帯び始めていた館内を、等間隔に並んだランプが照らしている。
壁に取り付けられたそれらは、広間を優しく照らし、階段、廊下へと続く。扉を押し開けて天窓のある部屋へと入ると、春の宵の淡い色に染まった室内にも、同様に灯りがともされていた。
夜の図書館というのは、なんとも不思議な空間だった。
閲覧机や磨かれた大理石の床に揺れる灯りが映り、そして本棚に柔らかい影を落とす。
その中で、並んだ本の背表紙がぼんやりと浮かんでいた。
現実でないようなその美しい温度に、ガクの胸が静かに高鳴る。
昼の間に働く司書は、順に灯りを点け終え、荷物を纏めると天窓の部屋をあとにする。
ガクとすれ違う時、誰もがガクに対して何も言わず、居心地の悪い視線を向けたと思えば、会釈だけしてすれ違った。
ガクも、淡々と会釈を返す。
この図書館の司書は、誰もが、ガクが夜の番に選ばれた理由を知っているのだろう。
ガクは、部屋中央の作業机に歩み寄った。
腰を下ろした椅子は冷たく、塵一つ残らず片付けられた机は、一人で使うにはあまりにも大きい。
その机の上に昼の間に渡された紙を広げていくうちに、遠くの方で扉の閉まる重い音が響いた。
とたん、部屋には先ほどまでの穏やかな静けさとは違う、継ぎ目一つない静寂が広がる。
利用者も全ていなくなった部屋はがらんとして、ただ夜の冷たさを纏い始めた風に、室内を照らす灯りが揺れていた。
ガクはその様子をしばらく眺めると、積み上げられた本に手を伸ばした。
どこからか梟の泣き声がする。
図書館の夜は、普通の夜よりずっと澄んでいる分、現実の世界との間に隙間があるようにも感じた。
ガクは、昼間に教えられた通り、返却された本を丁寧に確かめ、貸し出された時の記録と照らし合わせていく。
昼に返された本は昼の司書達が確認をするが、業務を交代する直前に返された本や、確認が間に合わなかった本はガクが引き継ぐらしい。
途中、机の端に置かれたランプの光が眩しく感じて、側面のネジを回した。
金具芯が短くなり、机に散らばる光が薄くなる。
上を見上げると、天窓から夜空が見えた。
水のように透明なガラスが、夜空を切り取る。
晴れた、綺麗な星空だった。
星空を見ると、いつも思い出す光景がある。
九年前に見た、星が夜空から降る様子だ。
その時11歳だったガクは、生まれ育った故郷で星が降るのを見た。
夜空がどこまでも透き通った夜、まるで雪が降るように空から星が降ったのだ。
初めて見る景色に、ガクは息が詰まるほど魅了されたのを覚えている。
降る星が辺りを照らす様はあまりに美しく、小さな胸から溢れんばかりの感動が、少しの痛みさえ感じさせた。
けれど、あれ以来星が降ることはなかった。
時が経つにつれ、あれはやはり夢だったのだろうと思うようになった。
星が空から降ってくることなど、普通に考えるとあり得ない。
それに、あの夜のことをさりげなく他人に尋ねてみても、怪訝な表情を向けられるだけだった。
中には、本好きの子供が謳う妄想だと嗤う大人もいた。
ガクと同じように、星が降っていたと言う人は誰一人いなかった。
天窓から見える夜空は美しいが、星が降った日の夜空には及ばなかった。
何が違うのだろうか。
色だろうか。星の数だろうか。それとも、ガクの方が変わってしまったのだろうか。
ガクは天窓から視線を逸らし、再び作業に向き直る。
現実かどうか分からないことを考えても、何にもならなかった。
机の上には、本の山があった。
本には幼い頃からずっと親しんできたが、やはりその香りを直接感じ、紙に触れると心が躍る。
古く、指に引っ掛かるような紙質の学術書や、美術品のように凝った装丁の物語。そして、手の平に収まるほど小さな詩集。
借りた人を想像しながら、一冊一冊確認し、積み上げていく。
国で一番の規模を誇るだけあって、この図書館に収められている本の数は膨大だ。
今いる天窓のある部屋に収められているのは蔵書の一部で、より専門的な本は、分類ごとに分けられ、城の各部屋に収められている。
昼間に説明を受けたそれらの部屋を存分に眺めるのが、ガクは楽しみだった。
ある程度本が積み上がり、身体が固まってくると、一度本を戻すついでに城を見て回ろうと、ガクは積み上げた本に手を伸ばす。
やはり夜の間の来館者は相当少ないのだろう。
一度も開いていない扉は、闇に沈んだままだ。
しかし、ガクが引いた椅子が音を立てるのと同時に、重い音が部屋に響いた。
闇に沈んでいた扉が開き、入ってくる日と共に一層濃い夜の香りが吹き込む。
現れたのは、十五歳ぐらいの少年だった。




