1 司書となった青年
王族専用の書庫が図書館として民間に開放されたのは、今から二百年ほど前のことだった。
都のはずれの自然豊かな地域に、一つの城がある。
遥か昔、王妃だった城の主は読書を好む人で、国のいたるところから集めた本をその城に保管していたという。
そして、主を喪ってその役割を終えた後、城は王室の書庫となった。
王族のなかでも限られた者しか出入りできなかったその書庫は、二百年ほど前に全ての身分の者が利用できるよう、多少の改修を経て開放され、国で一番大きな規模を誇る公共の図書館になった。
ガクは、目の前に広がる景色を静かに眺める。
春先の清廉で穏やかな香りが風に乗って、ガクの髪を揺らした。
その風は木々の葉を優しく鳴らし、城の周りの湖面を撫でて吹き去る。
小波がおさまった水面に映るのは、青い森に囲まれ、刈り揃えられた芝生の中に佇む、一つの城だった。
白い石壁と灰青色の屋根が、春の空に映える。
繊細で、荘厳な姿だ。
国で一番大きな図書館の存在は知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。
都から遠く離れた地方で生まれ育ったガクは、つい先日に卒業した学校への入学のために都に上った。それ以降、学校附属の図書館しか使ってこなかった。
これだけ美しい場所だったのなら、もっと早く訪れるべきだった、とガクは思う。
重い鞄を持ち直し、ガクは、今日から自身の仕事場になる城へと再び歩き出した。
城の入り口で待っていたのは、白衣のような上着をまとった、不愛想な男だった。
ガクを見ても、痩せて頬骨の出た顔を全く動かさない。
彼はガクが近づくと、「ようこそ」と会釈をした。やはり、表情は変わらない。
ガクは男に礼を返し、
「今日からお世話になります。ガクと申します」
と名乗った。
男は「存じております」とだけ言うと、ガクに付いて来るように示して城の中へと入った。
城に足を踏み入れたガクを始めに迎え入れたのは、開放的な空間だった。
外壁と同じく白い石壁が美しい空間で、立派な柱がはるか上方でアーチ型に集合する。
規則正しく並んだ窓からは、ささやかな光が差し込んでいる。
この国では、日光を内部に取り入れる開放的な建築方式が一般的だが、この城は違った。
相当昔に建てられたからだろうか。
柱は太く、窓は少ないために入る日差しが控えめだが、圧迫感は無い。
逆に、無駄なく屋内が照らされ、日差しに石壁が柔らかく浮かび上がるのが好ましかった。
優しく、しかし厳かな空気で満ちた空間は、どこまでも静かだ。
ガクは、肌が粟立つほど広い空間にゆっくりと視線を巡らせる。
息を吸うと、石壁の香りに混じって自然の香りが感じられる。
歴史には名前しか残っていないが、かつての主は、この城に見合う聡明な人だったのだろう。
過去に思いを馳せていると、前方で咳払いの音が響いた。
ガクは男の下に急いだが、彼はガクが追いつくのを待たずに踵を返して歩いて行く。
広間には、ガクと男の足音だけが響いた。
広間を抜けると、目の前に一つ、巨大な階段が現れた。
ゆるやかな勾配で、上階へと続く。
階段の右手には、ガクの背丈の倍ほどはある、重厚な扉があった。
案内の男はまっすぐ扉へ歩くと、骨が浮き出た手でゆっくりと押し開いた。
人ひとりが通れるだけの隙間を作った彼は、ガクに目をやり、先にその扉の中へ入る。
ガクも彼の後に続き、その隙間に身体を滑り込ませた。
背中で、重い扉の閉まる音がした。
「ここが、今日からあなたの仕事場です」
男は視線を前に向けたまま、静かな空間を慮って、囁くようにガクに伝えた。
しかし、ガクは返事をすることが出来なかった。
目の前に広がる部屋の規模が、想像を遥かに超えていた。
筒状になっているその部屋は、先ほどの広間より広大だ。
ガク達が立つ一階では、円の中央部分が机で区切られ、その中で、男と同じような白い上着を着た人々が忙しなく動いていた。
視線を上げると、側面の壁が全て本棚で埋まっているのが見える。
それらははるか上方にある天井まで届いており、円形に吹き抜けたバルコニーがいくつも張り出していた。
一階では、司書達が働く中央から、同心円状にたくさんの机と背の低い本棚が並び、利用者とみられる人々が、思い思いに座って本を読んでいる。
しかし何より、天井が全てガラスであることが、ガクを驚かせた。
ドーム型の天窓の大きさは、今まで見たことのないほどで、放射状に伸びる骨組みさえ美しい。
広間の窓とは一変して、明るい日差しを取り込んではいるが、やはり眩しすぎない。
透き通った日差しはどこまでも柔らかく館内を照らしている。
多くの人が歩き、あるいは足場に上って本棚に手を伸ばし、紙をめくっている音が聞こえる。ささやかだが、様々な音が、心地よく響く。
ガクは、室内に満ちる柔らかい本の香りを吸い込んだ。
「あなたには、夜の番を任せます」
しかし、男の言葉に、ガクは思わず彼を見た。




